第1話 再会

 義秋にはこの町の冬の記憶はあまり無かった。雪なども滅多に降る事もなく、白いその町を見たのは初めての様な気がした。

 義秋がその町を離れている間に、沖に浮かぶ島との間に大きな橋が架かり、ちょっとした観光地になってしまっていた。

 こんな雪の日にわざわざこんな所に来るモノ好きもいないだろう…。

 義秋は雪で白くなった町を見下ろしながら微笑んだ。

 土産物屋の駐車場に車を停めて、自動販売機で買った缶コーヒーを飲みながらタバコを吸う。義秋が吐き出す白いモノはタバコの煙なのか吐息なのか、既に見分けも付かない。

 土産物屋の店先には、土産物だけではなく、地元で採れた野菜や魚の干物なども並べてあった。

 相変わらず、何も無い町だな…。

 義秋はタバコを灰皿で消すと、缶コーヒーを飲み干して自動販売機の横の赤いダストボックスに放り込む。

 ちらつく雪を気にしながら、車に戻り、ドアを開けた。少し屋根のない場所を歩いただけで、頭の上と上着の肩には雪が残っていた。

 義秋は肩の雪を払い、車に乗り込む。

 少し停めていただけの車のフロントガラスも既に雪が覆っていた。

 義秋はエンジンをかけて、ワイパーでその雪をかいた。ワイパーは音を立てて雪の束を脇に運び、義秋の視界を広げた。

 そこに同じ様に雪で真っ白になりながら一台の車が、土産物屋の駐車場に入って来た。その車は義秋の車の横に停まった。左ハンドルの義秋のすぐ傍で、その女はドアを開けて車を降りた。

 二人は目が合うと会釈して、お互いに頭を小さく下げる。

 小走りに土産物屋に入って行く女の背中を義秋はじっと見つめた。

「節子…」

 その背中を見て、自然にその名前がこぼれた。

 すると、その女も勢いよく土産物屋から顔を出して、じっと義秋を見た。

 間違いない…。節子だ。

 義秋はその懐かしい顔を見て少し照れ臭くなり俯いた。

 車のガラスをコツコツと叩く音に義秋は顔を上げる。そこにはよわいを重ねた節子がいた。

 少し躊躇ためらいながら、ゆっくりと雪の張り付くウィンドウを下げる。

「ひょっとして、ヨシア」

 ヨシアとは義秋がこの町にいた頃のあだ名だった。

 降り込んで来る雪に目を細めながら、義秋は節子の顔をマジマジと見た。

「節子か」

 自然と頬がほころぶ。「久しぶりだな」

「わぁ、やっぱりヨシアやん」

 節子は嬉しそうに声のトーンを上げた。

 義秋はその声にサングラスを外す。

「どがんしたと、里帰りね…」

 節子は頭の上に雪を積もらせながら言った。

 里帰りと言っても義秋の住んでいた家はもうここには無い。この町にあるのは先祖の墓と数軒の親戚の家くらいのモノで、こんな雪の日にわざわざ来る理由なんて何処どこにもなかった。

