第2話 風景

 義秋は料理の並んだテーブルを見て感嘆の声を上げた。

「ここの料理、一度食ってみたかったんだよ…」

 智子と節子は義秋の向かいに並んで座った。料理を見て喜ぶ義秋を見て、二人で顔を見合わせて笑っていた。

「今日はヨシアのために特別メニューたい」

 智子は義秋に微笑む。

「いや…豪勢な料理だ」

 義秋は顔を上げて嬉しそうに笑った。「ところで誰が来るの…」

「女の子は私と節子だけ…」

「女の子って…」

 節子は智子が自分たちの事を女の子と言った事に顔を赤らめていた。

「女の子は結婚してほとんどここにはおらんけんね…。私と節子じゃ不満やろぉけど」

 智子は少し睨む様にして義秋に言う。

「あ、いや…そんな事はないが…」

 義秋はその智子の威圧感にたじろいだ。

 その義秋が面白かったのか節子と智子がまた笑う。

 昔のままだった。確かにあれから二十年は経っている。その分、トシは取った。しかし、こうやって笑っていると二十年の歳月を一気に巻き戻したかの様に義秋は感じた。

 この町に帰って来て良かった…。

 初めてそう感じた。

「聞いとると…。ヨシア…」

 節子が義秋の顔を覗き込んで言った。

「ああ、ごめん。料理につい意識が…」

 そう言う義秋に智子が呆れた様な顔をした。

「もう…。後はマサとセージがもうすぐ来るけん。仕事が早く終わったらミツオも来るって言うとったとばってん」

 マサ。義秋と中学までずっと一緒にいた友人だった。岩見政典。政典は中学を出てすぐに漁師になった。今もこの町で漁師を続けている筈だ。

 セージ。山城誠二。高校は別だったが、やはり中学まで一緒だった。今、何をしているのか義秋は知らなかった。

 ミツオ。安西光生。ミツオに関しても義秋は何も知らない。

「他にこの町に残ってるのって…」

 義秋はビールの栓を抜く智子と節子を見た。

「ああ…後は、浩美。覚えとるかな…。貴志川浩美。かわいい子おったやろ」

 義秋は浩美の事はしっかりと覚えていた。

「ああ…浩美か…。何となくだけど覚えてるよ」

 義秋は当たり障りが無い様に二人にはそう答えた。

「先にビール飲んどこう…」

 智子はビールの瓶を義秋の前に差し出す。義秋はテーブルに伏せてあったグラスを取り智子の前に出す。音を立てて、その黄金色のビールがグラスに注がれる。智子は続けて節子のグラスにもビールを注ぐ。そして節子がその瓶を受取り、智子のグラスに注ぐ。

「また後で乾杯したら良かろう…。取りあえず先に乾杯しよ…」

 智子はグラスを掲げる。

「ヨシア。乾杯の音頭…」

 節子が小声で言うのが義秋は可笑しかった。

「じゃあ、再会に…。乾杯」

 義秋は笑いながら言うと自分のグラスを節子と智子のグラスにぶつけ、一気に飲み干す。

「美味い…」

 義秋は顔を歪めながら自然にそう溢した。

 冬の寒い日だが、この古谷旅館の中は暖かい。良く冷えたビールも心地良かった。

 義秋はジャケットを脱ぎ、自分の後ろに無造作に置いた。それを見て智子が立ち上がり、義秋のジャケットを拾い上げハンガーに掛けた。

「別に良いよ。置いててくれたら」

 義秋が振り向いてそう言った時には既に壁に義秋のジャケットは掛けてあった。

流石は旅館の娘だ。

 義秋は智子を見て微笑んだ。

「大事なモンでも入っちょると」

 智子は自分の席に戻る。

「いや…。何にも」

 義秋は自分の前にあったビールの瓶を取り、節子と智子の空になったグラスに注いだ。それを見て節子が慌てて瓶を取ると、義秋のグラスにもビールを注ぎ返した。

 義秋は節子に頭を下げて、少しグラスを持ち上げた。

「遅かね…。マサとセージはどっかで待ち合わせしとるとかな…」

 智子がそう言った時に、廊下で男の声がした。

 多分、マサとセージだろう…。

 義秋は自然と顔がほころんだ。

「いやぁ…悪い、遅ぉなって…」

 そう言って、部屋の戸を開けたのは政典だった。

 出来るだけ自然に…、と考えていたのだが、その懐かしい顔に義秋は立ち上がった。

「よぉ…ヨシア」

 政典は義秋に歩み寄り抱き付いた。「久しぶり」

 昨夜も電話で話をしたのだが、電話と実際に会うのではやはり違う。

 続いて誠二が入って来た。

「おーヨシア」

 誠二も同じ様に義秋に抱き付いた。

 義秋は二人に最初に何を言おうか、考えていたのだが、そんなモノは必要なかった。二十年以上経ったが、やはりその時間が一気に巻き戻った気がした。

「あんまり変わらんね…」

 誠二は義秋の肩をバンバン叩きながら言う。

「そんな事はない。トシは確実に取ってる」

 義秋も誠二の肩を叩く。

「そりゃ、お互い様たい…。同級生やけん」

 横にいた政典が言う。その言葉で全員が笑った。

「もう、良かやろ…。早よう座り」

 智子の一声で、三人は義秋を挟む様に座った。座りながらも政典の話は途絶えない。智子と節子が二人のグラスにビールを注ぐが、グラスを見る訳でもなく、義秋の方を見ている。

