夜が死ぬ前に

おぎおぎそ

夜が死ぬ前に

 母の言いつけを破り、私は真夜中の街へ飛び出した。


 生まれて初めて全身に浴びる天然の暗闇は思っていたほど痛くなく、恐れていた気持ちも不思議とどこかへ消え去ってしまった。


 さあどこへ向かおうか。時間は限られている。


 行ってみたい場所など山ほどあったはずなのに、いざその機会を得ると、途端にどこへ行きたかったのかがわからなくなってしまった。


「おい、お嬢ちゃん。ガキはもう暗室でネンネする時間だぜ?」


 近所の公園のベンチに腰掛けていると、黒い眼鏡をかけたお姉さんに声をかけられた。背が高くスタイルの良い人で、やたらと長い金髪を後ろで一つに束ねている。ルージュのように真っ赤なライダースジャケットがやや威圧的だ。


「あ、こんにちは……」

「こんにちは、じゃなくて、こんばんは! それがこの時間のルール、わかる?」

「あ、すいません……」


 お姉さんは私の言葉遣いに溜息をつく。黒い眼鏡の奥の瞳が睨むように細くなった。


「ていうか、ここ私の特等席なんだけど。何? 誰の許可取ってここ使ってんの?」

「あ、ここ予約制だって……」

「ボソボソ喋るな! 聞こえないだろ、ったく」

「すいません! 予約制だって知らなかったので! すぐ! すぐどけますから!」


 私は隣に置いていたリュックサックを急いでどかし、広げかけていたお菓子を片付けた。弾みで個包装のチョコレート菓子が地面に散らばってしまう。


「すいません……すいません……」

「あーもう、いいからいいから。うん。そこの荷物だけずらしてくれたら、私そこに座るし」


 画材の入ったコットン生地のカバンをベンチから降ろすと、お姉さんはそこへドカリと腰を下ろした。

 お姉さんはスラッと長い脚を組むと、懐から煙草を取り出して火をつけた。


「……で、中学生がこんな時間になんで外歩いてんの?」

「中学生じゃなくて高校生です、私、一応……」

「どっちも大差ないだろ。チンチクリンなガキなんだから」

「そりゃ……お姉さんと比べたらチンチクリンかもしれませんけど……。というか、お姉さんの方こそどうして夜なんかに外に? それにその黒い眼鏡も……?」

「黒い眼鏡って……ああ、サングラスのことか。これはな、お前が生まれるずっと前、太陽が一日の半分しか昇らなかった頃の遺物。その頃の人間は今よりずっと日の光に弱くてな。日光が眩しいときはこれで目を守ってたんだよ」


 そう言ってお姉さんはサングラスというものを私に触らせてくれた。サングラスを外したお姉さんの瞳は、思っていたよりもずっと綺麗で、優しそうな色をしていた。


「でも、今は夜だし必要ないんじゃ……?」

「ここ最近は一日中昼みたいなもんだろ。私みたいな夜行性の人間にとっちゃそれが生活必需品なの。いちいち外すのも面倒だし」

「はあ……」


 お姉さんは煙草を口から外して息を吐いた。ゆらゆらと煙が闇に溶けていく。


「……私はさ、夜が好きなんだよ。今じゃもう、こんなこと言うと白い目で見られる世の中になっちまったけどさ。おい、チンチラ。お前高校生ってことは生まれた頃から昼が長かった世代だろ?」

「あ、はあ……まあ今ほどではなかったですけど……」


 チンチラというのは私のことだろうか。チンチラは可愛らしい生き物だが、恐らくお姉さんは蔑称として使っているのだろう。……背、伸びないかなぁ。


 地球の自転の方向が変わり始めたのが今からちょうど三十年ほど前のことだ。


 公転面に対して垂直な方向に自転するようになり、地球はその昼夜を失い始めた。日本がある内半球(太陽を中心とした太陽系の内側を向いていることからこう呼ばれる)はほぼ一日中昼、逆に外半球は一日中夜の世界が広がるようになってしまった。


 外半球は今やもう文明生活を営むことが困難となり、人類は内半球での生活を余儀なくされた。日光の不足が生命の維持に致命的なだけではなく、夜間は宇宙線の照射量が増大することも問題とされていたためだ。結果として人類の活動時間は昼間に限定され、人々は太陽と共に生きる術を身につけていった。


 最新の研究によればこの天文的な変動はあと数年続き、やがて安定した状態を迎えるらしい。そうなるとここ日本ではその先ずっと太陽が沈まなくなる。そう推測されていた。


「昔はな、もっと大騒ぎしてたんだよ。夜がなくなるー、気温が上がるー、生態系への影響がーってな。……それが今じゃ何だ。医者やら学者やらが揃いも揃って太陽崇拝。日光は身体に良いだの、健康面を考えれば地球の自転が変化したのはむしろ人間という生物にとっては好都合だの……狂ってるよなぁ」

