第24話

 翌日は曇天で、海に行くような天気ではなかった。僕は畳の上に寝転がり、スマートフォンをいじっている。インターネットがなければないで暮らしていけたのに、いざ簡単にアクセスできる状況になってしまうとこの有様だ。


 階下にはヨゾラが居るはずだが、昨日の微妙なあれこれがどうにも僕の心に引っかかっていた。小人閑居をして不善をなす──僕のようなやつを揶揄するために生まれた言葉だろう。顔を合わせると、ぼろを出さない自信がなかった。


「おーい。ハルト君。寝てるー?」


 階下からよく通るヨゾラの声が聞こえて、僕は飼い主に呼ばれた犬みたいに飛び起きて階段を駆け下りた。微妙な空気は僕の気のせいかもしれないから。


「何かあった?」

「いや、何も無いけど。強いて言うならちょっと聞きたい事があって」


 廊下のヨゾラは僕を事務所へと手招きする。


「入っていいの?」

「厳密に言うとダメだけど。まあ、追い出されたくなかったら変なことはしないでしょ?」


 反論はできない。そもそも反社会的な行為をするつもりなどこれっぽっちもないのだが、ヨゾラからすると僕は無敵の非行少年のカテゴリに入っているのかもしれなかった。


 事務所とガレージはガラスの引き戸で仕切られているだけなのだが、おじさんの姿はなかった。


 ヨゾラが言うにはおじさんは沖縄に来る前は色々な仕事を転々としており、島でなんでも屋のような役割を果たしているらしかった……やはりよそ者が集落に馴染むためには、特殊技能が必要とされるのかもしれない。


 事務所の中はお世辞にも片付いているとは言えず、色々な書類と私物らしきものがごちゃごちゃになっていた。


 壁一面のコルクボードには家族写真が何枚も貼られている。今はもう亡くなっているヨゾラの祖父母、今よりは痩せているシンジおじさん、そして小さなヨゾラ。


 ぼやけた写真でも分かるほどに、幼少期のヨゾラは目がぎょろっと大きい。お世辞抜きで可愛らしい女の子だ。


「ちょっと、そこは関係ないから」


 そう言われても、見てしまうのが男心と言うものだ。海岸沿いだったり、花火をしていたり。ヨゾラの母らしき女性の写真はなかった。


 これほどまでに記録が残っているのだ、母娘で写った写真が存在しなかったとは到底考えられず、意図的に省かれているだろう事は明らかだった。


 更に写真を眺めていると、そのうちに制服姿のヨゾラが現れる。セーラー服は中学校だろうか。何人か島内で見かけた記憶がある。写真の中のヨゾラは今よりも一層日に焼けて、白い歯をにかっと見せている。さらに横には、高校の入学式でブレザーを着てはにかむヨゾラとおじさんの姿があった。


「高校かあ」

「高校は出た方がいいよ」


 その言葉に思わず、実は高校中退なのだろうか──とヨゾラを見つてしまう。おじさん一人で二つの仕事を回せるとは思えない。ヨゾラが家業のために高校を辞めていてもおかしくはなかった。そもそも、この島で高校生らしき人物を見かけた事がない。


「いや、なにその顔。あたしは出たよ、高校。世間一般に合わせて、ってこと」

「ちょっと色々考えてしまった。この島、高校はどのへんにあるの? スーパーの近くにあるのは小中学校だよね」

「ないよ」


 ヨゾラの言葉にやはりないのか、と納得する。


「幼稚園、小学校、中学校……十四年間同じかな? 小学校は一応二つあるけどね」

「小中一貫教育だ。高校へは毎朝船で?」

「いや。みんな中学を出たら一旦島を出るよ。寮とか、下宿に入って那覇の高校に通うの」


 僕にとってはなかなかのカルチャーショックだった。もちろん、全寮制の学校は本州にも沢山あるし、スポーツ推薦だったりするとほぼ親元を離れるだろう。しかし存在しないので島を出る、と言うのは純粋にすごい。


「一人暮らしを?」

「那覇の親戚の家に居候してた。免許もその時に取った」


 都会に移り住んだならば、就職やそれこそ娯楽の関係で島には戻ってこない人も居るのだろう。しかし、ヨゾラはここでこうしている。この前の友達だって、夫を伴って島に帰ってきた。やはり地元愛が強いのだろう。


「島が好きなんだ」

「別に」


 思いの外強い言葉が返ってきて、口の中が一気に乾燥してねちゃねちゃと嫌な感触になり、僕はそれ以上何も言うことができなくなった。


 事務所の空気がよどむ。足がむずむずする。



「それで……何で僕を呼んだんだっけ?」


 話がそれてしまったが、ヨゾラは何か理由があって僕を呼んだのだ。いい加減、毎日口を滑らせるのをやめたいものだと思う。


「そうそう。バイトだよ、バイト。ハルト君に超ぴったりのやつ」


 ヨゾラも先ほどの発言は完全に『なかったもの』として扱う事を決めたらしい。僕たちはこうして日々お互いの地雷を踏み抜き、次は失敗すまいと距離を窺っている。それがいつかは失敗して大事故を起こすのか、それとも全ての危険分子が撤去されてクリーンになるのかどうか──それは誰にもわからない。


「喜んでやらせていただきます」


 自慢ではないが、僕はアルバイトをしたことがない。事務作業などもっての他だ。しかし、ヨゾラがわざわざ呼ぶのだから多分僕にできそうな事なのだろう。


「ちょっとさ、この英語が合っているかどうか確認してほしいんだけど」


 その言葉に一瞬ひるんだ。英語が出来なければ論文を読むことが出来ないし、留学もできない。そもそも、受験において英語が苦手なのは致命傷に近い。


 そのような理由で、僕は幼少の頃英会話教室に通わされていた事がある。そのうち、母さんは幼少期から英語を学ぶより先に母国語のレベルを高めた方がよい、という方向にシフトしてゆき、僕の習い事は英会話教室ではなく学習塾一本に集約された。


 そんな経歴のある僕であるが、英語は得意でも不得意でもない。


 ヨゾラがパソコンの画面を指し示す。メール画面だ。中を確認すると、どうやら海外からの問い合わせメールだった。


「ここは日本です。とは言ってもなんだかんだと英語のメールが来るんだよね。まいっちゃうよ」


 ヨゾラはそう言って、肩をぐるぐると回した。僕は真剣にメールを読み込む。ここで出来なければ、僕のアイデンティティがより一層崩壊してしまうに違いなかった。


 冷静になれば一つ一つの単語は簡単で、質問に対して返答をするだけなので、とてつもない難問かと問われればそうでもない。


 しかし、自分が責任を持って取り組め、と言われると気が重くなる。僕は慎重に英文を打ちこみ、ヨゾラには日本語で内容を共有した。


「よし。これで完了」

「すごーい。めっちゃ早いじゃん。感動!」


 ヨゾラに褒められて、悪い気はしない──今この瞬間に、今までやってきた勉強が報われたような気持ちになった。


「かなり怪しいけど……。向こうも、頑張って自分で翻訳するとかないのかね」

「ないんだなー、それが。英語をしゃべれる人は、英語が世界のスタンダードだと思ってるの。……実際、そうなのかな?」


 電話が鳴った。ヨゾラは『はい、もしもし。民宿へんな、平安名モータースです!』と明るい声を出したがすぐに『ウェイト!』と叫んだ。


「ハルト君、今度は英語だ! ちょっと変わって!」


 ヨゾラの無茶ぶりに卒倒しそうになったが、さすがに嫌とは言えなかった。

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