「もう、どんだけ喋ると…。もう飲んどるっちゃろ…」

 たまり兼ねて智子が政典に言う。

「今日は海が時化しけとるけん、早ように帰って来たけんね…。もう昼から飲んどる」

 政典は大声で笑った。

「こいつ、会うた時からこげな調子やけん、着いて行けんったい」

 誠二は半ば呆れていた。

「わかった。わかったけん。取りあえず乾杯ばしよう」

 智子は二人を宥める様に割って入り、グラスを持った。

「そしたら、ヨシア。乾杯の音頭ば…」

 グラスを持ってそう言う政典に、

「俺はさっきやったよ。お前やれよ」

 義秋はそう言った。

「ああ…。じゃったら、大社長。お前、やらんね」

 政典は誠二に言う。

「しょんなかね…」

 誠二は満更でもない感じで立ち上がった。それに合わせて全員がグラスを持って立つ。

「そしたら、僭越ながら…」

「難いのはいらん」

 語り始めた誠二に、間髪入れずに政典はクレームを言う。

 こんなやり取りも昔から変わらなかった。

 義秋はその様子を見て微笑んだ。

「わかっとる」

 誠二は政典を手で跳ね除ける様な仕草をした。「ではヨシアとの、この町での再会を祝して…」

「乾杯」

 全員が声を上げ、グラスを掲げた。そして一気に飲み干すと、再び政典が大声で喋り始めた。

「本当は昨日、街まで行きたかったとばってん、あん雪やろ…。あんな雪、何十年ぶりやろうか。本当に雪ばうらんだったい」

 義秋は微笑んで政典の言葉に頷いた。

「いや…本当に何十年ぶりやもんね」

 反対側から誠二がそう言う。義秋はその二人を交互に見ながら笑った。

「わかった。分かったけん…」

 智子はそんな周囲の様子を見ながら、真ん中に置かれたガスコンロに火をつけた。

「ほら、ヨシアが困っとろうが。あんたらいい加減にしぃよ」

 手に持った長いライターをつけ、智子は政典と誠二に脅す様に言う。その様子を見て節子は笑っていた。

 義秋が左右から話し掛けられ、文字通り右往左往しているのを見かねた智子は、

「ヨシア。こっちに座り。その方が話し易すかけん」

 そう言って自分と節子の間を空けた。

「そうしようか…」

 義秋は自分のグラスを持って、向かい側に移った。

「なんや…やっぱりヨシアは女の横が良かとか」

 酔っている政典は大声で笑った。

「当たり前だろが…」

 義秋は智子と節子の間に座ると手を伸ばし、テーブルに置いたままだったタバコを取った。

「智子は良かばってん、節子は人妻やけんね。それなりに覚悟しとかんばいかんぞ」

 政典の言葉に一斉に笑う。

 若い頃にこの町を出た義秋は、仲間の酒癖など知る由も無く、初めて見る政典が酒に酔っている姿が新鮮に思えた。二十年以上経過して再会しているのだから、話が止まないのも無理はない。

 それでも鍋が出来上がった頃には、その様子も少し落ち着いて来た。

「ヨシア。仕事は何ばしよっと」

 誠二が鍋を小皿に取りながら言う。

「俺か…。俺はフリーライターをやってる」

「横文字か。カッコ良かなぁ」

 刺身を美味そうに食べながら政典が言う。

「横文字って言ってもな…。デリヘルだって横文字だろうが」

「上手い事言うね。流石はライター」

 誠二が茶化ちゃかす。そしてみんなで笑う。

「デリヘルって言えば、浩美。あいつは、今日は…」

 政典のその言葉に周囲の空気が変わった。その様子を義秋は見逃さなかった。

「浩美は仕事あるけん無理って…」

 節子が言う。

「ああ…今、忙しかっちゃろね…。原発関係の業者がいっぱい来とるけんね…」

 義秋はグラスをテーブルに置いた。

「浩美の親がさ、隣町でスナックばしとるとよ。それこそ向こうに店出してもう二十年くらいなるっちゃなかかな。ほら、原発の関係の人が泊るばってん、娯楽が何にも無かけんね。浩美もその店ば手伝っとるけんね。夜は出れんったい」

 義秋に節子が説明した。

 義秋は何度も小さく頷いた。

 それだけじゃない事は場の空気から理解できた。良くある話で、他所者よそものが集まる場所には、それなりに風俗は必要になる。浩美の母親は飲み屋と一緒に、さっき政典が口にしたデリヘルらしきモノも営んでいるのだろう。

 狭い町ではそういう事を嫌う。飲み屋をやっているだけで「汚れている」と取られる事もある。ましてや、デリヘルとなると…。

 静寂が流れ始めた部屋。その間を気にして、智子が義秋のグラスにビールを注ごうとした。義秋はそのグラスを手で塞いで、

「もうビールはいいや。そこの焼酎飲んでも良いか」

 そう言って智子に微笑んだ。

「もちろんたい」

 智子は焼酎のボトルを取った。


 一晩中続くかと思われていた宴は、意外に早く終わった。政典が酔い潰れた事と、誠二が明日早くから仕事があるという事で。

 義秋は部屋を用意してもらい、大浴場に入っていた。大浴場の大きなガラス窓は湯気で曇っていたが、それでも大きな月を見る事が出来た。

 誠二は、親が継がなかった船舶会社を祖父から譲り受け、二十代の頃から会社を切り盛りしていると言っていた。義秋がこの町にいる頃、その誠二の祖父の会社は小さな会社だったが、今では従業員も数倍に増え、この町では一番大きな会社になっている様だった。到底、義秋に真似の出来る事では無い。