「出張で近くまで来たから、寄ってみたんだよ」

 義秋はドアを開けて、車の外に出た。

「いやぁ、ちょっと待っちょって。智子がここん店におるとよ」

 節子はそう言うと土産物屋へ小走りに走って行く。

 それを見て、義秋はウィンドウを閉めて、エンジンを止めた。

 高校を出てからこの町に帰って来たのは初めてだった。当時とは町の様子も大きく変わっていて、道の幅なども記憶していたより狭く感じる。

 義秋は車のドアをロックした。

 こんな田舎では、別に車のドアをロックする必要もないのだろうが…。

 土産物屋のドアが開き、節子が再び顔を出す。そしてその節子に続いて智子が顔を出した。

 それなりに二人ともトシを取っていた。もちろんそれは義秋も同様なのだろうが、見慣れた自分の顔にそんなに違和感はない。

 義秋はぎこちなく右手を挙げて、智子に挨拶した。

「嘘ぉ…。ヨシア」

 節子同様に智子も声を上げる。

 義秋も土産物屋に小走りに走り、肩と頭に積もる雪を払うと顔を上げた。

「智子か…。久しぶり」

 義秋も店の中に入り、ストーブにかけられたやかんの湯気に曇ったドアを閉めた。

「いや…何年ぶりかな」

 節子と智子はキャッキャッと声を上げて話していた。

「もう二十年以上かな…」

 義秋は照れ臭そうに言う。

「高校卒業以来やもんね」

「私は高校違ったけん、もっと経っちょるばい」

 約二十年ぶりの再会だった。

 店の奥にある食事の出来るスペースに座ろうという事になり、三人は座った。

 手際良く智子が温かいお茶を入れ、義秋の前に出した。

「この店、智子がやってんの」

 義秋はお茶を一口飲むと智子に訊いた。

「親がやっちょるとばってん、私も離婚して出戻りやけんね。ちょっと手伝っとかんと追い出されるったい」

 智子はそう言って声を出して笑った。

「確か旅館もやってただろ。じゃあ旅館継がなきゃな」

 義秋は智子に微笑んだ。

「旅館は弟が継ぐ事になっちょるけん。私はこん店ば貰おうと思っとると」

 智子は口を押さえて笑っていた。「何、今日は里帰りね」

「里帰りしようにも、もう家もないからな」

 義秋は自分の家のあった方角を指差して言った。

「ああ、そっか」

 智子は納得して頷いた。

「出張のついでやって」

 節子が智子に小声で説明した。「ヨシアは仕事、何ばしよっと。高そうな外車乗っちょるみたいばってん」

 節子が身を乗り出して義秋に訊いた。久々の再会だった。そんな話をすると一晩有っても足らないだろう。

「俺か…。今はフリーライターやってる」

 義秋がそう言うと節子が突然声を詰まらせた。

「ああ…」

 そう言って智子の顔を見る。

「ダンナと同業」

 智子はぎこちなく義秋と節子の顔を交互に見て笑った。

「そうか…」

 少しまずい事を言ったのに気付き、義秋は顔を引き攣らせた。

「新聞記者ばやっとるとよ」

 智子は然程さほど気にしている訳ではなさそうだった。「私のダンナ…、元ダンナはヨシアも知っとる人よ」

 智子はお茶を飲んだ。

「俺が知ってる奴か…。同級生か」

「私らと高校一緒やった人よ」

 今度は節子が言う。

「へぇ…高校の同級生で新聞記者になりそうな奴か…」

 義秋は腕を組んで椅子にもたれた。

「ヨシアとは、結構仲良かったはず」

 智子は立ち上がり、売り場のお菓子を持ってきて包み紙を開けた。「食べて」

 そう言ってお菓子を勧める。

「誰だろ…。仲良かった奴か…」

「三年の時、クラス一緒やったと思う」

 節子は広げられたお菓子を一つ手に取った。

「良介か」

 義秋は一番初めに思い付いた名前を口にした。

「当たりぃ」

 節子はお菓子を口に入れながら手を叩いた。

「そう。井崎良介が私の元ダンナ」

 義秋は懐かしい名前を久しぶりに聞いた。

 井崎良介とは高校で知り合い、三年間一緒にラグビー部に所属した。クラスも二年間一緒で、義秋は関西の大学へ、良介は九州の大学へ進学した。それ以来会っていない。

「懐かしいな…」

 義秋たちはもう何度そう言ったかわからなかった。

「節子も結婚したんだろ」

 義秋は節子に訊いた。

「節子はほら、県会議員の娘やけん」

 智子がニコニコしながら言う。

「県会議員…」

 初耳だった。

 高校時代、節子の父親は町役場で働いていた。そんな記憶があった。

「知らんと…。三村健三。地元の名士たい」

 智子が誇らしげに言った。

 その名前を聞くと義秋の顔は少し曇った。しかし、直ぐに笑顔になり、

「へぇ…知らなかったな。県会議員のご令嬢か」

 節子の名が三村である事をその時に思い出した。

 義秋がこの町に来た理由、それが三村健三だった。

「そんなん違うわ」

 節子は慌ててご令嬢という響きを否定した。

「何ば恥ずかしがっとるとよ」

 智子は思い切り節子の肩を叩いた。「節子のダンナも今は市会議員ばしとらすとよ」

 智子は自分の事の様に誇らしげにそう言った。

「神谷一馬って市会議員。しらんかな」

 市会議員の名前まで義秋が知る筈もない。しかし、神谷という名前は聞いた事があった。その神谷一馬の祖父の時代から市議をやっている一族だろう。

「今度、県会議員に立候補さすとよね」

 智子は少し恥ずかしそうにしている節子の肩を叩く。「そうすると、節子も県会議員の奥さんたいね」

「親父さんもダンナも県会議員って事か」

 義秋はそう言うとお茶を飲み干した。

「ううん。お父さんは国会議員に立候補しとるけん、県会議員は辞めたとよ…」

 節子は、少し声のトーンを落とした。

 それは義秋も知っていた。三村健三は四期務めた県会議員を辞め、今回参議院選に立候補していた。

「もう良かやん。私の話は」

 節子は少し迷惑そうに言った。

 その言葉に智子も口を閉じた。

「ヨシア。何時までおるとね」

 節子は湯呑を置きながら言う。

 義秋はテーブルの端にあったスチールの灰皿を引き寄せ、ポケットからタバコを取り出した。

「吸っていいか…」

 義秋が智子の顔を見て訊くと、智子は小さく頷いた。

「何にも考えてない。しばらくは暇なんで、二、三日はブラブラしようと思ってたけど」

 義秋はマッチを擦りタバコに火をつける。

「どこに泊ると」

「ああ…駅の近くのホテル」

 駅と言っても、この町からは車で小一時間かかる距離で、雪道をそのホテルまで走れるのか、少し不安だった。

「うちに泊ったら良かとに…」

 智子はそう言った。「安うしとくばい。元々安かばってんね」

 節子もそれを聞いて笑っていた。

「ああ…。もう智子もこの町にいないと思ってたからさ。もし街まで行けなかったら頼むよ」

 義秋は微笑みながら煙を吐いた。

 この町を離れて二十年以上。その時間を一気に巻き戻す様な感覚に囚われた。

 土産物屋の窓からは新しく架かった大きな橋と、止まった時間の様な小さな町…町と呼ぶのもおこがましい程の集落が白く染まって行くのが見えた。


 義秋は日が暮れる頃に、予約しておいたホテルに辿り着いた。

 古びたスーツケースをテーブルの傍に置いて、真っ白なベッドに倒れ込んだ。

 自分の生まれた町を高台から見下ろした。義秋が住んでいた頃と違い、周囲の開拓もかなり進んでいた。

 義秋が住んでいた頃に、義秋の祖父と両親は小さな鉄工所をその町で営んでいた。しかし、小さな町でそんな鉄工所の需要がある訳ではない。義秋の両親はその鉄工所を閉めて、関西へ引っ越した。当時、高校生だった義秋は高校を卒業するまで、その町に残った祖父母と一緒に暮らす事になった。

 小さな町で、学校に転校生が来る事も、出て行く事も少ない。無理に転校する事もないという事で、高校を出るまで義秋はその町に残った。高校を出ると祖母が亡くなり、義秋の父は祖父を関西へ連れて行く事にした。その時に義秋たちの住んでいた古い家を処分した。

