第6章 四日日 第2話 神職の話

 昼食にそうめんを食べて、ようやく小春たちの空腹は満たされた。昼食を終えた後、小春たちは健一と光代から、何が起きたのかを聞かされた。



 小春たちが化野ダムに向かってしばらくしてから、紅楽荘に一本の電話が入った。それは駅前にある駐在所の駐在さんからであり、女子高生四人が駅前で倒れていると、近所の人から通報があったという知らせだった。駐在さんはすぐに、紅楽荘に宿泊している小春たちだと分かった。すぐに分かった理由は、駐在さんが健一の車に乗り込んでいく小春たちを、偶然見ていたためだった。駐在さんは近くにある消防団の詰所におもむき、消防団員と共に、小春たちを駐在所に連れ込んで保護していた。

 通報を受けてから、すぐに宮田先生にも連絡が入っていた。熱中症で倒れたとみられる女子高生を保護したから、すぐに来てほしいと駐在さんが連絡していた。宮田先生が駐在所に到着すると同時に、健一と光代も駐在所に到着した。宮田先生が診断したが、熱中症の症状は見受けられず、脈拍などの数値にも異常は無かった。気温や湿度からも熱中症になるとは考えにくく、小春たちはまるで眠っているようで、原因は不明だった。念のため紅楽荘に連れて帰ることになったが、年老いた健一と光代では小春たちを運び出せず、駐在さんと消防団員によって車に乗せられた。

 その後、紅楽荘で布団の上に寝かせられ、もう一度宮田先生が診察を行った。しかし同じように異常は見受けられなかったため、一晩様子見をすることになったという。

 宮田先生から「何かありましたら、いつでも連絡をください」と告げられ、健一と光代はほぼ付きっきりで小春たちの様子を見守っていたという。小春たちが一度も起きることなく眠り続ける中、健一は産土神社である稲荷神社に行って、祈りを捧げた。その願いが通じたのか、今日の昼前に小春が目を覚まし、その後三人も目を覚ました。

 そこに様子を見に来た光代が現れ、すぐに健一に知らせた。健一はすぐに電話で宮田先生に連絡し、車を走らせて迎えに行った。これまでにないケースであったため、宮田先生は万が一のことも考え、救急車を呼ぶことも考えていたという。到着してから宮田先生は診察を行ったが、昨日と同じく異常は見受けられなかった。脈拍も正常で、身体に傷や乱暴されたような形跡もなく、どうして意識を失っていたのかは分からなかった。

 熱中症ではないかと考えられたが、体温も平熱であったため、宮田先生は最後まで首をかしげていた。特に異常が無いため、救急車を呼ぶ必要もないと判断された。

 そうして今に至ると、小春たちは健一と光代から聞かされた。



「それにしても、小春たちが目を覚ましてくれて、本当に良かった」

 健一の言葉に、光代もうんうんと頷いていた。

「本当に、心配じゃった……。まさか小春たちが、原因不明で倒れて目を覚まさないなんてね……生きた心地がしなかった。もうこのままずっと、目を覚まさないんじゃないかと、気が気でなかったわい……」

「おばあちゃん……」

 心配かけちゃっていたんだ。おじいちゃん、おばあちゃん、ごめんなさい。

 小春がそう思っていると、スカートのポケットから何かが落ちた。スマートフォンかと思って目を向けると、お守りが落ちていた。小さい頃からずっと持ち歩いていた、産土神社のお守り。

 それを拾い上げた小春は、化野村での出来事を思い出した。


 化野村に行き、そこで盛獄寺の近藤というお坊さんと出会ったこと。帰ろうとしたが捕まってしまい、そこで恐ろしい体験をしたこと。助けを求めたら、ウコンとサコンという二人の青年が助けに来たこと。