 その頼もしさに義秋は顔がほころんだ。

 政典は漁師を始めてもう二十数年。街の市場で働いていた子と結婚して、もう高校生と中学生の子供がいると言う。

 結局、ミツオ…安西光生は来なかった。光生の話も出ない程に、盛り上がっていたので、結局光生の事は何も分からないまま。

 義秋はお湯をすくって顔を洗った。

 この町…。何かが変わってしまったのだろうか。それとも昔のままで、自分がいた頃は気が付かなかっただけなのだろうか…。

 義秋は窓の外に見える風景を見てそう思った。

 義秋は勢いよく湯船から出た。

 静かな大浴場にはその音だけが響いていた。


 義秋は風呂を出て、浴衣姿でロビーに出る。そこには義秋と同じ浴衣を着た節子が居た。

「節子…」

 義秋は節子の横に座った。

 節子も義秋を見て微笑む。

「今日はゴメンね…。かえって疲れたっちゃ無か」

 節子は静かに言った。宴会の途中でもあまり口を開かなかった節子の事が、少し気になっていた。

「いや…楽しかったよ。久しぶりに良く笑った…」

 義秋は浴衣の袖からタバコを出して咥えた。

「それなら良かばってん…」

 節子は義秋の横顔を見て微笑んだ。

「大丈夫か…。さっきもあんまり話して無かった気がしたけど…」

 義秋はタバコに火をつけて、煙を吐きながら言う。

「うーん。ちょっと疲れとるんかな…」

「我らがアイドルの節子が…そんな疲れてるなんて…」

 義秋は口元を緩める。

「何よ、それ…」

 節子は口を隠して笑った。そして視線を上げると、柱の陰に立っている智子を見つけた。

「あ…」

 節子のその声に義秋は節子の視線を追った。

 智子はゆっくりと柱の陰から出て来た。

「私はお邪魔ですか…」

 智子は昔見た事のある意地悪そうな顔で言う。「もしかして、焼けボックリってやつ」

「何ば言うとっと」

 節子は少し焦る様に立ち上がった。

 義秋はその節子を見て笑った。

「それを言うなら「焼け棒杭」だよ…。ボックイ」

 義秋は智子以上に意地悪な顔をして間違いを正す。「昼間、良介にも同じ事言われたよ。嫌な夫婦だな」

「元夫婦ね…」

 智子は義秋を注意するかの様に指を指して言い、二人の向かいに座った。

「ねえ…三人でさ、飲み直さん」

 智子は酒を飲むジェスチャーをした。

「俺は良いけど」

「私は良かばってん」

 義秋と節子は同じタイミングでそう言った。


 義秋は窓から月明かりに揺らぐ海を見ながら、ウイスキーのグラスを傾けた。

「この風景は昔と変わらんな…」

 そう呟くと、義秋の傍に節子と智子が立つ。

「私らは見慣れとるけん、何も感じんばってん、やっぱ二十年ぶりとかになると、感慨深かんがいぶかいたいね…」

 智子は少しウイスキーで酔ったのか顔を赤らめていた。節子はウイスキーを飲むと寝てしまうと言い一人でビールを飲んでいる。

「にしても…。ヨシアってもうこっちの方言喋れんとね…」

 智子が少し絡む様に言う。

「もう無理だろう…。こっちに帰ったら少しは出るかと思ってたけど。端々に出るくらいかな…」

「ふぅん。なんか気取きどっとらすみたいでムカつく」

 吐き捨てる様に言うと、智子はテーブルに戻った。

「仕方んなかったい。もうここで過ごした時間ば、ここを出てからの年月の方が上回っとるけんね…」

 義秋は少し違和感のある方言で返した。

 それを聞いて、義秋の横で節子がクスクス笑った。

「気持ち悪かけんやめて」

 節子は笑いながらそう言う。

 確かに…。

 義秋もそう思い、苦笑した。そして節子とテーブルに戻った。

「ところで、ミツオは…来なかったな」

 義秋はテーブルの上のピーナツを口に放り込んだ。

「ミツオは医者やけんね…。忙しかっちゃろね…」

 節子は新しいビールの缶を開けた。

「ミツオが医者…。そりゃ初耳だ」

 義秋とは高校は違ったが、当時の記憶を辿っても光生が医者になるとは考えられなかった。

「頑張ったとよ…ミツオ」

 智子も自分のグラスにウイスキーを注いだ。

「そりゃ、そうだろう…」

「どうしても医者になるって言うて、四浪したとかな…。それで大学行って、医者になった頃にはもう三十過ぎとったとばい」

 智子は音を立ててグラスに氷を入れる。「それでもミツオは医者になった。偉かね…」

 義秋は智子の言葉に頷いた。

「どこで医者やってるんだ」

「隣町に先端医療センターって大きな国立の病院があって。そこで…」

 そんな病院がある事は義秋も知っていた。

「ねえ、ヨシア…」

 智子はテーブルに置いたグラスの氷を指で回す。「ミツオが何で医者になるって決めたか知っちょる…」

 義秋はテーブルの上にグラスを置き、首を横に振った。

 それを見て、智子はふっと力を抜く様に微笑んだ。

「ミツオのお母さん。私らが高校の時に亡くなったと覚えちょる…」

 それは義秋にも記憶があった。今日の様な寒い日に、葬式に参列した。

「ああ…。覚えてる」

「ヨシアがこん町ば出て行って、すぐにミツオのお父さんも亡くなったとよ…」

 智子はグラスを唇に付けた。「その後すぐにおじいさんも…」

 義秋は自然と険しい顔になった。

「おばあさんとミツオ。二人になってしもうたったい」

 智子は染み入る様な声で言った。「みんな、白血病で亡くなってしもうたけん」

「みんな白血病…」

 義秋は智子を覗き込む様にしてそう呟いた。

「そう…みんな白血病…」

 智子はグラスを持ってフラフラと窓際に歩いて行く。「ミツオの家だけじゃなかと…。こん町じゃ白血病は珍しか事じゃなかけんね…」

 智子は窓際に置かれた椅子に勢いよく落ちる様に座った。

 その智子を義秋はじっと見つめた。

「原発か…」

 義秋の小さな声はその部屋に吸い込まれる様に消えていく。

「かもしれん…。違うとかもしれん…。だけん、ミツオは医者になったったい」

 智子の話を節子は焦点の合わない目をして聞いていた。

「けど、こん町の白血病の発症率は原発の無か町と比べたら六十倍もあるとよ…。それでん関係ないって言えるっちゃろか…」

 智子は洗った髪を垂らして俯いた。「ミツオが医学部行くために、ミツオのおばあさんは船と家、山も持っとらしたけん、それも売って、街の市営住宅に引っ越さしたとよ。もう七十歳過ぎとらしたばってん、それでん毎日、朝早くから市場で魚ばさばいて…働いとらした」

「そうか…」

 義秋は飲み込む様に言った。

「それはマサもよう知っとる」

 智子はグラスの酒を一口飲んで言った。「私らは何の力も無かけん、あの原発、どうする事も出来ん。けど、ミツオとか、節子んダンナとかお父さんに頑張ってもらって、絶対再稼働ばさせんようにしてもらわんと…。ここには住めん様になってしまうったい…」

 この町に住む誰しもが訴えたい事なのだという事は義秋にも分かった。それを今、智子が代弁している。

 義秋は心臓に直に何かを打ち込まれる様な気持ちだった。切実な思いとして智子が語っている。それが痛い程良く分かった。

「ダンナにも話したとよ…。再稼働反対の記事ば、大々的に書いてって。そしたら、ダンナは、新聞は中立的な立場でしか記事は書けんけん、無理って言わした。こん町の人じゃなかけん、分からんったいね…」

