第19話

 あれほど強固に閉まっていたと思われた玄関の扉は、今になってみるといとも容易く開くことができた。認知の改変なんて、本人がそれを自覚してしまえば途端に修正されるものなのかもしれない。勢いのままシャチの自宅を飛び出して、街灯に照らされた夜道に真姫の姿を探す。本来ならここでしばらく立ち往生するところなのだろうが、猫の暗視能力によって真姫の姿はすぐに見つかった。


 人っ子一人歩いていない暗い夜道を風のように走る。銀髪の少女と手を繋いで、鼻歌を歌いながらゆっくり歩いている真姫の背中がどんどん近づいてくる。


 手に持った日本刀を両手で構え、スピードに乗って空中に飛び上がり、俺は真姫の脳天めがけて一直線に刃を振り下ろした。刃が真姫を真っ二つにしてしまう直前に、真姫が素早く振り返って俺の目をじっと見た。


 その瞬間、時が止まったかのように錯覚した。


 真姫の驚いたような揺れる瞳と、俺の獣のような赤い眼光が交差する。


 そして、俺の刀は真姫の肉体を切らなかった。


 代わりに、空間そのものを切った。


 俺が日本刀を振り下ろした瞬間、俺の周りの風景がぼろぼろと崩れ始めた。空間そのものがばらばらの破片となって崩れ落ち、そしてまた、あの映画館の風景が現れた。


 口は微笑のまま、目ではきつく俺を睨んでいる真姫が目の前に立っていた。その後ろにはアリスの姿も見える。


 真姫によって異次元に飛ばされる前の、最初の映画館に戻ってきたらしい。


「いきなり背後から切りかかってくるなんて、武士の名折れだね、成宮くん」


「生憎と元から折れるような名は持ってないんだ」


 俺は言いながら、両手で日本刀を握り直す。真姫の正体が魔人だとはいっても、認知を改変する能力を持っているだけだ。血液の魔人や俺のように、付いた傷を瞬時に直すような能力はないはずだ。普通の魔人と同じく、この日本刀で切ってしまえば、真姫は死ぬ。


 だから俺は、いつものように、いつも殲滅対象の魔人に対してそうしているように、日本刀を思いっきり振りぬいた。


 しかし、真姫はそれを軽く身を引いてひょいと避ける。


「成宮くん、そんな見え透いた攻撃で死んでくれるのは雑魚魔人だけなの。わたしは死神の魔人だよ? もっと工夫しなきゃ」


 真姫が言い終わる前に俺はもう一度刀を振るう。続けて二度、三度。俺が刀を振るうたびにぶおんと空気が切れる音が館内を震わす。真姫は身をよじるような軽い動きでそれを躱す。


「やっぱり成宮くんは弱いね。本当に、入隊したときから何も変わっていない。目の前の標的を絶対に確実に徹底的に殺してやるっていう強い意志がないと、殺せるものも殺せないよ。いくら技術や経験があったって、その意志がなければ全部無意味だよ」


 真姫は余裕で微笑んでいる。俺は刀を振るい続ける。座席はほぼ全てが原型を留めていなかった。


「ねぇ、ちょっとアリスちゃん、こっち来て」


「え?」


 真姫が不意に、とても軽い調子で言った。いつものように、手招きをして、アリスを呼びつけた。


 俺は咄嗟に振り返って、背後に立ち尽くしていたアリスの姿を確認する。


 しかし、アリスは俺が振り返るよりも先に、俺の側方を通過していってしまった。


 そのまま、確かな足取りで、アリスは無表情のまま、俺の正面に立つ真姫へと近づいていく。


「おい! そいつは死神の魔人だぞ! 危険だ!」


「何言ってんの。ねぇアリスちゃん、わたしはキミの信頼する上司、キミの愛する上司だよね? 死神の魔人なんかじゃないもんね」


「…………」アリスは無言のまま、歩みを止めない。


 ダメだ。認知を改変されているんだ。確かにアリスはさっきまで真姫を死神の魔人だと認識していたのに、不用意に近づかないよう注意を払っていたはずなのに、こうも簡単に真姫の言葉を信じてしまうなんて。