「で、でも日光浴はビタミンDが生成されたりセロトニンが分泌されたりして身体に良いって……」

「あーいいよ、そういうの。もう聞き飽きたから。……それに、私に言わせりゃね」


 お姉さんは一度言葉を切った。夜空を見つめるその瞳はどこか哀しげだった。


「夜にはあんのよ。夜にしか分泌されない、心のセロトニンがさ」

「……はあ」

「さ、そろそろ答えてもらおうか。チンチラ、お前は何で夜なんかにほっつき歩いてんだ? 宇宙線浴ならやめとけ。あれはマジで健康に悪い」

「ち、違いますよ! お母さんにも夜の外出は禁止されてますし、背が低いからこのまま成長止まるのも困りますし……」


 宇宙線は宇宙から降り注ぐ放射線で昼が長くなり始めてからというもの、その健康への悪影響が問題視されている。子供の成長への影響は大きいとされ、(特に私にとっては)致命的な問題だった。


 お姉さんの探るような視線に、私は画材のカバンをそっと膝に抱きかかえた。


「……私、夜って写真や映像の中でしか知らなくて……。ちゃんと見ておきたかったんです。知っておきたかったんです。あと数年したら消えてしまう、夜の姿を」

「……ふーん。変わってんな、お前」

「そう、ですかね……」

「今どき、夜なんて良いイメージないだろ。身体には悪いし、夜勤なんて戦争にでも行くかのように憐れまれてんのに。特にお前の年代なんて、そういう教育も受けて育ってんだろうし」

「……はあ。まあ、家族とか友達にバレたら、かなり、まずいかも、ですけど……」


 頬をポリポリと掻く。ここに来て段々と不安が蘇ってきてしまった。今からでも家に引き返した方がよい気がする。


「……絵、描くんだろ」

「え、どうしてそれを……」

「そのカバンからはみ出してんの、絵筆だろ? それくらい私でもわかる。……で、描くつもりなんだろ、夜の景色」

「……はい、まあ」

「相変わらずはっきりしねーなーチンチラは。まあいい、ついてこい。良い所に連れて行ってやる」


 煙草を携帯灰皿にぐりっと押し付けると、お姉さんは半ば強引に私の腕を引っ張って立ち上がった。


「え、あ、ちょ」

「早くしろ。夜が明けちまうだろ」


 お姉さんはぐいと引っ張る。


 私は何とか画材カバンだけを握りしめ、駆け出したお姉さんの後に食らいついていった。


 リュックサックがベンチから落ちる柔らかい音がした。




 **********



 お姉さんに連れられてやってきたのは、電波塔が生える街一番の高台だった。


 昼間はここから街を一望することができ、デートスポットとしても人気だと聞いたことがある。


 夜の高台は周囲の木々が鬱蒼としていることもあって少し不気味だ。この時間はほとんどの人間が暗室にこもって眠りについているため、街を見下ろしても灯りはなく、少々退屈な景色が広がっていた。


「……真っ暗ですね。さすが夜。何も見えない」


 夜間特有の温もりの無い風に身震いしながら呟くと、お姉さんは溜息を吐いた。


「ばーか。よく見ろ。上だよ、上」

「上……?」


 言われた通り空を見上げると、そこには綺麗な光を放つ無数の粒が広がっていた。白っぽい色が目立つが中には赤や青色の光もあり、混然一体となって夜闇を切り裂いていた。


「わぁ……綺麗……! これって星、でしたっけ?」

「そう。すげぇだろ? 見るのは初めてか?」

「写真や映像でなら何度か。……でも、直接見るのは初めてです! すごい……! こんなにキラキラしてるなんて……!」

「星ってのはカメラで撮るのが難しいんだよ。どんだけ腕のいいカメラマンが撮っても、生の感動は引きだせねぇ」


 初めて見る星空は想像を遥かに超えるものだった。宝石のように美しく賑やかでありながら、その奥に広がる黒々とした宇宙が静寂を感じさせる。ずっと見上げていると、吸い込まれてしまいそうな溶けていってしまいそうな、不思議な感覚に包まれた。


 チラチラと揺らめく星の光をサングラスに反射させながら、お姉さんは再び煙草を取りだした。


「人は死んだら星になる……」

「……星に……ですか?」

「本当になるわけじゃない。昔の人間はよく言ったんだ。夜空に想いを馳せながら、ね」


 でも、とお姉さんは息を吐いた。


「でもね私に言わせりゃ、星ってのは生きてんのよ。燃えて、燃えて、輝いて。そうしていつか燃え尽きてしまう命の象徴。……その儚い光、弱い光がさ。強い光に消されてしまうのが怖いんだ。……私も強くないから。だから……」




「だからちゃんと描き残してくれよ、私が愛した星の姿を…………夜が死んでしまうその前に」




 お姉さんはふっと優しく笑う。


 煙草はいつの間にか似合わなくなってしまっていた。



 しめっぽい空気は一瞬だけで、お姉さんは私の背中をバシリと強く叩いた。


「おら! さっさと描く! 夜明けまであと一時間もねーぞ!」

「は、はい!」


 私は急いでカバンからパレットを取り出した。


 構図を考えながら空を見上げる。


 お姉さんの吐く煙が星の川をゆらゆらと渡っていく。煙草の香りと絵具の匂いが夜に交差する。初めて見た景色なのにどこか懐かしい感じがした。


「……ふふっ」


 私はなんとなく心のセロトニンの意味がわかったような気がした。


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夜が死ぬ前に おぎおぎそ @ogi-ogiso

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