 智子は顔を上げて、義秋を見た。「そげんこつば書いたらクビになるけんって…。そげん言わした…。それも離婚の理由の一つたい…」

 義秋はテーブルの上で握ったグラスを持つ手が震えていた。

 ふと、横に座る節子の顔を見た。節子の目からは涙が流れていた。それでも節子は義秋に微笑みかけていた。


 義秋が目を開けると、既に太陽はかなりな角度まで昇っていた。天井の木目がはっきりと見えた事で、古谷旅館に泊っている事を思い出す。

 少し荒々しく頭を振る。昨日の酒はまだ少し残っている様子だった。

 酒を抜こうと思い、部屋を出て大浴場へ向かった。

 脱衣所で浴衣を脱ぐと、静かに石畳の大浴場へ入った。そして昨夜の様に曇った大きなガラスの前まで湯船の中を歩いた。

「ふぅ…」

 呻き声にも似た声を発しながら、ゆっくりと熱めのお湯に身体を沈めた。

 衝撃だった。

 義秋が考えているより、この町の原発問題は深刻だった。

 原発の町に来て、その実態を書く。それが今回の目的の一つだった。そしてその現状を智子の口から聞く事になった。それは義秋にとって、まさに衝撃以外の何物でもなかった。

 自分が離れた町…捨てた町と言っても良いのかもしれない。その町に生きる人々が直に感じている原発。自分には関係のない事ではない原発。それがここにある。

 酒の力を借りていたのかもしれない。しかし智子の告白はこの町の真実なのだ…。

 義秋は思い切り湯船に沈んだ。そしてお湯の中で目を閉じた。

 原発の真実は原発の中には無い。原発の周辺で生きる人々の中にあるんだ…。

 義秋はそう感じた。

 脱衣所のドアが開き、裸の智子が入って来た。

 義秋はまだ湯船の中に沈んだままだった。

「大丈夫よ。この時間は誰も入って来んけんが…」

 智子がそう言うと節子も入って来た。二人は湯船にゆっくりと入った。

 その時、息が続かなくなった義秋がお湯の中から顔を出した。

「ふぅ…」

 義秋は濡れた髪をかき上げた。

「きゃあ」

 その瞬間、義秋の耳にそんな声が聞こえた。その声の方に視線を移すと、そこには裸の身体を隠す様に小さくなっている節子と智子が居た。

 義秋はゆっくりと大きなガラスの方を向いた。

「何でヨシア居るんよ」

 焦る様子を隠せない智子の声。

「あ、いや…酒を抜こうと思って」

 義秋にも何が起こっているのか分からなかった。「ってか…ここ、混浴か…」

「違うわ。入れ替え制。この時間は女性の時間たい」

 智子が少し冷静さを取り戻して言った。「まあ、客もヨシアしかおらんけん。入れ替え制も何も無かばってん」

「そうか。悪い。じゃあ俺、先に出るわ…」

 義秋は風呂から出ようと振り返る。

「こっち向かんといて」

 声を荒げて智子が言った。「私らが出るけん、そっちば向いとって。節子行くよ」

 智子はそう言って湯船から出ようとした。

「待って…」

 智子の手を節子が握る。

「何…。ヨシア殴ってから上がるとね…」

 大真面目にそう言う智子を見て節子はクスクスと笑った。

「そうじゃなか…」

 節子にそう言われて、智子はゆっくりと湯船に戻った。「広いお風呂やけん、端と端におったら何も見えんけん、良かたい。一緒に入ろう…」

 節子はそう言うと智子の手を引いて、義秋が居る場所の反対側にお湯の中を移動して行った。

「節子って意外に大胆…」

 智子も可笑しくなって笑った。「あー。節子の裸はヨシアも知っとるもんね…」

「馬鹿…」

 節子は智子にお湯を掛けた。「若い頃の話たい…」

 節子は小声で言った。しかしその声は義秋にも聞こえていた。

「ヨシア。良かよ。こっち向いても」

 節子がそう言う。

 義秋はゆっくりと振り返った。

「何か見えとう」

 節子が笑いながら言う。

「何も見えん…」

 義秋もそう言って笑った。


「まさかヨシアと混浴するなんて、思ってもみんかったわ」

 智子はブツブツ言いながら頭にタオルを巻いていた。

「良かやん。減るモンじゃ無かし」

 節子はクスクス笑っていた。

「ヨシア、確信犯かもしれんけん、後で一発蹴りば入れちゃる」

 そう言いながら二人はロビーに来た。

 ロビーには湯中りした義秋が頭にタオルを乗せて座っていた。

「ヨシア、大丈夫…」

 節子が義秋の隣に座る。

「美女二人の裸にやられたんやね」

 智子は棘のある口調で言うと舌を出した。

「智子…もう良かやん。ヨシアが先に入っとったっちゃけん。あれは私たちにも非はあるけんね…」

 節子のその言葉に、智子は苦虫を噛み潰した様な顔をして頷いた。

 義秋は額のタオルを取り、ゆっくりと二人を見た。

「二人とも…」

 その声に、二人も義秋を見る。「思ったよりいい身体してるな」

「何、それ」

 智子の怒りが再燃した。しかし節子は義秋の横で笑っていた。

「冗談だよ。大きな声出すなよ…。ただでさえ二日酔いだし、湯中ゆあたりしてるし…」

 義秋はそう言いながら微笑んで、立ち上がった。そしてふらふらと部屋へ戻って行った。

「大丈夫なの…」

 節子は足元の覚束ない義秋の肩を支えた。

「もう。あの二人って今もまだ…」

 二人の背中を見送って、智子はそう呟いた。「そろそろお昼ご飯やけんね」

 廊下を歩いていく二人に智子は大声で言った。


 政典は大きな魚を提げて、古谷旅館の裏口を開けた。

「こんにちは」

「あれ、マサさん」

 そこには智子の弟で、旅館の跡継ぎである聡史が居た。

「おう、サトシ。これ、ヨシアたちに食わしちゃって…」

 政典は手に持った魚を聡史に渡した。

「凄かですね。ありがとうございます」

 聡史は魚を見ながら礼を言った。

「さっき釣ったばっかりやけん、美味かぞ」