 そして化野村で過去に起きた出来事と、化野村からの脱出……。


 とても、信じてもらえるとは思えない出来事の数々。

 だけどそれは、絶対に夢や幻などではない。実際に体験してきたとしか思えないほど、鮮明で今も覚えている出来事だ。

「おじいちゃん、おばあちゃん……心配してくれて、ありがとう」

 小春はそう云うと、お守りをテーブルの上に置いた。

「小春……?」

「信じてもらえないかもしれないけど……私たち、化野村に行ったの」

 小春はそう云うと、隣に座っている夏代と秋奈、冬華に視線を送った。

 三人は小春に向かって、そっと頷く。

 やっぱり、あれは夢などでは無かった。みんなが体験した、現実の出来事だったんだ。

「実は……」

 小春はゆっくりと、自分たちが体験したことを、健一と光代に話していった。夏代と秋奈、冬華も小春の話の内容を補完していった。



 小春たちが全てを話し終えると、健一と光代は顔を見合わせて、頷いた。

「……間違いないのぅ」

「えぇ、信じられんが……小春たちが嘘をつくわけがない」

 健一と光代はそう云うと、小春たちに向き直った。

「そのお守りから、光が出て助かったり、助太刀すけだちが現れたりしたのじゃな?」

「うん。全て、本当のことよ」

 健一の問いに、小春が答える。

「わかった」

 健一は頷くと、再びどこかに電話をかけ始めた。しかし、先ほど目を覚ました時とは違った、穏やかな声だ。

 光代を見ると、光代も穏やかな表情で、どこか喜んでいるようだった。

「こんなことが起こるなんてねぇ……神様は、ちゃんと見ていてくださるものねぇ……」

 その言葉に、小春は首をかしげた。小春だけではなく、三人も首をかしげていた。光代の言葉が何を意味していて、健一がどこに電話をかけて誰と話しているのか。小春たちには全く見当もつかなかった。



 それからしばらくして、一人の初老の男性がやって来た。メガネをかけ、少しばかり白髪が目立つ、老紳士といった雰囲気の男性だった。男性は穏やかな表情で、時折どこか恵比寿様を彷彿ほうふつさせる笑みを見せた。

「小春ちゃん、あの人って誰?」

「えぇと……」

 秋奈からの問いに、小春は記憶をさかのぼっていく。確かにこの男性には、見覚えがあった。しかし不思議なことに、小春はその男性が誰なのか、思い出せなかった。いくら記憶を辿ってそれらしい人は思い出せても、霞が掛かったようにぼんやりとして、名前やどんな人だったのか、まるで思い出せなくなってしまう。

 おかしいです。確かに見覚えがある方なのに、どうしてか思い出せません。

 小春が戸惑っていると、男性は健一と光代の隣に腰掛けた。

千村ちむらさん、お久しぶりです」

「ご無沙汰ぶさたしております」

 健一から名前を呼ばれて、千村と呼ばれた男性がそっと頭を下げた。

 千村……あっ!

 小春は、ある人のことを思い出した。幼い頃、七五三のお祝いで神社に行った時、何度もおはらいをしてくれた神主さん。その神主さんだった。だけど、まだ少し気になることがあった。神主さんは幼い頃と、全く見た目が変わっていない。まるで歳を取っていないかのように、記憶の中にある姿と少しも変わらなかった。

「小春ちゃん、どうしたの?」

「思い出しました。こちらの方は、神官じんかんさんをしている、千村さんです」

「じんかん?」

 聞きなれない言葉に、秋奈が首をかしげた。夏代と冬華も、秋奈と同じように首をかしげている。小春は一瞬、言葉が通じていないことに驚いたが、すぐに訂正ていせいした。

「すいません、神官さんというのは……神社の神主さんのことです」

「小春ちゃん、お久しぶりです。大きくなりましたね」

 千村の言葉に、小春はそっと頭を下げた。

「お久しぶりです、千村道一ちむらみちかずさん」

「小春、こちらは道一さんじゃなくて、正道まさみちさんじゃよ!」

 名前を口に出した直後、光代からそう云われて、小春は驚いた。確かに目の前に座っている人は、千村道一という名前だったはずだ。

「いえいえ、長いこと神山村から離れていたのです。勘違いしてしまうのも、致し方無いことです」

 千村はコロコロと笑いながら、光代にそう云うと、小春に向き直った。

「私は、千村道一の息子の、千村正道ちむらまさみちです。今は稲荷神社の宮司職を父からいで、父は引退しています。よく父の道一と似ていると云われますので、父だと思われたのでしょうね」

