第15話 年相応

 蘭子は息を呑んだ。修治郎は続ける。

「君は、言葉にできるのだな。羨ましい。羨ましいよ、とても」

 言葉の意味をゆっくり飲み込むように蘭子は黙り込んで、続きを待った。

「……僕は」

 掠れた声で漏らしたきり、修治郎はあっさり諦めて目を閉じた。 

「すまん。僕もだいぶ参っていたみたいだ」

 力の抜けたようにそう言って、蘭子の首筋に触れる。

 蘭子は目を見張り、身構えた。

 しかし今度は、その指は優しく首元を包む。細い指から確かな熱が染みた。

「跡にならないといいが」

 何やらにわかに、今度は蘭子がむず痒くなって、上がった声で言い出した。

「あの、アンシュさんが協力してくださるそうです」

 修治郎は手を下ろさないまま、何のことかねというように蘭子を見つめた。

「ハサウェイのお嬢様を、正統的に追い詰めるのです。暴力じゃなくて、ちゃんと正攻法で」

「何だ、そんなことか」

 修治郎の反応に、蘭子は少々むくれて返した。

「そんなことって、襲われたのは修治郎様でしょう」

「ああ、そうだよ」

 蘭子から手を離すと、修治郎は先程よりも幾らか張りのある声で呟く。

「あまりにも当然のこと過ぎてな」

 修治郎は肘をついてゆっくり起き上がると、軽く指を組み、暗がりで不敵な笑みを浮かべた。

 変わらない表情だ。綺麗な顔立ちに浮かぶ、不機嫌で不遜で偏屈な。

 蘭子は心中で、溜息が出ていたことに気がつく。だいぶ毒されてきてしまったのだろう。この顔を見て安心してしまうだなんて。

「ああいった小綺麗な人生を歩んでいるふりをしている人間が僕は一番嫌いだ」

 言葉の真意を測りかねた蘭子は、自然と問い返していた。

「修治郎様だって、充分良い人生を歩まれているでしょう」

「違う、違うんだ。僕は生きづらいことこの上ない。何と言えばいいだろうか」

 修治郎はそのまま少々言葉に迷っていたが、やがてまあいいかという風に溜息をついた。それを見た蘭子も、意味を測るのを諦めて腰を上げた。

「体がお冷えでしょう、紅茶を淹れてきますね」

「待て蘭子」

 蘭子は動きを止める。修治郎は暗がりをまさぐって、一冊の本を取り出した。

「頭を下げていろ」

 蘭子は訳も分からす、言われるがまま身を屈めた。

 修治郎は扉に向けて、ひょいと軽く本を投げた。

 コンという音と同時に聞き慣れた声。

「わっ」

「!」

 蘭子は一瞬で顔を赤らめる。 

「喜一郎様!」

 恐る恐る、といったふうに扉が開き、廊下の明かりとともに喜一郎がひょっこりと顔を出す。

「あのね、修治郎……」

 とても申し訳なさそうな声で喜一郎は部屋に入ると、灯りをぱちんとつけて言葉を発す。

「蘭子さんから電話を貰って、不安で不安ですぐ帰ってきたのだけれど……こんな暗がりで一体蘭子さんに何をしようとしていたんだい」

「人聞きの悪いことを言うな盗聴兄貴」

 すっかり普段の調子に戻った修治郎が嫌そうにそう言うと、喜一郎はにこやかに頷いて返す。

「冗談だよ。ねえ修治郎」

 それから真剣な顔で続ける。

「修治郎だって、これまでちゃんと成長できたことが沢山あるんだ。これからだってもっと」

「まさか、聞いていらしたのですか喜一郎様!」

 慌てる蘭子に喜一郎は、感慨深げに笑みを向ける。

「蘭子さん。やっぱり修治郎の隣には貴方が必要だとよく分かったよ。貴方がロンドンに着いてきてくれて本当によかった」

「い、いえ、それは修治郎様が決めることで……」

 明るくなった部屋で、蘭子は逃げるように修治郎に目をやった。無邪気なままの瞳と寝癖でふんわり盛り上がった髪が目に入り、再度慌ただしく俯いた。

「なあ蘭子」

 修治郎は毒のない声音で問うた。

「僕には、成長できるところはあるだろうか」

 蘭子はゆっくり顔を上げる。これまで聞いたことのない程に、素直で無垢なその問いだった。蘭子は心底から笑みが湧き上がって、喜一郎と目を合わせるとこう一言。

「修治郎様は充分な素質がございます。私からしてみれば、羨ましいことこの上ありません」

「例えば」

 蘭子はほんの少しだけ照れくさそうにして言った。

「イギリスに留学できるくらいとても聡明ですし、英語の発音も素晴らしいですし、財閥のご令息ですし、お顔もよろしいですし、忘れがちですけれど私より年上ですし、もう充分揃いすぎですよ」

「多少皮肉が混じっていた気もするが」

 喜一郎が穏やかな声で割り入った。

「何を言うんだ修治郎。僕だって同じだよ。修治郎のそんなところが、弟として可愛くて仕方ない」

「純粋に気持ち悪い」

 嫌悪感をむき出して目を細める修治郎に、喜一郎は苦笑いを浮かべた。

「酷いよ」

 蘭子は微笑ましげに笑っている。

「そろそろ、夕食の支度をしましょう」

 そう言って蘭子が立ち上がると、喜一郎も手伝うよと声を掛けた。

「修治郎は寝ていなさい。身体が痛むだろう」

「言われなくてもそのつもりだ」

「思ったより元気そうで良かった。蘭子さんの手当のおかげかな」

 言われて再度、何やら恥ずかしくなった蘭子は、照れ隠しのように話題を逸らした。

「ああ、そうでした修治郎様。アンシュさん、修治郎様と同い年なんですって」

 修治郎は目を見開く。分かりやすい驚きの表情だ。

「あんな小さい身体でか」

「修治郎様よりは背は低いですが、そこまで小さい方ではありませんよ。でも、何故でしょうね。何だかすごく幼い印象があります」

「声とか、話し方だろうか」

「ああ、蘭子さんが前に言っていた、修治郎のお友達候補だね。良かったじゃあないか」

 喜一郎が返すと、修治郎は呆れたようにぼそりと言った。

「君達二人で、僕の両親気取りかね」



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