 政典は聡史の肩を叩いて微笑んだ。「ちょっと邪魔して良かか」

 政典は奥を指差して言った。

「あ、今、姉ちゃんらと昼飯食べとらすけん、良かったら一緒に食べてって下さい」

 聡史は政典にそう勧めた。

「そうか。じゃあ遠慮なく甘えようかねぇ」

 政典は厨房から旅館の中へ入ろうと長靴を脱いだ。「しかし、今日も寒かね…」

 そう言いながら食堂へ行きかけて、今一度振り返る。

「なあ、サトシ…」

「はい」

 聡史は魚をまな板の上に置いた。

「甘えついでに、風呂も良かか」

 政典は微笑みながら聡史に言った。

 聡史も微笑んで頷いた。

「ありがとよ…」

 そう言うと政典は食堂へ入って行った。

 厨房の先にあるドアを開けると朝食と昼食を食べる食堂に繋がっている。そのドアを政典は勢いよく開けた。中には義秋、智子、節子の三人が浴衣姿のまま昼食を食べていた。

「よお、昼飯、食いに来たぞ」

 政典は大声で三人に言う。

「マサ…」

「おはよう」

「元気ね…」

 三人は政典とは違うテンションでそれぞれに言葉を発した。

「どげんしたとや…。なんか暗かね…」

 政典はそう言いながら、義秋の横に座った。

 政典の声が頭に響く。義秋はこめかみを押さえながら目を閉じた。

「マサ…。悪い、二日酔いなんだよ。ちょっと声のトーンを下げてくれ」

「二日酔い…」

 政典は義秋の顔を覗き込む。

「そう、二日酔いと美人酔いたいね…」

 智子がご飯を口に放り込みながら言う。

「美人酔い…」

 政典には何が何だかさっぱり理解できなかった。「お前、何かしたとや…」

 そう言うと義秋の肩を叩いた。

 節子はそのやり取りを見てクスクス笑っていた。

「ヨシアに風呂ば覗かれたとよ…」

 智子はまだ根に持っている様だった。

「ヨシア…。そげん溜まっちょるなら何で言わんとや」

 政典は大声で笑った。

 そこに聡史が政典の昼食を持って来た。

「違うとですよ。男湯と女湯の札の入れ替えば忘れとったとです。ヨシアさんが入っとるとば確認せんと札ば替えたモンですけん。その後に姉ちゃんと節子さんが入ってしまわれて…」

 聡史は政典の前に昼食を並べながら説明した。「ヨシアさんは何も悪く無かとです」

 聡史はニコニコと笑った。

「何や…。そげんこつか…」

 政典のその言葉に智子は、

「そげんこつって何ね…」

 と、食い付く。

「まあまあ、良かや無かか…。生娘やあるまいし…」

 政典は汁物の椀を取りすする。「智子、お前だけぞ、節子は何も言うとらんや無かね」

「そうばってんが…」

「ほら、いつまでもつまらん事言うとらんと、飯ば食え」

 政典は箸で智子を煽った。

「もう、行儀悪かね…」

 その光景を義秋と節子は半ば呆れて見ていた。

「そうや…ヨシア、昼から一緒に海に出んか。良かったら釣りでもせんか」

 義秋は食欲の無さを表している御膳からお茶を取り飲んでいた。その手を止めて、虚ろな目で政典を見た。

「釣り、良かねぇ」

 智子が先にそう言った。

「女は連れていかんと」

 政典は少し厳しい口調で言う。

「何ね、男女差別」

「うるさかね。男だけの話もあるったい」

 政典は魚をほぐし口に入れる。

「やらしかね…。何ば企んどると」

 この二人のやり取りに間合いは無い。割って入る余地が無いのだ。

「あ、分かった。浩美んとこ行くっちゃろ」

 智子が今度は箸で政典を煽りながら言う。

「危なかね…。そげんとこ、行く訳なかろうが」

 政典は節子に同意を求める様に頷いた。節子も頷く。

「今日はいどるけん、船にも酔わんやろうし…。どげんや、ヨシア」

 政典は声のトーンを下げて言った。

 義秋は政典に微笑んで頷く。

「少し行ってみるか。久しぶりだしな」

 そう言うとお茶を御膳の上に戻した。

 

「じゃあ、行ってくるよ…」

 義秋は政典の船の上から、岸壁で寒そうに立つ節子と智子に言う。

「気を付けてね。晩御飯の魚待っとるけんね」

 智子はニコニコと微笑みながら言う。

 どうやら機嫌も直った様子だった。

 政典の船は煙を吐きながらスピードを上げて、港を出た。しばらくすると操舵席そうだせきを離れ、政典は甲板かんぱんに座る義秋の横に缶コーヒーを持ってやって来た。

「飲め…。もう酒は良かろう」

 義秋はその言葉に頷いて、缶コーヒーを受け取った。

 ディーゼルエンジンから吐き出される独特の臭いと、潮の香りに少し胸が悪くなりそうだった。

「もう少し先まで行くけん。寝ちょって良かぞ」

 政典は再び操舵席へ戻った。

 義秋はそれを見て、缶コーヒーを開けた。

 見慣れている町も海からの風景は新鮮に映る。小さくなっていく町を見渡していると、急に懐かしさがこみ上げて来た。幼い頃に何時間も泳いでいた海。暇さえあれば釣り糸を垂らしていた桟橋。雲丹や天草を取りに行かされた浜。そんなモノが時間の経過を忘れて義秋の脳裏に蘇って来た。

 昔、船舶免許など持っていない中学生の政典たちと、政典の親父さんの船を勝手に持ち出して海に出た事があった。


 夏休みに入ったあの日、義秋と政典、誠二の三人は政典の親父の船を持ち出して、海に出ていた。船を出すのはいつも親父の運転を見ている事もあり、お手の物だった。

 手際良く、岸壁のロープを解き、碇を引き揚げた。

「ヨシア。ギアばバックに入れて」

 政典は碇を船の甲板に置いて大声で言った。

「おう。まかしとけ」

 義秋も自分の親父の運転をいつも見ている。この町に住む人はほとんどが船を持っていた。誰もが船の運転は出来る。免許が取れる年齢になれば都会ではバイクの免許を取るのだろうが、この町では船舶免許を取る。