 高台から見た義秋の住んでいた家の場所は、真っ白で平らな土地だった。田畑の類になっているのだろう。その場所に行ってみようとも考えたが、今日は雪の心配もあり、早々にホテルに引き上げる事にしたのだった。

 ポケットの中で携帯電話が震えていた。

 義秋はポケットから携帯電話を取り、その液晶画面を見た。そこには、知らない番号が表示されていた。

「はい…」

 義秋はその画面を指で撫でると耳に当てた。

「木瀬義秋さんの携帯ですか」

 少し緊張した様子で電話の向こうで男がそう訊いた。

「そう…ですけど…」

 義秋は身体を起した。

「おお…、ヨシアか。俺、俺」

 さっきとは打って変わったトーンでその男は言う。

 聞き覚えのある声だった。その声も節子や智子同様に義秋の時間を巻き戻す。

「お前、マサだろう…」

「正解。久しぶりたいね」

 マサ。岩見政典は更に声のトーンを上げる。政典とは中学まで一緒だった。彼は高校には進学せずに漁師だった親と一緒に海の男となった。

「智子に聞いたとばってん。昼間来ちょったんやね。久しぶり過ぎてびっくりしたとよ」

 政典は電話越しに大声で笑っていた。

 節子と智子には携帯電話の番号を教えていたので、それが同級生の政典に伝わったのだった。小さな町の事でそれも予測出来た。

「元気にやってるか」

 義秋はポケットからタバコを出して、窓際の椅子に座る。

「元気元気。それだけが取り柄たい」

 相変わらず豪快な雰囲気を醸し出す政典だった。「何ね、駅前に泊っちょるって聞いたとばってん…」

「ああ、智子が居るって知らなかったから、こっちのホテルを予約したんだよ」

 タバコに火をつけて、窓の外の雪を見た。

「地元に戻って来て、何ね…水臭かね。うちにもヨシアの泊る部屋くらいあるとに」

 政典は嬉しそうに言う。

「気持ちは有難いけど、それじゃ迷惑掛けるからな…。年中ホテル住まいみたいな生活してるからもう慣れてる」

 義秋はタバコを咥えたまま上着を脱いだ。

「フリーライターば、しよっとや」

 政典は電話の向こうで酒でも飲みながら話している様だった。「外車乗って儲かっとるちゃなかかって智子が言うちょったばい」

 その言葉に義秋は苦笑した。

「マサと酒飲めるくらいは稼いでるよ」

 そう言って鼻で笑った。

「今日は雪で、そっちまで行かれんけん、そん酒置いちょって、その分も一緒に今度飲むけん」

 政典のその言葉に二人で笑った。


 義秋はホテルを出て、道を挟んだ向かいにある古びたラーメン屋に入った。

 サラリーマン風の客が二人、天板の擦り切れた安物のテーブルに着いてラーメンをすすっていた。

 義秋はその二人の横を抜け、カウンターに座る。

「何にしましょう」

 店員は、水の入ったグラスを義秋の前に置いて、手に持ったメモの様な伝票を開いた。

「ラーメンと焼飯」

 そう注文すると、店員はその伝票に書き込みながら厨房を覗き込み、義秋のオーダーを伝えた。

 その古ぼけた店には不釣り合いな大きな液晶テレビが店の奥でニュースを流していた。

 テレビのニュースはここ数日、国会議員が狙撃された事件で持ち切りだった。しかし、捜査は一向に進展せずに同じ映像ばかりが流れていた。

 狙撃された国会議員は地元にある原発再稼働の反対運動の中核的人物だったらしく、その関係で狙撃されたのではないかとニュースキャスターは原稿を読み上げていた。

「しかし、そんな距離から一発で狙撃出来る奴なんて日本にもいるんですね…」

 テーブル席に座ったサラリーマン風の一人が言う。「そんなゴルゴみたいな奴、テレビの世界だけかと思ってましたよ」

「プロの仕業みたいだな」

 もう一人の男は音を立ててラーメンをすする。「向こうの警察はそれも視野に入れて捜査してるみたいだ」

 箸を止めて、口の中をいっぱいにしながら続ける。

「怖いですね…」

 向かいに座る男は眉をしかめて言った。

 義秋はその二人の会話を聞きながらテレビの映像に視線を向けると、雪景色の中でコートを着た警察官が直立不動で検問をしている映像が映っていた。

「はい。ラーメンと焼飯です」

 汚れた白衣の店員は義秋の前にラーメンを置いた。

「ありがとう」

 義秋は店員に礼を言うと、割り箸を一本取った。


 義秋はホテルの部屋に戻るとノートパソコンをスーツケースから出し、テーブルの上に置いた。その横にコンビニで買ってきた袋を置く。

 ヒーターの効き過ぎる部屋の窓は結露でダラダラと水滴を流していた。その曇る窓越しに、すっかり白くなった街の景色を見た。政典もこんなに雪が降るのは経験した事がないと言っていた。雪に慣れていない街は車の通りも少なく、その分いつもより静かなのかもしれない。

