1-5

「やすみ、来ないな……」

 無意識に呟いた言葉はきっと誰にも届いていない。


 塔屋の扉をぼんやりと眺めて過ごす、三日目の夜の事だった。



 本当はなんとなくわかっていた。

 やすみが自ら進んでここにやって来る事はないと。でも、どうしても一言謝りたかった。

 命の恩人との別れが、こんなもので良いはずがない。勘違いされたまま、すれ違ったままで終われるはずがない。


 これはきっと、俺のエゴだ。俺と会う事を、やすみは望んでいないのだ。

 実際にこの場に現れていないのがその証明。

 それでも一言、謝りたかった。


 やすみとの関係が修復出来なかったとしても、それでサヨナラになってしまったとしても、ただ一言謝る事が出きればそれでいいと思ったんだ。


 それならば今、やらなければならない事は、待つことではないはずだ。


「そうだよな、そう……」


 静かに決意を胸に秘め夜空を見上げる。

 やすみの心を映す鏡のような曇り空。あいにく星なんて一つも見えそうにもなかった。




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 高くそびえ立つコンクリートの塊を見据えていた。


「ほら、どうした?」


 そう自らの足に問いかける。

 地に根が張ってしまったのかと疑ってしまうほど、俺の意思には反して足が進もうとしてくれない。



「ほら、行くんだろ?」


 自らを鼓舞するように、両の手でももを叩く。それでも足は進んでくれない。


「くそっ!」


 時刻は昼時ともあって、周囲を行き交う人々の数は少なくない。

 その人々の好奇の目が、こちらに向けられている事に気がつくと、怖じ気は恐怖に変わりつつあった。

 恐怖を感じていると自覚すると全身が震え、吐き気までしてきた。


 無理だ……やっぱり俺には無理なんだ……帰ろう……

 結局、から俺は何も進歩しちゃいない。



「少年、こんな時間にここで何をしているんだ?」


 少年……?俺の事か?込み上げてくる吐き気を無理やりに押さえつけて顔をあげる。

 四日前、屋上で遭遇した看護師さんだった。たしか、朋美さんって言ったか。



「少年、ずいぶんと顔色が悪いな、診察に来たのか?それなら私が付き添うぞ」


 そう言うと俺の体を支えるように腰に手を回す。拒絶するように距離を取ろうとするも、それを許さないと朋美は俺の体を引き寄せた。


「いや、あの、違います、大丈夫なんで……」


 腰に回していた朋美の手を振りほどくと、次は右手首に手を伸ばしてきた。


「大丈夫って感じじゃないね。ほら、脈も早い」



「あの、本当に大丈夫なんで。少し休めば、よくなるんで……」


 俺の言葉を受けて、朋美は一度こちらから目線を離す。そして辺りを見渡してから言った。


「そうかい________それなら、あそこで少し休むと良い」


 指差す先は病院からは陰になっているベンチだ。あそこなら人目に触れることもないだろう。


「歩けるか?」


 俺は頷きだけで返事を返す。朋美はベンチまで随伴すると俺の手を引く。



「すいません……」


「困ったときはお互い様だ、気にするな」


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「少年、少しは落ち着いたみたいだな」


 言いながら朋美はペットボトルの水を手渡してきた。


「あ、はい。ありがとうございます。おいくらですか?」


 素直に水を受けとると、ショルダーバックに手を伸ばす。財布を取り出す為だ。


「なーに生意気言ってんの?タダだよ、タダ。まあ、その様子だともう大丈夫そうだね」


 朋美は俺の左側、ベンチの空いているスペースに当然のように座ると左手に持っていた缶コーヒーの栓をカシャリと開ける。


「で、何しに来たのかな?」


「……」

 答えられなかった。

 やすみに会いに来た。そんな一言が。

 情けない姿を見られてしまったせいか、あの夜の事をやすみに聞いているのかもしれないと思ったせいか、いや、そのどちらもだ。


「あの娘に、会いに来たんじゃないの?私の言いつけを守ってくれたようで。偉いよ少年」


 言いながらケタケタと笑う。そして、でもねと前置きをしてこう続けた。


「________悪いけど、会わせられないかな、あの娘が会いたくないってさ」


 言ってから手に持っていたコーヒーを一気に煽る。


「やっぱり、そうですか……」


って言うことは自覚はあるんだね」



「まあ、それなりには……」



「自覚があるっていうのは良いことだよ。少年」


 朋美は俺の頭に手を伸ばすと、もみくちゃになるほどめちゃくちゃに撫で回してきた。

 とても驚いた。ちょっと顔見知りくらいの俺に急に何がしたいんだ!?


「ちょ、なにするんですか!?やめてください」



「すれ違いや、行き違いは君らの歳の頃にはよくあるもんだ、私もそうだったしね。今となっては甘酸っぱい、良い思い出だよ」


 ハッハッハッと、たからかな笑い声をあげて目を細め口角を上げる。まるで猫みたいな表情だ。



「……俺、どうしたらいいんですかね?」



「それを私に聞いちゃうかね?少しは自分で考えてみたらどうだい?少年」



「考える……ですか……」

 思わず視線を落とした。考えると言われても何から考えれば良いのかがわからなかったから。



「そんな顔をするな。うーん……そうだね、少しヒントをあげよう」


 朋美は手に持つコーヒの缶を空に掲げるようにしてから続けてこう言った。



「何をして、どうやって、何を伝えるべきなのか、じゃないかな」



「……」


 考えた。足りない脳をフル回転させて考えた。その間、一言も朋美と俺の間では言葉は交わされなかったのだけれど、朋美は文句一つ言わず待っていてくれた。

 そして、しばらく考えて俺の中で一つの結論に達した。


「あの、一つ伝言をお願いしてもいいですか________」

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