第36話 36合目

少しの距離をラッセルし、氷瀑スラブの足元に辿り着く。


まずはリーダーである俺がその急峻へと取り付いた。


角度60度。


垂直氷壁バーティカルロックではないが、実質的には坂というより壁と言って差し支えない。それが300メートルほど続いているのだ。上空を見上げても頂上は見えない。


だが、俺がひるむ事は無い。体力は十分にあるし、仲間は頼もしい者ばかりだ。それに、だ。


「前世では病弱な体で、もっときついスラブをやってたしな。今更、恐がる理由なんてない」


俺は目の前の凶悪なスラブを、逆に飲み込んでやる、とでもいう気持ちでニヤリと笑った。


そしてアイスバイルのピッケルを氷壁に振り下ろし打ち込むと、次にアイゼンの爪先を蹴り込んだ。


めり込む爪先を支えに膝をグッと伸ばしきるようにして体を上に押し上げると、もう片方の足も蹴り込んで安定させる。


後はその繰り返しだ。


アイスバイスを振るい、次にアイゼンを蹴り込む。氷壁に張り付き、スラブを登攀して行く。


10メートルほど進んだが、アイスハーケンは打たない。つまり、何も支えが無い状態だ。滑落すれば非常に危険である。だが、300メートルという距離を登攀するとなれば、いちいちハーケンでビレイポイント体を支える支点を作っている暇はない。


「日没までに登れなければ、この急峻の途中でビバークする羽目になる。それにモタモタしていたら天候が変わるかもしれない。長時間、強い風雪に晒されるのも危険だ」


急いで登る理由はこのように幾つもある。この事は事前に3人には伝えており、既に了解済みだ。


ちなみに、一見すると無謀な登攀に見えるかもしれないが、仲間の登山レベルを十分に勘案した上でのスタイルを採用している。チームで登山する場合、メンバーの中でも最も技術の低い者に合わせて実施するものだが、モルテもシエルハちゃんの実力については折り紙付きだし、ティムちゃんにしても、単独でC1に到達するだけのレベルにある。


「このメンバーならビレイなしで氷瀑スラブの登攀は十分可能だろう」


それが俺の最終的な結論であった。


ちなみに、それを伝えた時の3人のリアクションとしては、


「わしこそが最後までお主と一緒に登攀できるパートナーじゃからな? よく見ておくのじゃぞ?」


「山岳ネット協会の会長として、永遠にコウイチローさんをサポートできるのは私だけだと思います。山の種族、キツネ族の雄姿、とくとご覧ください!」


「会ったばかりのボクを信頼してくれてるってことだよね? 大丈夫、勇者は期待に応える存在なんだから!」


とのことで、怖気づくどころか非常に積極的な反応だった。なぜか、少女同士張り合っている様子だったのが謎だが・・・。


俺はそんなやりとりを頭の片隅で思い返しながら、ひたすらスラブを登って行く。既に100メートルは進んでいるだろうか? 後方を覗き込めば眩暈を起こすような高さである。滑り落ちればほとんど落下と変わらない衝撃が俺を襲うだろう。


なお、少女たちは問題なく付いて来てくれていた。まったくすごい子たちだ。


特に大きなトラブルもなく登攀は進む。


こうして順調に山行が進むのは、もちろん俺たちの登山者としての技量が高いことも理由の一つである。だが、何よりも、


「今日は山の機嫌が良い」


そう俺は冷静に評価する。


アイスバイルを打ち付ければ、うまくピッケルが刺さって体を支えてくれる。・・・が、実はこれが当たり前のことではないのだ。寒すぎれば氷が固すぎて刺さらないことがあるし、暖かくて氷が柔らかい状態になれば抜けてしまう。今は本当に氷が絶妙の固さになって、俺たちのアイスバイルとアイゼンがうまく刺さる。これはいかに登山技術が高かろうと、山に受け入れられなければ出来ないことだ。


そして、もう一つ俺たちは信じられない幸運に恵まれていたのである。俺がアイスハーケンなしの登攀を決意したのもこの事が大きい。


「風が・・・まったくない」


そうなのだ。おおよそこの標高のスラブを登るとなれば、ふつう相当な風雪を覚悟しなければならない。そして冷たい強風に3時間も晒されれば、人間の体力と集中力は尽きてしまう。だから、人は氷壁上のどこでテラス広めの足場を見付け、ビバークすることが必要になるのである。また、風が強ければ滑落の可能性も急上昇するから、アイスハーケンで念入りにビレイ確保を取なければならなくなる。その場合、ハーケンの残数を計算しながら、登攀行程を細かく管理しなくてはならない。


だが、今は無風状態が維持されており、体力の低下は最小限に抑えられている。携行食を時折口に含みながら登れば、休みなしでこの氷瀑スラブを落とすことも可能な状況なのだ。


「すごい・・・こんなスラブの状態・・・今まで聞いたことがありません・・・。山に愛されているとしか・・・」


とは、シエルハちゃんの弁である。


まあ、それは大げさ過ぎるので、真に受けるつもりはないのだが、いずれにしても天候こそが山行の実施において最も重要判な断基準であることは間違いない。


150メートル・・・200メートル・・・250メートル・・・、登ってゆく。


あと、50・・・40・・・30・・・20・・・10・・・5・・・2・・・1・・・


ガッ、と俺の手が氷瀑スラブの頂上(てっぺん)を掴んだ。アイゼンを支えに上体を岩の上へと押し上げ、そしてついに急峻の上へと立ち上がる。


俺はその場で仁王立ちになって、大きく深呼吸した。


凄まじいまでの清冽な空気が肺の中を満たし、思わず咳き込んだ。


視線を上げて前を見れば、広い雪原が広がっている。ああ、どうやら到達したようだな。


そう、ここがC2・・・最後のキャンプポイントなのだ。


心からホッとした気持ちと、冷めやらない興奮が胸中を行ったり来たりした。


そうして視線を上げて行くと、その雪原の穏やかさが嘘のように、切り立った雄々しい尾根の連なりが視界に入る。


オオオォォォォォ・・・という風の啼く音が山間の奥の方から響いて来る。頂上へと通じる尾根の先には垂直氷壁バーティカルロックが立ちはだかっていた。


まさに人の来訪を拒む、神々の憩いの場であった。


俺がその光景に戦慄していると、いつの間にか登攀を終えた少女たちが隣へ並んだ。


そうして俺と同様に遠くにそびえる急峻をしばらく見つめる。


「アレがそうなんだな?」


しばらくしてから俺がポツリとつぶやくと、「ハイ」とシエルハちゃんが頷いた。


「あれこそが魔の山の頂(いただき)へと通じる唯一の道(ルート)です。伝説以外に登頂の記録はありません。登山者からは畏敬の念を込めて『竜のアギト』と呼ばれています」


なるほどな。俺は身震いする。


恐しくて震えているのか? いや、違う。そうじゃない。そうじゃないんだ。


「そうか・・・。なら、俺が登ったとしたら、それは“初登頂”ということだな?」


即ち、第一登。


山家(やまや)にとってこれほど胸が躍る言葉があるだろうか? 未踏峰に初めて人跡を刻むという栄誉・・・。


俺の言葉にシエルハちゃんとティムちゃんは驚いた表情をした。しかし、モルテだけは歯を見せて気持ちよさそうに笑う。


「当たり前じゃよ! お主が登頂できんで、他に誰が出来るのじゃ!」


モルテの言葉を聞いて、俺も笑いながら大きく頷くのであった。

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