 その窓の外を見ながら義秋はタバコにマッチで火をつけた。

 義秋はタバコに火をつけるのにマッチを使う事が癖になっていた。初めてタバコを吸った日も確かマッチで火をつけて吸った記憶があった。

 あの日も政典と一緒だった。


 その日、義秋は学校の帰りに政典の家に寄った。特に用がなくても帰り道にあった政典の家にはよく立ち寄っていた。

 やけに若く見える綺麗な母親と、その母親そっくりな美人の姉が政典にはいた。

「ヨシア君、ゆっくりしていきよ」

 政典の母はそう言うといつもの様にコーヒーとお菓子をテーブルに置いて出て行く。

「ありがとうございます」

 既に閉まってしまった襖の戸に向かって義秋は礼を言った。

 政典は母親が出て行ったのを確認すると机の引き出しを開けた。

「ヨシア」

 政典は引き出しの中から封の切られていないタバコを取り出して義秋に見せた。

 中学に入ると少し悪ぶった友達がタバコを吸い始めていた。しかし、そんな様子もない政典がタバコを持っているのは意外だった。義秋はそっと政典に近づき小声で、

「お前、吸うの…」

 そう訊く。

「うんにゃ、まだ吸った事はなかったい…」

 政典はそう言いながらタバコの包みを開ける。「お前と一緒に吸おうと思って」

 政典はニコニコしながら言った。

「火のなかね…」

 政典はそう言って部屋を出て行った。

 義秋は政典の部屋の建て付けの悪い窓を開けた。学校の帰りに少しちらつき始めた雪が、本降りになっていた。

 政典は小さなマッチ箱を持って戻って来る。

「仏壇から貰って来た」

 満面の笑みでそう言う。

 義秋もその政典の笑顔につられて微笑んだ。

「何で窓開けとるとや、寒かろうが…」

 政典は窓を閉めようとするが、義秋はその手を止める。

「お前馬鹿か…。タバコば吸うとニオイの残るとぞ…」

「あ、そうか…」

 政典は、タバコとマッチを持って窓際に座る義秋の横に腰を下ろした。

 義秋と政典はタバコを咥えると、覚束ない手つきでマッチを擦り、タバコに火をつけた。

 初めて吸ったタバコは、父親と同じニオイがした。二人ともその煙を深く吸い込む事も出来ずに吹かし、雪の降る窓の外に煙だけを吐き出していた。

 それからしばらく、学校の帰りに政典の家に行ってはタバコを吹かしていた。

 その頃は、そんな事で少し大人になった気分でいたのだった。


 義秋はそんな事を思い出していた。

 手に持ったタバコは今にも灰が落ちそうになっていて、慌ててそのタバコを大理石で出来た灰皿に押しつけた。

「そんな時代もあったな…」

 窓の外を見ながら義秋はそう呟いた。そしてノートパソコンに向かい小さな液晶画面を覗き込むと慣れた手つきでキーボードを叩き始めた。


 義秋は部屋に備え付けてある電話の音で目を覚ました。手探りに受話器を取ると、

「はい…」

 と掠れた声で返事をした。

「木瀬様、おはようございます」

 ホテルのフロントからの電話の様だった。

「はい」

 義秋は絞り出す様に返事をする。

「ロビーの方に井崎様とおっしゃる方がお越しですが…」

 井崎…。

 義秋はまだ半分寝ている頭を急ピッチで叩き起こす。

 井崎…井崎良介か。

 義秋はベッドの上で上半身を起した。

「あの、電話、代わってもらえますか」

 義秋は頭を軽く振って目を覚ました。


 井崎良介はホテルのカウンターに肘を置いて、義秋に電話するホテルマンの返事を待っていた。

「井崎様、お電話代わって頂いてよろしいですか」

 ホテルマンはそう言うと良介に丁寧に受話器を渡した。

 良介は待ってましたと言わんばかりにその受話器を受け取る。

「ヨシアか」

 良介は受話器を耳に当てるのとほぼ同時にそう言った。

「良介か。久しぶりだな」

 受話器の向こうから懐かしい声が聞こえて来た。

「智子に聞いてな。居ても立っても居れなくてさ。朝から市内のホテル探し捲くったよ」

 良介は声を出して笑った。


 義秋は手を伸ばしテーブルの上のタバコを取り、火をつけた。寝起きのタバコは頭をすっきりさせてくれる。もちろんそんな効能は無いのかもしれないが、それが癖になっている義秋にとっては目を覚ますのにタバコは必需品だった。