 しかし、まだその年齢には三人とも至って無かった。

 船をバックさせると方向転換し、沖へ向かって船を軽快に走らせた。

「セージ。タバコ持って来たか」

 政典は操舵席から大声で言う。

 エンジンの音がうるさくて誠二には聞こえない。義秋がそれに気付いて、

「マサがタバコ持って来たかってよ」

 誠二の傍に行き、伝えた。

「ああ。持って来たばい」

 そう言うとジャンパーのポケットから、くしゃくしゃのセブンスターを出した。

 三人は操舵席の陰で風を避けてセブンスターに火をつけた。その頃には一端にタバコを美味そうに吸える様になっていた。

「ビール、持って来たばい」

 政典は操舵席の足元に置いたクーラーボックスを指差した。

「おうおう」

 誠二は嬉しそうにそのクーラーボックスを開けて冷えたビールを取り出した。

 風を受けて走る船の甲板は心地良かった。義秋は目を細めて流れていく風景を見ていた。

「ほら、ヨシア」

 誠二が義秋の傍に来て、ビールを一本渡した。

「サンキュー」

 義秋は礼を言ってビールを開けた。

 すべて大人の真似事でしかなかった。タバコを片手に缶ビールを飲む。そんな事が大人に見えた。三人は大人の居ない船の上で、完全に大人になりきっていた。

「何処まで行くと…」

 誠二は政典の横に行って聞く。

「どげんしようかな…。犬啼岩ら辺まで行ってみゅうか…」

 政典は得意気に言う。

 それに誠二も頷いて義秋の横に戻って来た。

 犬啼岩。犬が遠吠えしている様な形をした大きな岩だった。その周囲は波が穏やかで、水も綺麗、泳ぐには絶好の場所だった。

 政典は船のスピードを上げる。

 犬啼岩までは十分程で着いた。

 手際良く碇を沈め、ロープの先を岩場の尖った所に結ぶ。

 その日は波も無く静かな海がそこにはあった。

 三人はその静かで透明な海を見ながら、船から降りて、岩場に並んで座った。

「やっぱここまで来ると、海も綺麗かね…」

 義秋は誠二の横に置いてあるセブンスターの包みに手を伸ばす。誠二はそれに気付いて、セブンスターを義秋に手渡した。

「もう一箱あるけんね」

 誠二はいつも持ち歩いているボストンバッグを指差して言う。

 その岩場は山の陰になっていて、夏でも涼しかった。

 義秋がタバコを咥えたまま横になると、誠二も横になった。政典は一人釣りをすると言い、竿を準備していた。

「ヨシア。お前、高校…何処にするとや」

 誠二は真っ青な夏の空を見つめたまま言った。

「高校か…。まだ何も考えとらん」

 義秋も空を見ていた。

「そうたいね…。まだ、何も考えられんもんね…」

 そう言うと誠二は顔を上げた。「マサは高校、どうすっと」

 政典は針に餌を付けながら、振り向いた。

「俺、高校は行かん」

 その言葉に義秋は起き上がった。当然三人共同じ高校に行くモノだと考えていたので、政典のその言葉に驚いた。その日まで別々に離れてしまうなんて思わなかった。

「行かんとか…」

 義秋は少し声を大きくして言う。

「うん。行かん。行ったっちゃ漁師ばするっちゃけん、無駄たい」

 政典は糸を海に放り込んだ。

 義秋は誠二と顔を見合わせた。

「方向と潮の時間、天気が読めて足し算の出来たら漁師は出来るっちゃけん」

 政典は竿を岩に立て掛けて、義秋らの傍にやって来た。そしてセブンスターを取り一本咥え、火をつけた。

「そげん簡単なモンじゃなかろうが」

 誠二は政典からセブンスターの包みを受け取りながら言う。

「多分ね。ばってん、高校は行かん。勉強好かんし。早う金ば稼ぎたかし…」

 義秋には、そんな政典がすごく大人に見えた。将来の事なんて考えた事が無かった。何をしたら良いのか、何がしたいのか、それが分からないから取りあえず高校へ行く。そんな感覚でしかなかった。

