2-11

 音を立てないよう静かに階段を昇った。鉄の階段だから、油断をすればすぐに音を立ててしまう。

 だからより慎重に、誰にも気づかれないように一歩一歩踏みしめて、鉄骨階段を昇った。


 無事階段を昇りきると、やすみの笑顔が待ち構えていた。

 右手には携帯電話が握られている。おそらくネットに投稿している小説でも書いていたのだろう。


「五分、遅刻だよ」


「無茶言うなよ。これでも急いできたんだ」


 俺の返答を受けて、やすみは舌を小さく出すと目を細めた。

 そして携帯を後ろ手に持ちかえると、屋上の端へと向けて歩き出す。


 いつも俺とやすみが密会している場所、


 そして唐突にやすみがこんなことを言い出したんだ。


「涼君さ、人が死ぬってどういう事だと思う?」


「なんだよ?急に……」


 彼女の口から出た『死』という言葉を聞いて俺は動けなくなっていた。


 それは先日、やすみ母から聞かされた話のせいだった。

 やすみには持病があり、では長く生きることはできないと。



「はははは。涼君、変な顔」


 やすみは腹を抱えて、カラカラと笑う。

 余命幾ばくもない、死の宣告をされている少女とは到底思えない。


「お前、あのな_______っ」


 言いかけてやめた。笑っていると思っていたやすみの頬には一筋の軌跡が認められる。


「あのね、実は検査の結果がでたの。私また寿命が縮んじゃった……」



「________」


 返す言葉がなかった。こんな時にどんな気のきいた言葉を掛ければ良いのかがわからなかった。やすみも俺もまだ16歳、人生経験がかけていたんだ。


 ……いや、きっとやすみは違う。嫌なことから目を背け、逃げて生きてきた俺にはわからなかった。


 やすみは立ち上がると、泣き顔を隠すことなく月明かりに晒しこう続けた。


「______だからね、涼君に最後に一つだけお願いがあるんだ」


「……なんだ?」


 当然やすみの願いなら、なんでも叶えてあげようと思った。俺が彼女にしてあげられる事は限られている。

 それでも、俺がしてあげられる範囲の事でなら、なんでも全て________


「________あのね、涼君の手で……私を殺してくれないかな」


「……はっ?今……なんて」


「殺してって言ったの」


 目眩を感じ、ひどく視界が歪む。

 やすみが口にしたことは、とても受け入れがたいもので、自殺しようとしていた俺に、説教をくれたあの日の少女と、同一人物なのかと疑いもした。だけど、目眩を無理やり押さえつけて、目を凝らして、向かい合う少女の姿を見ても、あの日の少女。やすみそのものだった。


「なんで、そんなことを言うんだよ……俺の知っているやすみはそんなこと________」


 俺の唇にやすみは右手の人差し指をあてがい言いかけていた言葉を遮り________


「私ね、どっちにしろもう少しで死んじゃうんだよ。だから、今ここで死のうと後で死のうと、そんなに変わらないんだ。涼君が言おうとした事もわかるよ。俺の事は止めたのになんで?でしょ?」


「いや、違う______」


 やすみはゆっくりとした所作で顔を二度横に振り、続ける。


「ううん、違わないよ」


「そんなわけないだろ!違う。全然違う。大違いだ!」


「だったら、何が違うのか言える?今と後で何が違うの?」


 何が違うのか?そんなの考えるまでもない。簡単に即答できる。それは________


「俺は、俺は、やすみと少しでも長く過ごしたい。それに……きっと、俺だけじゃない。やすみの母さん、父さん、朋美さん。今まで、やすみに関わってきた人、全てがそう言うはずだ」


「なにそれ……答えになってないよ……」


「答えになってないかな?でも、それが俺の答えなんだ。いや、俺だけじゃない。総意だ」



「……だったら、私の気持ちはどうなるの?もう生きているのも苦しいの、辛いの。死ぬとわかってて、生かされている人の気持ちは考えてくれないの?」


「それは……ちょっと違うんじゃないか」


「答えになってない!それに、何が違うって言うの?」


 やすみの言葉には嘘があったのだ。

 先日やすみ母から聞かされた、やすみの病状。それは________


 *******




「あの子はね、生まれつき心臓が弱いの。あのままだともう_________そう長くは生きられないの」


 薄々は感じていた事ではあったのだけれど、実際にそれを言葉にして聞かされると時折、胸元をおさえて苦しそうな仕草を見せるやすみの横顔がよぎる。


 こんな重い話を、やすみ母はなぜこうもあっけらかんと話す事が出きるのだろう?それが俺には理解出来なかった。



「そうなんですか……」


「そうなの。だから、あなたにはとても感謝しているのよ。このままあなたと接していれば、やすみの気持ちも変わってくれるかもしれない。私では、あの子の気持ちを変えることは出来なかった。母親失格ね……」


「……気持ちが変わる?どういう意味ですか」


 それはねと、前置きをしてから


「あの子の心臓の状態は、はっきり言って良くない。でも、絶対に助からないというわけではないの」


「__________助かる方法があると言う事ですか?それは、どうすれば」



「それはね__________________」


 *******



「嘘は良くないな。なんで助かるかもしれない方法を、やすみが否定しているのか、それは俺にはわからない。でも、その方法は確実に存在しているよな?だとしたら、その方法を試さないで助かるかもしれなかったやすみが、今この場所で亡くなってしまったら残された俺達はどんな気持ちで過ごせばいいんだ?」


