真夜中の檻から抜けだせない

陽澄すずめ

真夜中の檻から抜けだせない

 紗奈のむずかる声で、はっと目を開けた。

 午前一時。さっきから一時間半ほど経過している。ほんの一瞬、瞼を閉じただけとしか思えないのに。

 一時間半しか保たなかった。何がいけなかったのか。


 夫はまだ帰ってきていない。年度末で忙しいらしい。


 ベビーベッドを覗く。薄明かりの下、真っ赤な顔で泣く我が子。

 おむつは濡れていない。お腹が空いたのか。

 荒れたキッチン。流しには汚れた食器類。水を注いだ電気ポットのスイッチを押す。

 紗奈が泣き喚いている。お湯はなかなか沸かない。


『本当は母乳の方が良いんだけどねぇ』

『ミルク一回分ずつキューブになってるの? 今は楽でいいね』

『体重がなかなか増えませんね。もう少しこまめにミルクをあげてみて』


 いつかの誰かの声が、麻痺した頭に反響している。視界にちらちらノイズが走る。


 人肌のミルク。抱えた我が子。軽いはずなのに重い。手首が鈍く軋む。

 哺乳瓶を上手く咥えてくれない。やっと少し飲んだ。でもすぐに吐いてしまう。

 火のついたような泣き方。着替えはどこ。干したままのベビー服。洗濯物も溜まっている。

 肌着の合わせを閉じる。直後、おしっこが漏れる。着替え。着替え。他にあったっけ。布団も濡れた。乾いたタオルはどこ。


 午前二時。紗奈はまたぐずり出す。今度は何。抱っこする。手首が痛い。

 抱き癖が付くと誰かに言われた。でもベッドに下ろしたところで、泣き方が激しくなるだけ。

 スマホに縋る。Yahooのトップにニュースの見出しが並ぶ。


『東京 新たに1万人超の感染確認』

『2児死亡 母親を逮捕 無理心中か』

『トレーラー 民家などに突っ込む』


 どれも遠い世界の話みたい。


『生後2ヶ月 泣き止ませる』


 片手で打ち込んだ検索結果は見覚えのあるものばかり。どれも無駄だった。無駄だったのだ。

 泣き止まない。どうしようもない。分からない。何も分からない。

 小さな体がほてっている。部屋が暑いのかもしれない。

 紗奈を抱えたままベランダに出る。夜風が冷たい。目の前には深い深い暗闇ばかり。


 不意に、気が遠くなった。


 今、切り取られた世界の淵にいる。

 頭がひどくぼんやりする。起きているのか眠っているのか。生きているのか死んでいるのか。きっとどれでもない。私は今どこにいるのか。私はいったい何なのか。

 あぁそうか、闇に溶けているんだ。

 ここから先へ進んだら、どこかに繋がっているのかな。今の状態なら、この閉ざされた場所から脱出できるかもしれない。

 そうしたら楽になれるかな。そうしたら自由になれるのかな。だったらいいな、素敵だな。


 背後で、玄関扉の開く音がした。

 私は手すりから乗り出した身を起こし、部屋へと戻る。

 帰宅した夫が死人のような顔で言う。


「ただいま。今日メシいいわ。会社でカップ麺食った」


 そっか。


「紗奈、よく寝てるな。……うわ、何この洗い物の山」


 ごめん。


「頼むわ……俺、風呂入って寝るよ」


 訪れた静寂。また私は置き去りにされた。

 寝室へ行き、ようやく寝付いた我が子を、そっとベッドに下ろす。

 途端、紗奈は跳ねるように目を覚ました。

 再び上がった泣き声が、鋭く神経に突き刺さる。


 午前二時半。夜明けは遠い。



—了—

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