「お前らは、高校行ける成績やけん行かにゃでけんぞ…」

 政典は義秋と誠二を見て微笑んだ。

「おい。竿、引いとらんか…」

 誠二が政典の竿を指差す。竿の先が大きくしなっていた。

「引いとるな…」

 政典は慌てて、咥えていたセブンスターを投げ出して竿に掛け寄った。

 見事に政典の竿には大きな魚が下がっていた。その魚を誠二が網ですくった。


 政典は船のスピードを落とした。

「寒うなかね」

 義秋を気遣って政典は声を掛けた。

「ああ。大丈夫だ」

 義秋はそう答えて顔を上げた。

 都会と違い、自然の残る陸を見た。大きな岩や、一昨日の雪の残る山が流れて行く。

 既にあまり来た事の無い場所まで移動していた。そして冬の海もあまり経験が無かった。

「もう少したい」

 政典は微笑みながら言う。

 エンジンの音も、スピードを落とすと静かになった。

 大きな岩場を抜ける様に船は進んで行く。するとそこには今まで見ていた自然の風景と一変した巨大な要塞の様な建物が見えて来た。

 それが原発だった。

 義秋は立ち上がって政典のいる操舵席の傍まで来た。

「海から見るんは初めてね…」

「ああ…」

 義秋は短く返事をして目を見開いた。

 船はスピードを更に落として、そこに停まった。

 数メートル先にブイが無数に浮かんでいた。

「あのブイは…」

 義秋は指差して政典に聞いた。

「ああ…。あのブイから内側は原発の敷地やけん。一般の船は入れんとばい」

 政典は碇を沈めた。そして釣りの道具を出して来て、義秋の目の前に差し出した。

「釣るね…」

 義秋はそれを押し返す様にして、

「いや…、見とくよ」

 と言う。そしてタバコを咥えた。

 それを見た政典は、自分の道具を手際良く準備して糸を海に放り込んだ。

 手で糸を上げたり下げたりする政典の横に義秋は移動した。

 同じリズムで船を叩く波の音だけが二人には聞こえていた。

「静かだな…」

 義秋は政典の垂らす糸を見ながら言う。

「そうやろ…。陸に帰ったら誰もおらんっちゃなかろうかって錯覚するごたる…」

 そう言って政典は微笑む。

 義秋には皮肉にも聞こえた。目の前にある原発が、何時かそうさせると言っているかの様に聞こえたのだ。

「どげんやったか」

「何が…」

 義秋は手に持ったタバコを灰皿に放り込んだ。

「何がって、智子と節子の裸たい」

 政典はニヤニヤと笑いながら言う。

「ああ…。興味あんのか」

「あるある。若い頃はそりゃあの二人でどれだけ…」

 そう言い掛けると思い切り糸を引っ張った。そして一気に糸を手繰った。船の淵に付けられた半分に割った竹を太めのテグスが擦っている。「バラしたかも知らんね…」

 政典は針を引き揚げた。大きな針に餌は無かった。すぐに餌を付けてまた糸を放り込む。

「見たっちゃろ…。二人の裸」

 政典は糸を垂らしながらタバコを咥えた。

「一瞬だけな…」

 義秋は苦笑した。

 政典はまた、テグスを上下させる。

「ヨシア…」

 政典は操舵席の足元に置いた缶コーヒーを取り、義秋に渡した。

「ああ、サンキュー」

 政典は缶コーヒーを受け取る義秋に微笑む。そして再び海面に視線を戻した。

「お前…。何であげん智子が裸見られたって怒っとったか分かるね…」

 義秋にとっては思ってもみない質問だった。

「さあな…。相当俺に見られたくなかったんだろう」

 義秋は缶コーヒーを開けた。

「何で見られとうなかったか、分かるね」

 政典は、また一気に魚が餌に喰らい付くタイミングに合わせて糸を手繰った。

「来たか…」

 義秋は身を乗り出して海面を見た。

「ああ、今回はバッチリばい…」

 政典は咥えタバコのまま微笑む。一気にテグスは手繰り上げられる。「ヨシア、網ば頼む」

 政典は近くに置いてあった網を義秋に渡した。

「ああ…」

 義秋は網を構えて魚が上がって来るのを待った。澄んだ海の中でゆらゆらと魚影が見え始める。

 政典はテグスを上げるスピードを緩めた。

「鯛みたいやね…」

 そう言うと更にゆっくりと糸を手繰る。義秋は網の先を海中に入れた。水面近くまで来た魚を義秋は網ですくい、船の上に持ち上げた。

 政典は立ち上がってその魚の入った網の中を見下ろした。しかし、網の中で暴れる魚に手を出さなかった。

「どうした…」

 その様子に気付いた義秋は、政典と同じ様に網の中を見た。そして目を見開く。

「ヨシア…。お前…、こん魚ば食えるや…」

 政典はその魚を持ち上げた。

 背骨が曲がって、腹側に肉の付いていない鯛だった。一見、それが鯛だとは誰も思わない、深海魚の様な魚にしか見えなかった。

 義秋は言葉を失った。その鯛は確実に奇形だった。

 政典は針からその鯛を外した。そして瞼の下をひくひくと痙攣させながら口を開いた。

「お前にコレば見せたかったったい。こんな奇形はまだ良か方たい。尻尾が二つある魚、足の数の足らん蛸もおるったい。ここで釣れる魚もそがんやけん、そんブイの向こうはどげん事になっとるか、俺らでも想像つかん。でも、これがこの海の実態ばい」

 義秋は口の中が渇くのが分かった。口を開こうにも渇いた口が張り付き開けなかった。

「お前が住んどる頃にも原発はあった。けど、こんな奇形の魚はまだ少なかった。原発の近くは魚がよう釣れるけんってみんなここで釣っとった」

 政典は原発と反対の方向を指差した。

「お前も知っとろうが、あん島のし尿処理場の辺りの魚が丸々太ってデカかけんって良う釣っとったろ…。もう今は無かばってん…。あれと一緒たい」

 そう言うと、視線を目の前の魚に戻した。「ばってん、俺が二十歳位ん時に、初めてこんな奇形の魚がココで釣れるって話題になった。漁連の偉いさんたちも原発と関係あるっちゃなかかって、金ば出して魚ば調べてもろうたとよ…」

 政典はゆっくりと椅子に座り、手に持ったタバコを灰皿に放り込んだ。

 義秋はじっと政典を見つめていた。

「詳しい事までわからん。ばってん間違いなく、原発から出る放射能の影響やって事やった。漁連の連中は、その結果ば持って原発に行ったったい。そしたら原発の方も調査するけん待ってくれって、二年以上、何にも返事は返って来んかった。そしてようやく原発がした事って言えば、このブイば張った事くらいで…。漁連の偉いさんも多分、金ば貰ろうたっちゃろね。ここで漁ばせんようにって言われただけで、この話はご法度になってしもうたったい」

 政典はタバコをまた一本咥え、火をつけた。「農協の方でも似た様な事があったっちゃろうばってん、俺は知らん。いつの間にか町の中で原発の話ばする事自体、ご法度みたいになってしもうて…」

 義秋は視線を目の前の奇形の魚にやった。見れば見るほどに不気味な魚だった。

「智子が怒った理由な…」

 政典が吐いたタバコの煙がグレーの寒空に流れた。「智子…何年か前に癌の手術ばしたったい。そん傷が背中に残っとるらしか…。そればお前に、見られたくなかったっちゃろ」

 義秋は昨日の智子の話を思い出した。原発の町で起こっている現状が義秋の胸の中に容赦なく流れ込んで来た。

「智子だけじゃ無かとぞ…。こん町ん人の癌の発症率は異常たい。みんな癌で死なすとよ…」

 政典はまだ長いタバコを灰皿に入れ、立ててあった缶コーヒーを取って飲んだ。「それだけじゃ無か…。生まれてくる子供にも異常のある子供が増えとる。余所よその街では、こん町から嫁ば貰うなって話になっちょる程たいね…」

 義秋は飲み込む唾液も無かった。そして、目を閉じた。昨日の智子の言葉が脳裏を駆け巡る。想像以上に酷い現状だった。いや、義秋にはその現状の微塵も想像出来て無かったのかもしれない。自然に両手を力強く握った。