「どうだ。一緒に飯でも」

「良いけど、シャワー浴びても良いか。昨日そのまま寝てしまって…」

 義秋は受話器を持ち換える。

「ああ…。それなら良いところがある」

 良介はそう言うとネクタイを緩めた。


 昨日の雪はかなり残っていたが、アスファルトの上の雪は完全に溶け、凍結の心配も無さそうだった。

「びっくりしたぞ。お前が智子と結婚した…してたななんて」

 義秋は運転する良介の横で微笑んだ。

「ああ…十四年、一緒に暮らした。でもやっぱり無理だった」

 良介は静かに笑った。

 車は細い山道を下って行く。少し雪が残るところもあり、良介は慎重にハンドルを切っていた。

「ジャーナリストなんて仕事をしていると…家族なんて後回しになる事もある。離婚も仕方無いのかもしれん」

 良介はちらっと義秋を見た。「お前もライターなんてやってるのなら分かるだろ」

 義秋は苦笑した。

「俺には家族は無いからな…。何とも言えんが」

 義秋は眼下に広がって来た海を見た。無数の小さな島が海と共に広がっていた。車は広い道に出てすぐに、古びた建物の駐車場に入った。

「着いたぞ」

 良介はそう言うと車を降りる。「ここの温泉は気持ち良いぞ」

 良介はにやりと笑って、さっさとその温泉施設の中に入って行った。義秋も良介の後を追う様に温泉施設に入った。


 義秋は身体を洗い、大きな窓から海の見える風呂に身体を沈めていた。その横に良介は泳ぐ様にやって来た。

「昨日、節子にも会ったんだろ…」

 良介は顔をお湯で洗いながら言う。

「ああ…。偶然だったけどな」

 義秋は視線を窓の外の海から良介に移す。

「どうだ。焼け棒杭ぼっくいに火はついたか」

 良介はニヤニヤしながらそう言った。

「馬鹿か。ガキの頃の話だぞ」

 義秋は良介から方言が抜けている事に違和感を覚えながら話す。

 高校時代、義秋と節子は付き合っていた。それを間近でいつも見ていたのが良介だった。

「今じゃ市会議員夫人だって言うじゃないか。こんなフリーライターの嫁になるよりは余程よほど幸せだろうよ」

 義秋は窓の外を見る良介に微笑んだ。

「お前は大人になっても女を見る目が無いな…。あの節子を見て幸せだと思うか…」

 そう言われると、昨日の節子を見ても、そう幸せそうには見えなかった。それどころか少しかげりの様なモノさえ感じた。

「何かあるのか…」

 義秋は良介の方を向いて訊く。

「まあ、飯でも食いながらゆっくり話そう」

 そう言うと良介は湯船から出た。

 その良介の後ろ姿を見ながら微笑み、義秋も湯船から出て行った。


 温泉施設の中の和室に料理が並んでいた。

「美味そうだな…」

 良介は浴衣姿で手を擦りながらテーブルの前に座った。

「すごいな…。昼間っから良いのか…」

 義秋もそう言いながら座り、浴衣の裾を直した。

「ジャーナリストはな、リフレッシュも仕事の内なんだよ…」

 良介はビールを義秋のグラスに注ぐ。義秋は慌ててグラスを持った。

「俺は運転するから…」

 良介はノンアルコールのビールを小さく掲げた。「これにしとくよ」

 その良介を見て義秋は微笑んだ。

「こっちに出張だって」

 良介は軽くグラスをぶつけるとそれを一気に飲んだ。

 ジャーナリストという職業の人間はせっかちな人間が多い。義秋は良介もそれに洩れずと感じて苦笑した。

「ああ…。ちょっとな」

 目の前に並ぶ魚に箸を付けながら言う。

「こんな田舎に出張なんて可笑しいだろ」

 良介も地元で採れた新鮮な刺身を口に放り込む。

「俺はフリーだからな。良いネタのためなら世界中何処へだって行くさ」

 義秋がそう言い終わる前に、良介の言葉がそれを遮った。

「原発か」

 その言葉に義秋の箸は止まった。それは答えずして答えた様なモノだった。

「まあ、良い。ライターは秘密を守るのも大切な条件の一つだ」

 良介は微笑んで、ノンアルコールビールを喉を鳴らしながら飲んだ。

「良介…」

 義秋は箸を置いた。

「ヨシア…。今日は旧友と一緒に温泉に浸かって美味いモン食う。それが目的だ。面白くも何ともない話はまた今度にしようか」

 良介は微笑んだ。

 それを見て義秋は小さく何度も頷いた。

「わかった」

 良介は箸で義秋の皿を指した。

「ほら、その煮付け。美味いぞ…。食わないんなら俺が食うぞ」

 そう言って笑っていた。


 その日は夕方までその温泉で義秋と良介は話した。日が暮れかけた頃に良介は会社に戻らなければいけないと言い、その温泉を出た。そして義秋をホテルまで送り、良介は会社に向かった。

 原発…。

 そう言った良介は、その後、一切その事に触れる事は無かった。昔話を中心に節子や智子の話。二十年のブランクを埋めるには十分な話をした気がした。

 義秋はホテルの部屋に戻り、不在の間に綺麗にメイキングされたベッドに横になった。今風の幾何学模様の天井をじっと見つめて、良介との話を思い出した。


「節子はお前と別れてからもずっと、お前の事しか考えて無かった筈だ」

 良介は食後のコーヒーを飲みながらそう言った。

 考えてもみなかった。納得して別れたと思っていた。

「女はな、そんな簡単に割り切れる生きモンじゃ無いんだよ。ポンと別れて関西行って、お前はそれで良かったかもしれんが、節子はそうもいかなかったんじゃないかな…」

 義秋は良介の言葉を聞きながら、無言で頷くしかなかった。

「節子の結婚が早かったのも、そのせいもあるんじゃ無いかな…。結局、見合いで結婚した様だけど、あれはどう考えても政略結婚だな。神谷との間も冷め切っている。子供もいないしな…」

 節子に子供がない事も良介の話で初めて知った。政略結婚の道具にされてしまっていた事も。

 義秋は複雑極まりない気持ちでいっぱいになった。なったところでどうしようもない。それがまた義秋の胸の中を一層複雑にさせた。

「ヨシア。お前、結婚は一回もしてないのか」

 良介は身を乗り出した。

「ああ。ずっと海外にいた事もあって、婚期は完全にいっしたな」

 義秋は唇を歪めて微笑む。

「女が居ない訳じゃないんだろ」

 その問いに義秋は答えなかった。上手く良介の方で察したのかもしれない。「まあ、良い。でも…」

 良介は義秋の肩を力いっぱい掴んだ。その力は一緒にラグビーをやっていた頃の良介を思い出した。

「今でも、節子はお前の事を想ってる。それだけは忘れるな…」

 そう言って立ち上がった。「さあ、もう一回風呂入って、帰ろうか。相棒」

 その言葉に義秋は微笑んだ。


 色恋など何年も考えた事も無かった。もちろん良介の勝手な思い込みなのかもしれない。節子はそれなりに幸せで、不満など無いのかもしれないのだ。

「勝手な事言いやがって…」

 義秋は天井の模様を見つめながら呟いた。

 起き上がり、上着を脱ぐとハンガーに掛けて壁に吊るす。そしてポケットから携帯電話を取り出し、充電をするために繋いだ。ふと見ると着信のランプが点滅していた。画面に触れて、着信を確認した。着信の相手は節子だった。


 その日、義秋と良介はラグビーの練習をサボり、学校の近くの海岸に並んで寝そべっていた。大きな大会も終わり、燃え尽き症候群とでも言うのだろうか、そんなモノに二人は少し襲われていた。近くの自動販売機で買った缶ジュースを自分の横に置いて、流れる雲を二人で見ていた。

