1-1
あれは_______初夏にしては蒸し暑くも感じる不快な夜の事だった。
「ごめんね。お母さん」
静まり返った自宅。母親の部屋の扉の前に座り、俺は一人謝罪の言葉を告げていた。
その謝罪の言葉には、いろいろな意味合いが含まれているのだけど、謝らなければならない事があまりに多すぎて、何に対しての謝罪の言葉なのか自分でもよくわかっていなかった。
それに、既に眠っているはずの母親に俺の言葉は届いていないだろう。この行為にきっと意味はない。完全に自己満足だ。
そんな自己満足の謝罪を終えると、足は自然と玄関へと向う。
その横には、もう履くことのないスパイクがキラリと刃を光らせて鎮座していた。
「手入れしなくていいって言ったのに……」
それを見なかった事にして、俺は立ち上がる。
そしてもう一度、心の中で『ごめんなさい』と念じてから玄関の扉を押す________
強い風が吹けば、カタカタと音を鳴らす軽い安物の玄関扉。
なのに、この日だけは凄く重い物に感じて、なかなか開いてくれない。
それでも俺は、行かなくてはならない。きっとこの家の敷居を跨ぐことは二度とないだろう。それでも……
ドアノブを掴む手にいつも以上に力を込めて扉を押す________
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ここ最近は毎日のように、町が完全に眠りに付いたのを見計らって、フラフラとあてもなく徘徊をしている。
最初は、心に巣食うモヤモヤを晴らすため、気分転換の為にそうしているのだと自分では思っていた。
でも、実際のところは深夜徘徊をしていても、心が晴れる事なんて当然ないし、悩みが解決するなんてことも当然あるはずもなかった。
むしろ、こうして徘徊をしながら自問することによって最初は小さかったはずの綻びが複雑に絡み合い、自分の力だけではどうもできない程の巨大な
その巨大になりすぎた物は次第に自我を飲み込み、支配し、気が付けば俺は
田んぼの横を流れる用水路、高圧電流の流れる鉄塔、国道を走る長距離トラック。
その気になれば簡単に見つかりそうなものだけど、そのどれもが俺の最後にはふさわしいとは思えなかった。
でもつい先日、ついに見つけてしまったんだ。
俺の住むこの田舎街で一番大きな建物。
無機質なコンクリート造りの五階建て、この辺り唯一の病院だ。
昼間はどうか知らないが、夜中はとても静かで、でもどこか張りつめた空気が漂っていて、最後を迎えるには最高の場所だと直感で感じたのだ。
どうやって忍び込むのかが懸案事項だったのだけど、それも簡単に解決した。
裏手に回り込んでみれば、非常階段があり、幸運にも自由に出入りができる。
各フロアには、内から鍵が掛けられていて院内には入れないようになっているようなのだけど、屋上に上がるのにはこれで事が足りた。
階段前まで移動して、サンダルを脱ぎ、拾い上げる。
サンダルを脱いだのは、登っている途中に音を立てて誰かに見つかる可能性を下げる為。ここで見つかればきっと俺の計画は失敗に終わる。
サンダルを拾い上げたのは、飛び降りる前に屋上のへりに並べて置いておくため。
これは、ポリシーとかそういうのではなく、残された者への最低限のマナーだと思ったから。
今一度病院を見上げ、唇をすぼめヒューと音を立てて深呼吸をする________
「ふぅー」
ゆっくりと長く息を吐き出す。……覚悟は決まった。
慎重に、音を寸分も立てないように忍び足で鉄骨階段を登る。
辺りには、キチキチキチと鳴くコオロギの鳴き声だけが響いていた。
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