 政典は目の前の魚を海に放り込んだ。船の傍で投げ込まれた魚が水面を叩く音がした。

 義秋は、その音のした先の波紋を見た。

「こげな魚ば持って帰ったら、村八分にされるけんね…」

 政典はそう言うと微笑んだ。そして、義秋の肩を叩いた。「ヨシア…。これが、お前が捨てた町の現状たい…。分かったか。余所モン」

 義秋の肩を掴んだ政典のその手からは震えが伝わった。

「お前がこん町に何ばしに来たか…俺は知らん。ばってん、お前には真実ば知っとって欲しかったっちゃんね…」

 政典は陸にそびえる様に建つ原発を見た。

 義秋もその政典の視線の先を追った。

「お前はジャーナリストやろ。こん事ば書いて真実ば世間に知ってもらう様にも出来る。それが羨ましかったい。俺にもその腕があればいくらでん書くと…。高校行かんかった、勉強ばせんかった事、今になって後悔しとるとばい」

 政典は義秋の肩から手を離した。

「マサ…」

 上手く政典を呼べたかどうか分からない程小さな声を義秋は発した。

 その声に、政典は小さく何度も頷いた。

「お前、もちろん北陸の撃たれた国会議員の話知っとるやろ…」

 義秋はコクリと頷く。

「プロの殺し屋の仕業かもって話やった。今朝のニュースで言うとった」

 今朝のニュースを見ていない義秋は初耳だった。

「あの殺された松本議員は原発再稼働に反対しながら、原発からかなりの金ば引っ張っとったらしかたい…。そげな議員は殺されて当たり前たいね…」

 政典は缶コーヒーを飲み干した。「誰も口には出さんばってん、あん殺し屋はこん町でん、英雄たいね。原発ば動かそうとする奴はみんな敵ぞ…」

 そう言うと空き缶をゴミ箱に放り込んだ。

 義秋は苦しくなる程のこの町の真実を聞いた気がした。一見、そんな事を考えていない様に見えた政典の口からそんな話を聞いた事もその原因かもしれない。そしてその話を、そこにある真実をただ聞く事しか出来なかった自分が無力に感じた。

「さあ、寒かけん…帰ろうか…」

 政典はそう言って碇を上げた。「生け簀に寄って帰るけん。何も魚ば持たんと帰ったら智子ん…、うるさかけんね」

 その言葉に義秋は頬を緩めた。


 海の町は漁師の船が帰ると、岸壁に迎える人が寄って来る。港に入って来る船影を見つけると家を出て岸壁に来る。

 今日は政典の船を見つけて、智子と節子が迎えに来た。

 義秋は政典の船の舳先に結ばれたロープを智子に渡した。智子はそのロープを赤く塗られた鉄製の係船柱に掛けた。

「どげんね。釣れたね…」

 智子は船から降りてくる政典に言う。

「釣れん釣れん。ヨシアが下手糞やけん。そん代わり生け簀から持って来たけん」

 政典はクーラーボックスを智子に渡した。智子と節子はクーラーボックスの中を覗き込み、大きな魚に感嘆の声を上げていた。

「やっぱ、都会ん人になると魚釣りは下手糞になるったいね」

 義秋の横で、小さな声で節子が言う。

「ああ…。俺は岡釣おかづり専門だからな…」

 義秋はそう言って笑い、古谷旅館に向かって歩き出した。

「え…」

 節子は不思議そうな顔をして、義秋の背中を見た。「岡釣りって何よ。ねえ、ヨシア」

 節子は大声で義秋の背中に言った。


 義秋は旅館に帰ると、冷えた身体を温めるために大浴場に入った。誰もいない大浴場の窓際で暮れた空を見ていた。

 嫌でも船上での政典の言葉が蘇って来る。

 いつだったかテレビで反原発派の議員が声を荒げて話しているのを見た事があった。その議員は、演説台をドンドン叩きながら、

「人がコントロール出来ないモノを利用するなど言語道断だ」

 そう言っていた。義秋はその時、その言葉は自分には関係の無い世界の話だとしか思えなかった。そしてそれを必死に訴えるその議員の姿が滑稽にも見えた。

 しかし、今日、その原発のもたらす現状を目の当たりにした。そしてその「原発の町」に住む人の声を聞いた。

 自分が捨てた町。

 政典は義秋にそう言った。確かに義秋が遥か昔に捨てた町なのかもしれない。しかし、その町は今も生きていた。原発という恐ろしいモノに蝕まれながらも生きている。そして、そこに生きる、かつての仲間もいる。それを考えると鼻の奥がツンとした。

 窓に映る自分の頬に涙が伝うのが分かった。義秋はお湯で顔を洗う。

「ヨシア…」

 義秋を呼ぶ声がした。窓ガラスには節子が映っていた。振り返り節子を見る。

「どうした。また一緒に入るか」

 義秋は手を広げて、服を着たままの節子を招く様にした。

「馬鹿…」

 節子はそう言うと笑った。「今日も泊って行くかどうか、智子が訊いて来てって言うけん」

 節子は義秋から目を逸らして言った。

「ああ…」

 義秋は濡れた髪をかき上げた。「今日は一度ホテルに帰るよ」

「そう、分かった…。じゃあ、そう伝えとくけんね」

 節子の表情が少し曇った気がした。

「ああ…頼む」

「うん…。ご飯は食べて行くっちゃろ」

 節子は脱衣所に続くドアのところで立ち止まり振り返って言った。

「ああ…」

 義秋は節子に微笑んだ。

 節子もその義秋に嬉しそうに微笑む。

 昔見た節子の笑顔だった。その笑顔に義秋は少し胸の奥を直に掴まれた気分になった。

 じっと節子を見つめる義秋に、

「何よ…」

 節子が笑いながら言った。

 その声に義秋は我に返った。

「あ、いや…」

 義秋は節子から目を逸らした。

「何ね…。変なヨシア」

 節子は口に手を当てて笑った。

「やっぱり、一緒に入ろうか…」

 義秋はそう言うと湯船の中で立ち上がった。

「馬鹿…。私はヨシアの裸じゃ驚かんけんね…。知っとるし」

 節子は笑いながら大浴場を出て行った。

「あらま…。変態オジサン作戦失敗か…」

 義秋はそう呟くと、湯船の中に背中から倒れ込んだ。

 大浴場の脱衣所でその義秋の様子を見て節子はクスクスと笑っていた。

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