「何が言いたいの?」


「やすみ。なんで移植手術をすることを拒んだんだ?移植を受ければ助かる可能性があるんだろ?」


 やすみ母から聞かされた真実。それは心臓移植だった。『今のままの状態では生きながらえる事はできない。でも、移植を受ける事ができればあの子にも未来がある』やすみ母はそう言ったのだ。

 やすみは苦悶の表情を浮かべ天を仰ぐ。


「……そこまで、お母さんから聞いてたんだ。ふーん。そっか、そっか……」


「なんでなんだ?答えてくれないか?」



「……あのね、涼君。私に心臓が移植されるって言うことは、それがどういう事なのかわかって言っているの?」


「……やすみが助かるって事じゃないのか?」


 やすみは何かを諦めたように、一つタメ息を吐き出すと伏し目がちに言ったんだ。


「はー……あのね、私に心臓が移植されるって言うことは ________誰かが亡くなっているっていう事なの。私ね、人の不幸を願って生きたくない。誰かの犠牲の上に成り立つ命なら私はいらない」


 優しいやすみらしい答えだった。自分の浅はかな考えが恥ずかしくも思えたのだけど、知らない赤の他人とやすみの命。

 天秤に掛ければどうすべきなのかは、考えるまでもない。

 それはやすみの事をしってしまった、俺のエゴなのかもしれない。でもやすみ母も、朋美さんだって同じように思うはずだ。……きっと、やすみに関わった全ての人間がそう思っているはずなのだ。

 だから……


「それでも俺は、やすみに生きていて欲しいんだ」


「無理だよ_________もう決めたの」


「頼むよ」


 やすみは静かに頭を横に振ると、手摺りに手を掛け


「最後は涼君にって思ってたんだけど、無理なんだよね?だったら」


 膝を屈伸させ反動で手摺りを乗り越えようと___________________


「ダメだ!やすみ」


 あの日とは真逆の光景。俺がやすみの腰にすがるようにして飛び越える事をなんとか阻む。絶対に離すもんか。


「ちょっと……涼君。離して」


「嫌だ。こんなの絶対にダメだ。こんな終わりかたなんてあんまりだ」


 過去に自分がしようとしていた事。人生の幕引き。今ならわかる。これだけは絶対に間違っている。

 

「最後くらい自分で決めたいの。ねっ?だから離して」


 背中から腰の辺りに組付いているもんだから、やすみの表情は伺いしれない。でも、やすみは本気だ。俺みたいに誰かに構って欲しくてやっているわけではない。

 その証拠にやすみの体はどこも震えてはいない。怖じ気づいていない。


 どうすれば、やすみを説得出きるのだろう?大声で叫んで誰かを呼ぶ?それは、ダメだ。根本の解決には至らない。今、防げたとしても俺が居ないところで機を狙い行動を起こすかもしれない。くそっ……


 ふと、あるフレーズが脳裏を過る。

 俺が自殺しようとしていたあの日、やすみが俺に向けて言いはなった言葉だ________



「なあ、やすみ俺に言った言葉忘れちまったのか?」


「なんのこと?」


「やすみ言ったよな?『誰かに必要とされている人にはそれに応える、生きる義務がある』って」


「そっ、それは……私には当てはまらないよ」


 言葉の歯切れが悪い。一縷の希望が、逡巡が見てとれた。この機は逃さないと、思いの丈をぶちまける。


「それは違う。俺は、やすみに生きていて欲しい。一緒に思い出をたくさん作りたい。それに、まだ何一つ恩返し出来てない」


「________」


「やすみ?」


「そんなこと言うのズルいよ……ちょっと生きたいって思っちゃうじゃん……」


 感情を押し殺したような声色だった。


「それでいいんだよ。生きよう。ずっと一緒に」


「ずっと一緒に……か。はー、それな無理なの。移植だけは受け入れられない。それだけは絶対に」


「________」


「ごめんね。本当にごめんね」


 言い終えると、しがみついている俺の指を一本づつ、ゆっくりと解きほぐし始める。

 このままじゃ……

 俺は……どうすればいいのだろう。どうすればやすみをとめられるのだろう……


「________それなら、ずっと一緒じゃなくていい。やすみの、残りの人生を俺にくれ!」


 困った挙げ句咄嗟に出た言葉だった。後先の事は考えていない発言だ。今のこの状況を止めるためだけの。


「……私の残りの人生を……?」


「やすみ言ってたよな?やりたい事があるって。夢があるって」


 花火大会の夜の日に、やすみが語った事だった。『学校に通ってみたい。部活のマネージャーをやってみたい。遠くに行ってみたい。遠くの星を見てみたい』と。


「えっ……うん。でも、それと、なんの関係があるの?」


「その残りの人生で、やりたかった事を一緒にやろう。そのまま死んじゃったら悔いが残るだろ?せめて、悔いが残らない最後にしよう!」


 やすみは振り返り、俺を真っ直ぐに立たせると真っ直ぐな瞳で見つめてきた。俺の真意を見破ろうとしているかのように……でも、真意なんてない。今、この場を納める為に言っているだけなのだから。


 何分そうしていただろう?

 時間の感覚すらあやふやになる緊張感の中、唐突にやすみが口を開く。でも、言葉は出てこない。言葉になれなかった吐息の漏れる音だけが耳に届く。


「________」


 俺は何も言えずに、ただやすみの目を見つめ続けた。


 そして、しばらく続く膠着状態に折れたのは、やすみだった。諦めたような笑みを浮かべ、いたいけな少女言ったのだ。


「はーまったく、涼君にはかなわないな……。うん。いいよ。残りの私の人生、涼君にあげる」

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