「なあ、ヨシア」

 突然、良介が口を開く。

「何ね…」

 義秋は首だけを良介の方に向けた。

「お前、卒業したら関西行くとか」

 良介はじっと空を見たままだった。

 義秋の両親は既に弟たちを連れて関西へ引っ越していた。義秋も高校を出るまで、この町で過ごすという約束で、祖父母と暮らしていた。進学するにも関西方面へ行く事になるのは覚悟していた。

「そう…なるとかな…」

 義秋は視線を空に戻して言った。

「そうか…」

 良介は上半身を起こし、自分の横に立てた缶ジュースを飲んだ。「こんな糞田舎じゃな…。なんも出来んけんね…」

 その言葉に義秋も身体を起こした。

「なんも出来ん事も無かろうばってん。したい事は出来んかもな…」

「お前、したか事のあるとか…」

 良介は義秋を見た。

「あるっちゃ…あるかな」

 義秋は微笑みながら海を見た。

「お前がセックス以外にしたか事のあるなんて初めて聞いたばい」

 良介も義秋の視線を追った。沖に向かって滑るように走る漁船を二人で見た。

「人ん事ば、サルみたいに言うな」

 義秋は良介の肩を拳で殴った。

「痛っ…。実際そうやろもん。もう節子としたとか」

 思春期の会話はそんな会話が中心で、どんな話をしていてもそこに繋がって行く。

「何で、そげん話になるとか」

 義秋は立ち上がって、制服に付いた汚れを払う。

「否定せんとこがやらしいやっちゃ…」

 良介は義秋を見上げるといやらしく微笑んだ。「誰にも言わんけん、言ってみ」

「うるさかね。そがん言うお前こそ、街の風俗行くって言うとったやろ。あれはもう行ったとか」

 義秋は飲み干したジュースの空き缶を海に放り投げた。空き缶は波に乗って少しずつ沖に流されて行く。

「行ったぞ。やっぱプロは違うったい」

 義秋は、その良介のしみじみと言う声のトーンで嘘だと分かり、ニヤニヤと笑っていた。その義秋に気付いた良介は立ち上がって、義秋の肩を殴る。当時の挨拶の様なモノだった。たまに力を入れ過ぎてしばらく痛みが引かない事もあったが…。

「何で笑うとよ…」

「お前は嘘が下手やけん」

 義秋は傍に置いた鞄を持った。「さあ、帰ろうか…」

「嘘って…。嘘じゃなか」

 そう言いながら義秋の後を良介は追った。


 義秋は節子の携帯電話を鳴らした。

「ヨシア」

 節子と電話で話すのは何年ぶりになるだろうか。関西へ引っ越してしばらくして義秋は節子へ電話をした記憶があった。その当時は携帯電話など無く、引っ越した団地の入口にあった電話ボックスからだった。

「おう…。電話くれたか」

「うん。あんね…」

 義秋はテーブルの上のタバコを一本取って、火をつける。

「今日さ、これから来れる…」

 節子は外にいるのだろうか。少し風の音がした。

「何処に…」

 義秋はテーブルの上のノートパソコンを開いた。

「あ、智子ん家。古谷旅館」

 古谷旅館。懐かしい響きだった。子供の頃に何度か智子の家に遊びに行き、その広い旅館の中を走り回った記憶があった。その後、改築し、今は当時の面影も無いと言う。

「良いけど、どうしたの」

 義秋はノートパソコンを覗き込み、メールのチェックをした。数件のメールが来ている様だった。

「何人か声掛けたら集まれるって言うけん。古谷旅館でプチ同窓会ばしよっかって事になったとばってん」

 義秋がパソコンを覗き込む目が険しくなった。睨む様に液晶画面を見ている。

「無理かな…」

 節子の声に我に返った。

「あ、ああ、大丈夫だよ」

 義秋はタバコの灰を灰皿に落とした。

「良かったぁ…。じゃあ六時くらいにはみんな集まれるけん。そん頃来て」

「ああ、分かった。けど、そこで飲んだら帰れんな」

「古谷旅館に泊ったら良かよ。綺麗になっちょるとよ…お風呂も広いの出来とるし」

 節子は声のトーンを一つ上げて言う。

 義秋はその節子の言葉に微笑んだ。

「わかった。じゃあ、そうさせてもらおう」

「うん。そうし。みんな雑魚寝しても良かたい」 

 節子のうれしそうな声を久々に聞いた気がした。

「わかった。じゃあ必ず行くよ」

 義秋は灰皿にタバコを押し付けた。「誰が来るの…」

 節子はうふふと笑い、

「それはそん時のお楽しみって事で」

 と、悪戯っぽく言った。

「サプライズって訳か。分かったよ」

「うん、じゃあ後でね」

 節子は電話を切った。

 電話を切った後もその余韻が義秋を覆っていた。微笑みながら携帯電話をテーブルに置く。しかし、ノートパソコンの画面に目が行くと、自然と険しい目つきに戻った。青白いその液晶画面には短い文章が表示されてあった。