 アリスが真姫のそばまで寄ると、真姫は乱暴にアリスの首根っこを掴んで、その首元にどこかから取り出した銀色のナイフを押し当てた。


「一旦落ち着きなよ、成宮くん。話し合いをしよう。成宮くんは倫理観が普通過ぎるから、仲間が目の前で殺される光景なんて耐えられないでしょ?」


どうやら人質を取られたらしい。


「…………」


 俺は刀を構えたまま、無言で真姫を睨んだ。真姫はアリスを拘束したまま、柔らかく微笑む。


「単刀直入に、結局誰が無限の魔人の心臓を持っているの?」


「…………」


「さっき、成宮くんがいない間にアリスちゃんにだいぶ厳しい詰問をしたんだけど、全然答えてくれなくてさ。アリスちゃんか、成宮くんか、シャチの亜魔人か、誰が持っているの?」


「俺だ」


 端的に、即答した。


 真姫の顔には一瞬だけ動揺の色が現れたが、すぐに嬉しそうに目を細めた。


「……へぇ、そうなんだ」


「俺の心臓は、あのとき血液の魔人に潰されたんだ。だから、今俺の体内で鼓動している心臓は、無限の魔人のものだ」


「どういうこと?」


「あの黒猫が、無限の魔人なんだよ」


 ここまでべらべらと喋ってしまっていいのだろうかと思ったが、どうせこの後真姫は俺の手で殺すので問題ない。


「成宮くんは、それを知っていたの?」


「最初は知らなかった。でももう知ってしまった」


 真姫が人間ではないこと。真姫は血液の魔人に作られた存在であること。俺たちが魔人を殲滅していたのは、血液の魔人のために、無限の魔人の心臓の手がかりを見つけるためであったこと。血液の魔人が無限の命を欲していること。


 俺が無限の魔人の心臓を持っていること。


 これ以上、魔人や人間の命が血液の魔人の勝手によって犠牲にならないために、俺は戦わなければならないこと。


「じゃあ、わたしは成宮くんを殺してしまえばいいわけだね」


「…………」


「成宮くんの胸から心臓を取り出せば、わたしの生まれてきた目的は果たされるわけだ」


 言って、真姫はぽいと捨てるようにアリスを手放した。アリスはその場にへたり込んで噎せていた。


 俺は、汗で湿った手でもう一度刀を握り直す。


 真姫は右手を紫色に光らせながら、空中に浮いた。そのまま上昇することなく水平に、一直線に俺に飛び掛かってくる。俺は無意識に刀を振るった。


 どうせまた避けられると思っていた。それでも、その避ける動作によって真姫の攻撃に隙を生めれば、俺が真姫の攻撃を避けることができる。そういう計画を持って俺は刀を振るった。


 しかし、俺の予想に反して、俺の刀は完全に真姫を真っ二つに斬った。


 真姫の脳天から、眉間、鼻先、口元までが、半分にぱっくりと割れる。


 そして、それが起きたのは、ほとんど同時だった。


 映画館内にとんでもない轟音が響き、床や壁が大きく揺れて、天井が抜け落ちた。


 音も光も最小限に抑えられていたはずの館内が、視界も音も途端に騒がしくなる。


 いくつもの瓦礫が頭上から落ちてきて埃が舞って、轟音も絶えず響いていた。俺は揺れる足下を進み、アリスの無事を確認しようとした。


 しかし、俺の前方を阻むように、目の前に赤黒い槍が降ってきた。俺が一歩でも早く進んでいたら、この一直線に地面に突き刺さっている槍は俺の脳天に直撃していた。いや、どうせ血液の能力があるから死にはしないのだが。


 頭上を見上げると、夜明け前でうっすらと水色がかっている空に、大きな翼で羽ばたきながらこちらを見下ろしている人影を見つけた。


 白いドレスを着た、栗色の髪の少女が、純白の翼で滞空しながら、唖然とする俺を見下ろしている。


「十年ぶりくらいだなァ、無限の魔人よ」


 血液の魔人はうっすらと微笑んだ。


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