第21話

 死んでなかった。


「……お、やっとか。ひどい寝坊助だな。成宮くんがダントツで最後だったよ」


 目が覚めると、柔らかい黄色い光に照らされた白い天井が目に映った。上体を起こしてきょろきょろとあたりを見回すと、そこはどこかの病院の病室のようだった。俺は水色の患者服を着ていて、ベッドの脇にはリンゴの皮を剥いているアスカさんが座っていた。


「キミだけが唯一無傷で帰ってきたのに、キミが一番目覚めるのが遅いとはね。日頃の怠惰の表れなのかな?」


 アスカさんは器用に果物ナイフをスライドさせて、リンゴの本来の白さを露出させていく。


「……俺は、あのとき死んだんじゃ……」


「死んでなかったよ。キミが一番死から遠い状態だった。無傷だったんだからね」


 え……無傷?


「……あ、アリスやシャチは」


「二人も無事だ。しかし、キミと違ってかなり重い傷を負ってしまったみたいだけどね」


 ふとアスカさんの後ろのベッド、俺の隣のベッドを見ると、頭に包帯を巻いたアリスが穏やかな寝息を立てていた。それから斜め前のベッドでは、シャチが膝を抱えて蹲るような姿勢で死んだように眠っていた。


「それでだ、成宮くん。寝起きのところ悪いんだけど、ひとつ訊きたいことがある」


「……何ですか?」


「どうして真姫ちゃんだけが、まだ帰ってきていないんだ?」


「…………」


 アスカさんは、まだ真姫の存在を憶えているのか。


 真姫の能力について既に知ってしまっている俺ならばまだしも、まだ真姫を人間だと思い込んでいるはずのアスカさんが真姫のことを憶えているのはどういうことだろう。未だにどこかで生き続けている血液の魔人の身を考えるのなら、血液の魔人と強い繋がりを持つ真姫に関する記憶は、この世から抹消しておいたほうが好都合だろう。


 それにもかかわらず、真姫は自分に関する記憶を消さなかった。


 意図的なのか、それともただのミスなのか。


「……真姫は、血液の魔人に殺されました」


 アスカさんの中に真姫への好意が残っている可能性を考えると、シャチが殺した、と真実を言ったら面倒なことになるかもしれない。


「…………そうか」


 アスカさんは手元のナイフを止めて、嘆息するように薄い声でそう言った。


 しばらく下を向いて考え込むようにした後、アスカさんは立ち上がった。皿の上に剥きかけの中途半端に白いリンゴを置いて、「ちょっと席を外す」と言って病室を出て行った。


 真姫が死ねば悲しむ人がいるのだ。


 それから、アスカさんと入れ違うようにして、一人の女の子が病室に入ってきた。


 漆黒のドレスを身に纏った、長い黒髪の美少女が、にやりとして俺を見据えていた。


「黒猫……?」


「いや、どこからどう見ても黒猫には見えんだろう……」


 無限の魔人は呆れるように言いながら、さっきまでアスカさんが座っていたパイプ椅子に腰を下ろした。


「まあ、黒猫ではないのはお前も同じか。気づいているか知らんが、猫耳が消えているぞ」


 俺はその少女に視線を固定したまま、自分の頭を撫でた。確かに俺の頭から猫耳は消えていた。しかしそんなことはどうでもよかった。


「どうして、お前が、ここにいるんだよ」


 無限の魔人は俺の精神の中でしか活動できないと言っていた。それはおそらく俺の中に無限の魔人の心臓があったからで、そして今の俺の体内に心臓はない。無限の魔人の心臓は、血液の魔人に奪われてしまったはずだ。


 それなのに、この黒髪の美少女は、さも当然のように現実世界に存在していた。


「私は無限の魔人だ。不可能はない」


 無限の魔人は、皿の上のリンゴにそのままかじりつきながら言った。


「血液の魔人は、どうなったんだよ。お前の心臓はあいつに奪われて……」


「血液の魔人はもう死んだよ」


「……は?」


「あいつに私の心臓が制御できるはずないのだ。だから、死んでしまった」


 無限の魔人は冷淡に、事も無げに言う。


「……意味がわかんねぇよ」


「お前がわかる必要もないんだけどな……。あのな、一つの身体に二つの心臓が共存することはできないんだ。お前の身体には私の心臓、無限の魔人の心臓しか入ってなかったから、私とお前の精神が共存することができた。しかし、血液の魔人の身体が液体だとは言っても、人間でいう心臓のような部分はある。それで、血液の魔人の体内に二つの心臓が存在する状態になってしまって、まあ、死んだ」


「……なんでお前は生きてるんだよ」


「無限の魔人だからだ」


 しゃくり、とリンゴを齧る音がする。夕暮れの院内は妙に静かだった。


「私の無限の命は、本当に文字通り限りがない、終わりがないんだ。だから、何かイレギュラーな事態が起こったとしても、私の命が終わることは絶対にありえない。何が起ころうとも最後には絶対に、私は生き残る」


「……は、はあ」


「しかし、私がここにいる経緯などどうでもよいのだ。問題はお前だ。お前がなぜ生き残っているのか、それが一番の問題だ」


 無限の魔人が、その細い指先で俺の鼻先を突く。いつかの中華料理屋でも同じことをされた。


「結論から言って、今のお前の体内にある心臓は、血液でできている」


「……え、えーっと、え、は?」


「お前もいい加減自分の能力についてちゃんと理解しろ。いいか、お前が日本刀を作ったように、血液の魔人が真姫を作ったように、血液の能力は基本的に何でも血液で作り出すことができる。だから。心臓だって血液で作ることができるのだ」


「…………」


「お前は死の間際に、体内で自らの心臓を作り出した。そうしてお前は生き残った。だからお前だけが無傷だった。わかったか?」


「……まあ、わかった」


 俺の心臓は血液によって作られている。血液によって血液を身体中に送り出しているという、矛盾しているような状況が今の俺の体内では繰り広げられているらしい。

「そうなれば、次にお前はどうなるか、わかるか?」


「…………わかりたくない」


「このまま何もしなければ、お前の心臓はこの先約一か月ほどで腐り落ちる。だからお前も血液の魔人と同様、他者から血液を奪わなければならない」


 他の命を奪わなければ生きていけない。


 それは、神によって世界が創られたときからの不変のシステムだ。


 人から血液を奪わなければ、人を殺さなければ、俺は死ぬ。


 自分が生きるために、他者を殺さなければならない。


「それだけお前に言いに来た。後どうするかはお前次第だ」


 無限の魔人はリンゴを皮ごと全部食べて、立ち上がった。


「生きるか死ぬかはお前が選べ。私には死ぬなんて選択肢はないから、少しお前が羨ましいな」


 無限の魔人はそう言い残して、一度も振り返ることなく病室を出て行った。そしてその数秒後、目元を赤く腫らしたアスカさんが戻ってきた。


 俺はアスカさんの腹を腕で貫いた。

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