「予定通り、依頼する」

 その一文に義秋は険しい表情で眉を寄せていた。


「ヨシアか。今日は付き合ってくれてありがとう」

 良介の声は電話を取るなり、いきなり飛び込んで来た。

「いや、こっちこそありがとう。懐かしい話が出来て良かったよ」

 義秋は携帯電話を持ち直した。

「今日、古谷旅館に行くんだろ」

「ああ、お前も来るのか」

 義秋は白いワイシャツに袖を通しながら訊いた。

「いや、俺には古谷旅館の敷居は高過ぎる」

 良介は笑って言う。「それに、仕事も残ってるんだ…。今日は遠慮させてもらうよ」

「そうか。まあ、お前とは充分に話せたしな。今日は我慢してやるよ」

 義秋は携帯を肩に挟み、ワイシャツのボタンを閉じた。

 昼間、良介に言われた節子の話が義秋の中では引っかかっていた。しかしその話を電話でするのも無粋だと思い触れなかった。

「ヨシア」

 良介の声のトーンが少し下がった。

 義秋は窓際の椅子に座り、タバコを咥えた。

「何だ」

「お前、北陸の事件…、知ってるだろ」

 北陸の事件。地元出身の国会議員が自宅前で狙撃されたという事件の事だった。今、ニュースはその事件の事で持ち切りだった。

「ああ。ニュースで見た程度だけどな」

 義秋はマッチを擦ってタバコに火をつけた。

「あれ、お前…どう思う」

 友人として話していた良介とは少しイメージの違う質問だった。

「どうって…」

 義秋は椅子の背もたれに寄りかかり、深く煙を吐いた。

「ジャーナリストのお前に訊いてるんだ。個人的な怨恨では無さそうなんだよ」

 良介の声の裏ではオフィスの喧騒が鳴り響いていた。

「ああ…。あれはプロの仕業だという話だろ。しかし、そんなモン日本にいるのか…」

「それは分からん。そのプロは日本人じゃ無いかもしれん…」

 義秋は灰皿でタバコの先を擦り、灰を落とした。

「まあ、どっちにしても関係の無い話だな」

「そうだな。すまなかった。もう行くんだろ」

 良介は義秋の時間を気遣い、そう言った。

「ああ。そろそろ行かんといけんね。僻地だけんが」

 義秋はぎこちなく方言を使った。その言葉に良介は苦笑していただろう。それが義秋には分かった。

「すまんすまん。もう雪は無いだろうが、気を付けてな」

「ああ、お前も仕事頑張ってくれ」

 義秋は灰皿でタバコの先を潰した。

「智子と節子によろしくな」

 義秋はその言葉に了解して電話を切った。

「さあ、行くか…」

 義秋は壁の上着を取って羽織り、テーブルの上の携帯電話とタバコを掴むと無造作に上着のポケットに突っ込む。そしてポケットに入っていた車のキーを確認すると部屋を出て行った。


 ホテルの駐車場の脇にはまだ雪が大量に残っていた。その奥の屋根のある駐車場に義秋の車は停めてあった。

 ホテルのスタッフに今晩は帰らない事を伝えて鍵を預けた。そう大きなホテルでは無かったが、サービスはしっかりしていた。本来ならば帰らない日はチェックアウトすれば良いのだろうが、義秋はサービスの良さと、部屋から見える風景が気に入ったので、そのままにして出掛ける事にした。

 車に乗り込むと、一日放置していた事もあり、車内も冷え切っていて、吐く息は白かった。エンジンを掛けると目を醒ましたかの様にフロントパネルに明かりが灯る。徐々に暮れかけた街に義秋の車は滑り出した。

 ホテルから町までは普通に走って約四十分程だが、雪や凍結の状態で予定通りに到着出来るかどうかは義秋にもわからない。

 義秋の背中の方向から夜の闇が追いかけてくる。それを振り切るかの様にアクセルを踏んだ。

 少し走ると道は細くくねり、登り始める。

「こんな狭い道だったかな…」

 義秋はスピードを落とす事も無くその道を走った。

 義秋が自分の運転で、この町を走るのは今回が初めてだった。高校を卒業して関西へ行ってから運転免許を取った。自分で運転するのと、人の運転で走るのとでは、随分と道のイメージが違う。バスに乗って高校に通っていた道でも、自分で走るとかなり狭く、曲がりくねった道だと感じた。義秋は当時のバスの運転手を少し尊敬した。

 左手にコンビニが見えた。町までの道程、この先にコンビニなど無い。

 義秋はウインカーを出してそのコンビニの駐車場に車を入れる。車のエンジンを止めて、ドアを開けると街よりも気温が低い事がわかる。少し風もきつい様だった。

 足早にコンビニの中に駆け込むと、生き返る様な暖かさだった。

 缶コーヒーを一本取り、レジに向かう。レジでタバコの並ぶ棚を見て、自分の吸うタバコを見つけると一緒にそれを注文した。

「自分の吸うタバコの銘柄をコロコロ変える奴は浮気者だ」

 などと言うコラムをどこかで読んだ事があった。しかしそんな話に根拠は無く、単に面白可笑しく話題作りをしているだけの無責任な記事だったが、何故かその記事が印象に残っていた。

 隆文は同じタバコをもう十五年以上吸っている。

 そういう意味では俺は浮気者ではないな…。

 タバコと缶コーヒーを受取りながら義秋はそう思い、可笑しくなった。

 車に戻り、ドリンクホルダーに缶コーヒーを置き、エンジンを掛けた。

 まだ町まで三十分はかかる。記憶の中でそんな計算をした。しかし、義秋の知っている道はどんどん新しくなり、当時、山を避けて作られていた曲がりくねった道は、容赦なく山を削り真っ直ぐで広い道に作り直されていた。所々に残る古い道が義秋には懐かしく映った。

 車のカーナビが電話の着信を表示した。義秋はカーナビの画面をタッチした。

「ヨシア」

 車内に智子の声が響いた。

「智子か」

 義秋はドリンクホルダーの缶コーヒーを片手で開けた。

「今、どの辺…」

 義秋は現在地を簡単に智子に説明した。

「じゃあ、もう少したいね…」

 智子は安堵したかの様に言った。「そういえば、良介に会ったと…」

 良介に義秋が街に泊っている事を教えたのは智子だった。

「おう。一緒に温泉行って、ゆっくりして来たよ」

 義秋は缶コーヒーを手に取り、一口飲んだ。「懐かしい話をいっぱいさせてもらったよ。ありがとうな」

「ううん。今日も呼んだとばってん。仕事あるけん来れんって」

 智子は申し訳なさそうに言った。

「それも連絡貰ったよ。本人も残念そうにしてた」

 智子は少し間を置いて、

「うちでじゃ無かったら来たかもしれんばってんね。やっぱり元嫁の実家には来づらいっちゃろ」

 そう言って少し笑った。

「よろしく伝えといてくれって言ってたよ」

 少し場を和ませる様に義秋は笑った。

「そっか…。じゃあ、気を付けて来て。駐車場あるけん」

 智子は電話を切った。

 その頃には昨日、節子と智子に会った土産物屋が見えていた。

 昨日、その場所までは来たが、この先は義秋には本当に二十年ぶりの町だった。町と言うのもおこがましい程の集落。義秋が生まれ育った町。

 同級生の殆どが高校を卒業すると、この町から出て行く。農業か漁業、少しの港湾関係の仕事、公務員にでもならない限り、この町に仕事は無い。フリーライターになる事も、あのままこの町にいたら無かっただろう。

