第7話/一章-⑥

『アイボリーマックス』


 この作品を本当に、目の前のうら若い少女が書き上げたというのか……。


 少年と出会った龍の少女が自らの運命に抗うため、天界を目指す、ファンタジー小説。北欧神話が下敷きになっているのだろう……剣と魔法が跋扈する王道ファンタジー。指輪物語の時代から手垢のつきまくった題材で、一見ありきたりと思われがちなストーリーだが、常に新鮮な印象を受けるのは、ひとえに作者の文章力に因るところが大きい。あえて文法を崩す独特の言い回しが、冒頭から読者の意識をがっしりと掴んでくる。没入する。設定が深く細かい割に、テンポが速い。サクサクと読める。構成も意表を衝く展開の連続で、後半までダレることがない。クライマックスに向かうにしたがって、序盤の伏線が流れるように回収され、最後の最後は爽快。この一言に尽きる。爽やかな読後感が余韻を残して物語全体を締めくくっている。




 これに比べて、俺の作品は……。




「で、何を指導してくれるんですって?」

 文庫を片手に無言で逡巡を続ける俺に、紗里緒があざけるような声を放つ。


「……」

 完敗だった。言うべき言葉を、今の俺は持ち合わせていない。二十四年の生涯ではじめて、『絶句』という言葉の本当の意味を身をもって知らされた。


「己の実力を理解したなら黙って、お飾りの顧問に就いてなさい。私たちにはアンタに費やす無駄な時間は無いの。お帰りはアチラよ」

 パソコン画面に目を向けたまま、こちらを見る事もなく入り口の扉を指し示す。


お飾りの顧問……。そうだ。俺の理想じゃないか。あの扉をくぐる前の俺はそれを望んでいた。簡単なことだ。スゴスゴと職員室へ逃げ帰ればいい。校長にはうまく言っておけばいい。表面上さえ取り繕っておけば、何も傷つくことはない。


 しかし、俺はあの扉を潜ってしまった。高みを見てしまった……。


 なんなんだ! この湧き上がる昂りは! 焦りは!


『ウンコ製造機がぁぁぁぁぁあ!』

 紗里緒の叫びが脳内をリフレインする。


 このままあの扉を出たら、ここへは戻ってこられない。そんな確信がある。学園から給料を貰って、その金で飯を食って、ウンコして……そして、また駄作をこの世に生みだす。きっと生みだし続ける。連綿と……。


 ウンコ製造機とは、まさに俺を的確に言い表している……。


「どうした? 早く出て行っ……」


 紗里緒の冷淡な言葉が止まる。驚いているのか。いや、笑っているのかもしれない。今の俺は知る術を持たない。なぜなら俺の視界には無機質な床しか捉えられていないからだ。

 一番驚いたのは当の本人たる俺自身だった。気がつくと、俺は部室の板間に蹲り、頭を床へ擦りつけて土下座していた。


「……ください……」

 なおも無意識に言葉が洩れる。


「はぁ?」

 ようやく紗里緒が素っ頓狂な声を上げ、これが現実であると認識する。


「……してください……」


「何言ってるのか聞こえないんだけど!」


 もう後戻りはできない。


「弟子に! してください!」


 部室内に沈黙が降りる。


 目の前には、暗闇が広がっている。目蓋を強く強く、それこそ痛いくらいに固くつむっていた。

 永遠に感じる程に沈黙は続く。どのくらい経ったろう。一時間か、はたまた一瞬か。夢か。現か。幻か……。もはや感覚が溶け落ちている。……静かだ。瞼を開けると既に、誰もいなくなっているのではないか……不安が募る。それでも怖くて、目を開ける事はできなかった。


「……く……く……」

 小刻みの嗚咽にようやく顔を上げた俺は、紗里緒の憮然とした顔を見た。


 その表情からは何も読み取れない。嬉しさも、悲しさも、慈愛も、軽蔑も。ただただ俺の背後の遠くを見つめるように、逡巡を続けている。


「……くくく……ごめんなさい。いきなり土下座するとは思わなくて……」

 嗚咽の根源は腹を抱えて必死に笑いを噛み殺す響だった。握りこぶしを口元へ当て、洩れ出る声を辛うじて我慢している。しかし、程なくして紗里緒の尋常でない様子に気づくと、繰り返し彼女の名を呼んだ。


「……シャルちゃん? シャルちゃん……シャルちゃんってば!」

 肩を揺さぶられて初めて、紗里緒は意識を取り戻したように目を見開いた。


「……私は……弟子は取らない」

 やっと開かれたその口からは神妙に一言が洩れ、


「出てって頂戴」

 拒絶が吐き出された。


「頼む!」

「くどい!」


 もう一度頭を下げる俺に、今度は秒で否が突き返される。


「そうか……」


 こうなっては、引き下がる他ない。そもそも、みっともない話だ。教師が初対面の生徒に土下座して、弟子入りなんて……。これ以上、駄々をこねるのは、恥の上塗りに他ならない。


 それに、感情がたかぶって今にも泣いてしまいそうだ。今は誰にも、この情けない顔を見られたくない。無言で板間に膝をつくと、ゆっくりと立ち上がり、トボトボと扉へ向かう。


「……和久井センセイ……」

 俺の背中に声を掛けたのは、響だった。肩に置かれた手の平からジワリと温かさが伝わる。


「部員になりますか?」

 耳元へ吐息を感じる。反射的に背筋が伸びる。

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