 千村正道と名乗ったことで、小春は思い出した。幼い頃に七五三のときに、いつも神主さんと共に行動し、共に儀式を行っていた若い男性。その人だった。見た目が記憶にある神主さんと同じだったため、勘違いしていて気がつかなかったことを、名前を教えられて初めて知った。

「しっ、失礼しました! あの……昔、神主さんと一緒に儀式をしていた方、ですか!?」

「はい、左様でございます」

 千村はそっと、頷いた。

「大変失礼しました!」

「いえいえ、気にしておりませんので、どうぞお顔を上げてください」

 頭を下げた小春に、千村は穏やかな笑顔でそう云った。神官の道一さんと、話し方や穏やかな声、それに性格までよく似ているなと、小春は思った。

「今回は、健一さんからお話を受けて、小春ちゃんたちが体験したことを伺いに急きょ、参りました。お友達とご一緒に、少しお時間を頂きます。大丈夫ですか?」

「はっ……はいっ!」

 顔を上げた小春は、一度深呼吸をしてから、三人に向き直った。

「みなさん、どうかお願いします」

「もちろんだ、小春」

 夏代が頷いた。

「私もいいよー!」

「お腹いっぱいなので、いくらでも話せます!」

 秋奈と冬華も、そう云って親指を立てた。

 小春は明るい顔で、千村に向き直った。

「では、お話しします!」

「はい、お願いいたします」

 千村はリングノートとボールペンを手に、小春たちの話を聴いていった。会話の内容をメモしながら、頷いたりする様子は、かつてお世話になった神主さんの道一の生き写しだ。小春は千村正道の仕草に、そう思った。



「ありがとうございました」

 小春たちが話し終えると、千村はそう云って手にしていたノートを見た。

「なるほど……」

 千村はノートの内容を確認すると、ノートから顔を上げた。

「皆さんが化野村で体験したことと、助けにきたウコンとサコン、それに盛獄寺と近藤という住職……」

「千村さん、ウコンさんとサコンさんは、稲荷神社の狐さんだったのでしょうか……?」

 小春の疑問に、千村はそっと微笑んだ。

「それでは、いくつかお話していきながら、お答えさせていただきますね」

 千村はノートをそっと、机の上に置き、出されていたお茶を一口飲んだ。

「皆さんを助けに来た青年の、ウコンとサコン。彼らが話していた通り、おそらくこの辺りの産土神社の神の使いです。……小春ちゃんの云う通り、稲荷神社の神使の狐さんで、間違いないと思います。犬のような耳と、真っ白な尻尾。それは狐の耳と尻尾でしょう。姿を見た皆さんが、まるでコスプレをしているように見えたのも、仕方のないことだと思います」

「化野村は、本当に化野ダムの底に、沈んだのですか?」

 夏代の問いに、千村は頷く。

「はい。私も父から聞いた限りですが、郷土史によると、化野村は戦時中に化野ダムが造られ、ダム底に沈みました。旧日本陸軍の防疫給水部隊が調査し、工兵部隊によってダムが造られて、沈められました。表向きの理由は、戦時下における電力確保のためですが、本当の理由は鬼門を封じるためです。化野村には、日本でも有数の鬼門があり、とても恐れられていました。そのため神明山の湧き水を使ったダムを作り、鬼門を化野村と共にダム底に沈めることで、封じ込めたそうですよ」

 千村の言葉に、小春は健一の怪談を思い出した。化野村があったが、ダム底に沈んだという怪談。あれは単なる怪談ではなくて、歴史上の出来事を話していたんだと、悟った。まさか怪談話が、かなり的確に郷土史を語っているなんて、想像もつかなかった。