 そう考えると、この町を出る事で人生が大きく変わった事を義秋は感じた。

 細い曲がりくねった道を、スピードを落としてゆっくりと下って行く。周囲の家の屋根には昨日の雪がまだ残っていた。垂れ下がった氷柱が暮れた町の所々にヘッドライトの光を反射させた。

 古谷旅館は海沿いの細い道を少し行った所にあった。微かな記憶を辿りながら、義秋はその場所に辿り着いた。

 記憶とはまったく違う、立派な構えの古谷旅館の前に義秋は車を滑り込ませた。

 義秋が住んでいた頃には小さな町だが旅館は二軒あった。釣り客が来る事から旅館は週末にはいっぱいになっていた。しかし、その旅館も今では古谷旅館一軒だけになっている様だった。

 義秋は駐車場の隅に車を停めた。

 旅館の大きな玄関から智子が出て来るのが見えた。

「ヨシア」

 智子は大声で義秋を呼び、手を振っていた。

 義秋はその智子を見て微笑み、その智子の所へ急いだ。

「すぐ分かった」

 智子はそう訊くと、義秋を誘い旅館の中へ入った。

「分かったけど…凄いな。こんな大きな旅館になってるなんて…」

 義秋は玄関で靴を脱いだ。

「うち、一軒しかなかけん。大きくせんといけんくなったとよ」

 智子は旅館の中をどんどん進んで行く。

「そうか。しかし、これは立派な旅館だな」

 義秋は物珍しそうに見廻しながら智子の後を着いていく。

「お風呂も大浴場のあるけん、後で入れば良かよ」

 智子は少し誇らしげ言う。

「良いね。昼間、良介とも入ったけど…。夜は智子と入るか」

「もう、やらしい…。節子に頼み…」

 智子はニヤニヤ笑って義秋の身体を肘で突いた。


「向井さん。これですかね…」

 国見はパソコンの画面を覗き込みながら向井を呼んだ。

 向井は資料を挟んだバインダーを閉じて、国見の席に向かった。

「例の北陸の事件か…」

 向井は国見の横の席の椅子を引き寄せて座る。

「はい。警視庁の発表ではないですが、狙撃したと思われる場所から松本代議士の自宅までの距離は約七百メートルだそうです。マニアの書いた記事では多分ドイツ、ブレイザー社製の軍用ライフルを使用したのではないかとあります。弾痕からの資料にも同じ様な内容で書かれてます。マニアってあなどれませんね…」

 国見は眉を寄せて画面の記事を読み上げた。

「マニアは俺たちが見落とす所もちゃんと把握してるからな」

 向井は座った椅子をくるりと回し、窓の外を見た。「そのマニアの間で騒がれている様に、原発の再稼働に関する事で松本代議士が狙撃されたのであれば、こっちも他人事じゃないからな…」

 国見も向井の視線の先を追う様に窓の外を見た。日は完全に落ちて、その部屋から見える街の明かりが煌めいていた。

「国見…。過去にそんな長距離の狙撃事件。あるかどうか調べてみてくれないか。どうせ内部の資料には詳しい内容は無いだろう。お前の得意なマニアの記事を当たってみてくれ…」

 向井はそう言うと立ち上がった。「明日は朝から県警本部に行ってくる。夕方には戻る。それまでに出来るだけの情報を集めてくれ。頼む…」

 向井は国見の肩をポンと叩き、微笑んだ。国見もわかりましたと言わんばかりに頷いた。

「俺の予想が当たっていれば、次はこっちだ。何としても阻止しなければ…」

 向井は呟く様に言うと、椅子を国見の隣の席に戻し、颯爽と部屋を出て行った。

 北陸の事件。地元出身の松本栄一郎という国会議員が狙撃され死亡した。七百メートル離れたビルの屋上から狙撃されたという。松本代議士は地元の原発の再稼働に対して断固反対の立場を貫いていたが、それを押し切る様に再稼働は決定した。そして決定した後に、松本代議士の狙撃事件は起きた。

 向井はその点に疑問を感じていた。再稼働が決定する前に反対派を片付ける事はあっても、既に決定した後に反対派の代議士の命を奪う必要があるのだろうか。そう部下の国見に語っていた。

 そして、もし個人的な怨恨が原因では無く、原発の再稼働に関する何かが原因なのであれば、似た様な状況がこの街でも起こり得ると断言した。

 そう語った時の向井の表情を、国見は今もしっかりと覚えていた。そんな険しい表情の向井を今まで見た事のない国見は一種、恐怖に近いモノを感じた。

 国見はノートパソコンから視線を外し、再び窓の外を見る。

 一体、どんな奴にこんな事が出来るのだろうか…。

 そう考えながら昨日降った雪の残る街の風景を見た。そして目を閉じて微笑むとノートパソコンの電源を切った。

「また、昨日のラーメン屋にでも寄って帰るか…」

 そう独り言を言うと立ち上がり、椅子に掛けた上着を取った。

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