第9話 シャーロット・ハサウェイ



 シャーロット・ハサウェイ。

 大手資産家ハサウェイ家の長女で、修治郎様の通う学校の生徒会長。

 成績優秀、スポーツにも秀で、テキパキと何でもこなす性格から教師陣からの評価も抜群。好感を寄せる生徒も多く居る一方で、資産家の娘でありながら、いわゆる庶民階級の集うグラマースクールに通っているといった謎な部分もあり、噂好きな生徒から何かと標的にされることも多い。

 噂、そう例えば、生徒会選挙の時に他の候補者を陥れる怪文書を回したとか、部費の割り当ての少ない部活に賄賂を贈り自分に票を投じさせたとか、事実かそれとも彼女をよく思わない生徒の嫌がらせか分からない、根も葉もない噂が影では多く蔓延しているらしい。

 その後蘭子が思い出せた情報といえばそのくらいであった。おおよそ彼女にとって、会った通りの印象である。

 修治郎が彼女に粗相を働いてからの二日間、蘭子はもっぱら気を揉んでいた。ひとまず喜一郎に相談してはみたが、まあ大丈夫でしょうとあまりまともに取り合ってくれなかった。お互いの会社の跡継ぎ同士の喧嘩でもないというのに、そこまで問題にはならないだろうというのである。シャーロットの優秀な兄、オリバー・ハサウェイは、跡取り同士として喜一郎と歓談を重ねた仲だ。

 喜一郎の言う通り、別にこれといってまずいことは何も起きなかった。主人の課題を提出しに行っても、理事長から特に普段と変わらぬ苦言以外のことが飛んでくることはなかった。ハサウェイ家から文句が来るだの、学校から連絡が来るだのを恐れてひやひやしていた蘭子だったが、次第に杞憂に思うようになっていた。

 そんな蘭子の傍ら修治郎はやはり一歩も外に出ることなく自室に引きこもり、本を読むとか、何やら難しい計算やら文章やらを原稿用紙に殴り書いては床に撒き散らすとか、ともかく相変わらずであった。蘭子はそんなある日、紅茶を修治郎の部屋に運んだ。修治郎は蘭子を振り向きもしなかったが、手に持っているのは電気工学の入門書であった。紛れもなくアンシュを意識したものだと確信した蘭子が、あまりの嬉しさに喜一郎にそのことを報告すると、彼も彼で仏のような笑みを浮かべ、感慨深そうに何度も頷いた。温かい眼差しを向ける二人の同居人に、修治郎は終始心底気味が悪そうな目を向けていた。

 日曜日は曇り空であった。

 修治郎は蘭子に押されるがままコートを着たはよいが、今回は部屋からしばらく出ようとしなかった。黙ったまま床で小さくなり、がんとして動かぬといったふうに額を擦り付けている。

「今更何を怖じ気づいているのですか」

 蘭子が背中を叩くと、修治郎は子供のように首を振る。あんなに平気だったではありませんか、工学の本も読んでいたではありませんか、アンシュさんが待っていますよと声を掛けても応じない。蘭子が正面に回り、両手を力づくで引っ張ることでようやっと立ち上がることができた。

 蘭子はともかく、この主人を陰鬱な空気から救い出せるまたとない機会に息を巻いていた。

 そのまま修治郎は俯き、とぼとぼと玄関に向かう。玄関を出る手前で蘭子が一言。

「修治郎様、前回のお出かけの時に気になっていたのですが」

 修治郎は無言で顔を上げる。顔色は白を通り越して薄紫だ。

「何故ナイフなど持ち歩いているのですか」

 問われた修治郎はしばらく間を置いて、細く漏らした。

「持っているととても安心する」

「どんな物騒な世の中ですか。今日は置いていってください」

 語気を強める蘭子に修治郎は、深く悲しそうな目を向ける。普段はあんなにも不遜な態度をとる修治郎らしからぬその目色に、蘭子は何やら訳も分からずみじろぐも、

「修治郎さま、心配要りませんよ。大丈夫ですから、置いてきてください」

 結局は、以前のような無礼を誰かに働かないかという懸念が優った。外に慣れない主人に、子供のようなこの人に、こんなものを持たせてはとにかく危険である。修治郎は渋々頷き廊下を引き返すと、自室にナイフを雑に投げ入れた。

 ただ修治郎から伝播する不安に気づかぬように目を瞑り、蘭子は扉を開けた。

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