第27話

ケンスケとの会話は僕にひとときの安らぎをもたらしたが、かと言って気持ちが完全に上向いた訳ではなかった。


 夕食を食べた僕は世間話もそこそこに、さっさとシャワーに向かった。理由は分かっている。


 ヨゾラが忙しくしているからだ。


 予約のドタキャンなんてものはそれほど頻繁に起きるわけでもなく、予定通りに宿泊客はやってきて旅行をエンジョイしている。


 この数日間、ヨゾラは僕にかかりきりだったけれど、他のお客がいるとそのような訳にはいかない。既に居た客と新しい客の対応が違えば、後からやって来た方が不満を抱くのは当然だ。



『おねーさん、ビールありますかっ!』


 食堂の横を通るとけたたましい笑い声と一緒に、酔っ払っているのであろう青年の声がした。


『はいっ、ありますよ~』


 それに応えるヨゾラの声は作り物みたいだ。


『一緒にどうすか!?』

『駄目ですよ~。だれがお皿を洗うんですか~』

『あっ! 私が手伝いますよ』

『そうだよお前、ヨゾラさんに料理習ってこーい!』

『ひどーい!』


 明るい笑い声が響く。彼らはごく普通に旅を楽しんでいるだけで、何も悪くないのだと言うことが僕をさらに悲しくさせる。


『いえいえ、お気になさらず。もーじゃんじゃん、飲んじゃってください』


 今のよそ行きのような言動のヨゾラが、おおよそ民宿の口コミに書かれているような接客業の顔をした彼女なのだろう。


 立ち入りたくはなかったが、冷蔵庫は食堂にしかない。僕は軽く会釈して、空気のような顔をして飲み物を取るために単身食堂へ乗り込んだ。


『あっ! うるさかったスか!?』


 彼らは僕と言う他の客の存在に気が付いたらしく、少し声のトーンを落とした。


「いえ。全然、そんな事ないですよ。すみません、ちょっと飲み物を」


 心の中で、今日はもう絶対に下に降りないぞと固く決意しながらも、極限まで愛想良く振る舞う。


「よかったらポット、持って行ってください」


 ヨゾラが出かける時に持っていた大きな水筒に、麦茶を入れて僕に渡してくれる。もはや完全に、彼女は仕事モードだ。



「はあ~、あ」


 僕は水筒ごと屋上へ行き、そこで盛大なため息をついた。


 つまるところ、僕は自分がその他大勢の客と同じだと思い知らされたのが嫌なのであった。あそこで常連客のような特別扱いを受けていたら、また違った気持ちになっただろう。


 民宿が賑わっていることを喧騒だと思ってしまう事自体、平安名一家にとって僕が害をなす面倒な客であることは間違いなかった。


 金がなければ生きていくことができない。たとえ日本のどこであろうとも、社会のシステムから切り離されては暮らすことができない。


 民宿や、レンタカー。島に非日常を求めてやってくる人々がいなければ、生活費をねん出することができない。


 それはヨゾラだけではなく、この島に暮らす人々のうち、少なくない割合だろう。


 ちまちま暮らしている僕よりも、集団でやってきて車や機材をレンタルし、酒を飲み、消費活動に勤しみ活気をもたらす彼らのほうが、ずっとずっと上等な客なのだ。


 僕は「ほかの人を見ないで、僕だけの場所であってくれ」なんて言えるほどの財産を持っていない。持っていたとして、彼女がそれで納得するかはさらに別問題だ。


「最悪だ──」


 自分は人間の屑だ。わがままで、意気地なしで、根性なしで世間知らずの無能な親のすねかじりだ。しかも粘着質でストーカー気質だ。


 人間が二人以上存在すれば、必ずその場には認識の齟齬が生まれる。今まではヨゾラがすべて僕に合わせてくれていただけで、本来の僕はこれほどにセンシティブな厄介者なのだった。


「本当、最悪だ」


 僕は嫉妬している。決してないがしろにされている訳ではなく、過剰なほどに甘やかされ、尊重され、面倒を見てもらっている事を、当然のように享受していたのだ。


 彼女になにかしてあげたいと思っていても、それは願っているだけに過ぎなくて、一方的に母親の代わりをしてもらっているだけに過ぎない。第三者が現れた事で、自分の姿を客観視できた事は幸と不幸のどちらなのか。


「あー、やってらんねえ」


 叫んだり、物に当たったりする事はしない。ただ、せめて聞こえないように愚痴を闇に紛れ込ませるぐらいは許してほしい。


「週末だけだから、我慢してよ」


 背後から聞こえたヨゾラの声に僕は飛び上がった──比喩ではなく、ほとんど彼女の声に弾かれるようにして立ち上がり、振り向いた。


「今のは、ほかのお客さんの話じゃないっ!」


 いくら情けない所を見せようとも、そこだけは彼女に誤解してほしくなかった。


「まあ、違うんだろうとは思ってたけど──じゃあ、何が違うのよ?」

「……自分自身の小ささにだよ」

「ほかのお客さんがいて嫌だなー、くつろげないなー、って思ってしまった自己嫌悪じゃないの?」


 僕は思わずのけぞった。


「あってる……けど、それは、向こうの人たちがが嫌って意味ではないから」

「うん。わかってるよ」


 沈黙が場を支配し、風に木々が揺れる音が僕たちの間をすり抜けていった。


「仕事は大丈夫なの?」

「もう、ぜーんぶ出しちゃったから。ある分でぜーんぶ売り切れ。明日はダイビングツアーに行くんだって」

「そうなんだ」

「あした、また買い出し手伝ってくれる?」


 廊下から漏れ出した電気がヨゾラのはっきりした顔立ちに、さらに影を落としている。


「うん」


 ヨゾラがそれを望むのなら、僕はどこにだってついて行くだろう。でも、今の僕には彼女が本当に僕の手を借りたいと思っているのか、それともふて腐れているからご機嫌をとってあげようと思われているのか、まったくわからない。


 ……彼女の考えている事は、いつだって、よく、わからない。


「……ねえ。接客業は、嫌い?」

「わからない」


 僕は働いた事がない。僕がここに来たのはちょうど暇な時期で、これから毎週末、秋の連休や年末年始にかけて島は混雑するのだと言う。


 この島に暮らす人々のおおよそ八割は第三次産業──飲食やサービス業に就いている、とヨゾラは言う。ここは農業ではなく、観光の島だから。


「いろいろぐるぐるした結果、自分が最悪だな、って気持ちは分かる」


 ヨゾラはすっと僕の横を通り過ぎ、手すりに体をもたれかからせた。


「そうなの?」


 今度は僕が質問する番だった。ヨゾラはずっと大人で、働き者で、優しい。一体彼女のどこに最悪な部分があるのか、わりと本気でわからない。


「あたし、気が付いちゃったの」


 ヨゾラは突然、そんな事を言った。

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