 小春が驚いていると、秋奈が口を開いた。

「あの盛獄寺というお寺と、近藤という坊主もいたんですか?」

「はい。戦前からありましたし、僧侶も住職として、盛獄寺に住み込みで暮らしておりました。化野村はほぼ全ての村民が、盛獄寺の檀家だったそうです。しかし、化野村がダム底に沈んで廃村になったと同時に、盛獄寺も廃寺となりました。最後の住職の名前も、近藤道元だったと伝わっております」

 近藤道元。間違いなく、あの坊主の名前だった。

 秋奈は続けて、千村に尋ねた。

「じゃあやっぱり、あの近藤という坊主と村人は、一緒にダム底に沈んだのですか?」

「近藤は沈みましたが、村人は一部の檀家総代の方を除いて、全員が沈んだわけではありません」

 千村は、そう答えた。

「ほとんどの村人は、化野ダムを作るにあたって、離村しました。親戚の家に身を寄せる者も居ましたし、神山村に引っ越した者も居ました。戦時中なので疎開という形で、全く別の場所に移った人もいたそうです。住職をしていた近藤は、化野村をダム底に沈めるのを防ぐために、防疫給水部隊の指揮官を殺害してしまいました。それで部下の兵士によって拘束され、軍法会議にかけられる予定でした。しかし、後に起きた洪水に巻き込まれて、亡くなったそうです」

「ウコンさんとサコンさんが話した通りだ!」

 秋奈の言葉に、小春も頷いた。ウコンさんとサコンさんの言葉通り、村人はほとんどが化野村を離れていた。そして近藤は、防疫給水部隊の指揮官を殺害していた。そして、化野村での近藤の最後。濁流に飲み込まれて、水の中に消えていった……。

 怖いほどに、一致していた。

「えぇ、ほとんどはウコンとサコンが語った通りで、間違いありません。かつて化野村は、全国から業病の患者を集めて、洞窟にて匿っていました。それによって幕府からも、特権を受けていたそうです。業病患者は盛獄寺の住職によって、鬼門を開けるための道具とされていたと伝わっています。それに反対したり、非協力的な村人は切支丹として迫害されたり、戦前には共産主義者としてでっち上げられたりしたと聞いています。村八分になることを恐れて、盛獄寺には逆らえませんでした。国が国立の療養所に業病患者を入れるという方針を決め、防疫給水部隊が来てダム底に沈むまで、変わらなかったそうです」

 千村は、持って来た郷土史の本を見ながら、そう話していく。かなり昔に発行された本らしく、表紙やページが少し黄ばんでいた。

「あの……化野村にいた業病患者は、どうなったんですか?」

 冬華が尋ねると、千村は郷土史のページをペラペラとめくった。

「えーと……化野村で盛獄寺が匿っていた業病患者は、全員が国立の療養所に移されたみたいです。陸軍の防疫給水部隊が警察と共同で、全員を国立の療養所へ分散させたと書いてあります。その後は療養所で生涯を送ったと聞いています」

「それじゃあ、あの包帯ダルマは、全て実在した人たちだったということか……」

 夏代の言葉に、千村は頷いた。

「えぇ。おそらくその人たちは、重症の方々だったのでしょう。顔や身体が変形してしまったために、人前に出ることができなくなったので、洞窟の奥に居たのでしょう。業病患者を匿っていた洞窟は化野村の中でも、最も暗部であり、盛獄寺の住職以外では、同じ業病患者だけしか立ち入らなかったそうです。檀家総代でさえも感染を恐れて、中には入らなかったと聞いています。最も、業病は簡単には感染しない病気だと、後になって判明しています。最後の住職だった近藤も、感染はしていませんでした」

 千村はそう云って、郷土史の本を閉じた。

「整理すると、次のようになります」

 そっと千村は、語り始めた。



 皆さんが迷い込んだ化野村は、現世うつしよ幽世かくりよの間に存在する、いわばどちらとも地続きの世界です。ちょうど世間ではお盆の時期なので、現世と幽世の間をへだてる力が、普段よりも薄れていたのでしょう。そこに、彷徨さまよっていた近藤道元の亡霊が、皆さんを見つけて迷い込ませたと思われます。皆さんが化野村に迷い込むときに乗ったという列車は、かつて本当に化野村まで通っていました。今は神山駅が終点なので、それ以降の橋渡駅、比良坂駅、堂入駅、化野駅は、化野村がダムに沈んだ後に廃止されています。

 化野村の景色は、化野ダムに沈む以前のもので間違いありません。人の姿が見えなかったのは、そこにはかつて住んでいた人たちの思いは残っていなかったためと思われます。お墓を移さなかったというのも、過去と決別するという、強い決意の表れかもしれません。ただ、盛獄寺に現れた近藤と村人の亡霊は別です。近藤と共に居た村人の亡霊は、おそらく近藤と共に亡くなった檀家総代に間違いないでしょう。

 盛獄寺で行われた儀式は、仏教と化野村に伝わる古の呪法が融合してできたものだと思われます。亡霊や魑魅魍魎が現れたのは、呪法が亡霊や魑魅魍魎を呼び寄せるための道具として、機能していたのではないかと。仏像は、長い年月を経て呪物となっていたために、恐ろしい姿となって現れたのでしょう。

 そして洞窟内に居たのが、業病患者の亡霊です。かつて化野村で匿われ、近藤の手によって鬼門を開くための道具となって、死んでいきました。もしもウコンとサコンを呼ぶことができなかったら、皆さんは化野村に取り込まれ、二度と戻れなくなっていたでしょう。神隠しという形で、この世界から消えていたかもしれません。

 ウコンとサコンがなぜ助けに来たのか。それは小春ちゃんが持っている、お守りのおかげです。小春ちゃんが持っているお守りは、産土神社のもの。小さい頃に、お母さんから貰ったもののようですね。そのお守りがあったことと、小春ちゃんが強い信仰心を持って、助けを求めた。それでお稲荷さんが、ウコンとサコンを助けに向かわせたのでしょう。私も神官として様々な経験をしてきましたが、このようなお話を伺うのは、初めてです。

 しかし、皆さんの『帰りたい』と願う気持ちが、バラバラになってしまった。それで当初は、ウコンとサコンは動けなかったのです。そんな皆さんの気持ちを一つにしたのが、小春ちゃんです。皆さんの心が『神山村に帰りたい』と一つにまとまったことで、ウコンとサコンは皆さんを化野村から連れ出すことができたのだと思います。

 そしてウコンとサコンが語った事。これも真実でしょう。ウコンとサコンは、稲荷神社が創建された当初より、この地で人々を見守ってきました。稲荷神社の創建がいつ頃になるかは不明ですが、非常に古く記録では平安時代から存在していることは、確かです。時代の流れと、化野村と盛獄寺が行ってきたこと。化野村の最後も見届けて、今は神山村を宇迦之御魂大神うかのみたまのおおかみ様と共に、見守っているはずです。

 化野村を飲み干した濁流。これは化野ダムが作られる前に起こった地震で、化野村が水没したことがありました。その水が、流れ込んだものかと思われます。神山村と化野村の間にある山、あの山そこが村の名前にもなっている、神明山と呼ばれている山なのです。神明山には古くから神が宿ると伝えられていまして、そこから流れ出る湧き水には、神様の力が宿っていると信じられてきました。かつては水源地の近くに大きな池があったそうですが、地震で崩壊しました。化野村は過去にも、洪水に悩まされたことがあったそうで、元々水害に弱い土地だったのでしょう。

 この被害はひどくて、壊滅的なものだったそうです。幸いにも村人たちは、すでに村を離れていたので無事でした。しかし、化野ダムを作ることに最後まで反対していた人たちは、別です。盛獄寺の住職、近藤道元と檀家総代の人々は、この被害に巻き込まれました。防疫給水部隊が憲兵隊を連れて、近藤道元を指揮官殺害の容疑で、身柄確保を行うちょうど前日だったそうです。警察と軍によって捜索が行われましたが、近藤と檀家総代は全員が亡くなりました。この被害は戦時中に起きたことと、軍によるダム建設の情報を守るために、箝口令が敷かれたそうです。山奥での出来事なので、広まらなかったというのもあります。

 防疫給水部隊が化野村を襲撃して、村人たちを皆殺しにした? そんなことはあり得ませんよ。盛獄寺の和尚が、防疫給水部隊の指揮官を酔い潰して殺害したという記録はありますが、防疫給水部隊が化野村を攻撃して村人を殺害したことはありません。武器の多くは、戦地に赴く部隊に優先的に回されていましたから。

 ウコンとサコンが出したという列車については、戦前に使われていたものとみて、間違いないでしょう。

 その後、化野ダムが作られて化野村はダム底に沈み、化野村は地図から消えました。

 同時に化野村にあった鬼門にも、神明山からの水で封印が施されました。



 千村の話が終わった。光代が出してくれた麦茶の氷もすっかり溶け、ガラスのコップは汗をかいている。しかし、小春たちは汗を少しもかいていない。

 自分たちが体験した出来事。

 そして過去に起きた出来事。

 その全てを知った後で、重い空気と云いようのない悲しさに包まれていた。もしも、ウコンとサコンが助けに来てくれなかったら、二度と神山村に戻って来れなかったかもしれない。

「私からお話できることは、以上です」

 千村はそう云って、麦茶を一口飲んだ。

「千村さん、小春たちは、もう大丈夫でしょうか?」

 光代が、千村に尋ねた。

「大丈夫といいますと……?」

「その……何か良くないものとかが、まだ残っていたりは……?」

「そうですねぇ……。神使の狐が守ってくれたので、大丈夫かとは思います。どうしても不安ということでしたら、明日の午前中でしたら空いていますので、神社にてお祓いをすることもできますよ」

「おっ、お願いします!」

 光代が、千村にそう云った。

「お礼参りとお祓いをしなかったために、可愛い孫たちに何かあったら、私らは死んでも死にきれん! どうか、お祓いをお願いします!」

「かしこまりました。それでは、明日の午前十時ごろに、稲荷神社に来てください」

 千村はそう云って、手帳に予定を書き込んでいく。

「おっ、お祓い……!?」

「小春、悪いことは云わん。受けておいた方がええ!」

 戸惑う小春に対し、健一がそう云って、光代も頷く。こういう時、健一と光代は頑として譲らない。たとえ自分という孫が相手であっても、絶対に譲らない。小春が物心ついた時から、そんな場面は度々目にしてきた。七五三の日や新年のお祝いなどで、どうするか両親とよく意見を交わしていた。そしていつも、折れたのは両親の方だった。

 あぁ、お祓いを受けることが決まってしまったと、小春は悟った。

「それでは、私はこれにて失礼させていただきます」

 千村は手帳や郷土史の本を、全てカバンに入れた。

「明日の午前十時に、稲荷神社でお待ちしております。本日は、どうぞゆっくりとお休みください」

 千村は小春たちにそう告げると、カバンを手にして紅楽荘を出て帰っていった。



 その日の夜。小春たちは、宿泊している部屋に戻ってきた。

「あぁ、なんだかすごく久しぶりな気がする……!」

 秋奈が布団の上で寝転がりながら、そう云った。

「私もだ。ただの布団が、こんなにもありがたいと思う日が来るなんて……」

「あぁ、ご飯美味しかったぁ……」

 夏代も秋奈の言葉に同意し、冬華は夕食に食べたもののことを、思い出していた。

「皆さん、ごめんなさい!」

 そんな中、小春は三人に頭を下げた。

「小春ちゃん?」

「どうしたんだ、小春」

 秋奈と夏代が首を傾げ、冬華も頭を上げる。

「おじいちゃんとおばあちゃんが、勝手にお祓いの話を進めてしまって……!」

「なんだ、そんなことか」

「気にしてないよ。ねぇ?」

「うん、全然気にしてないよー」

 夏代、秋奈、冬華が答えた。

「あんな場所に居たんだもん。やっぱり、念のためにお祓いはしておいたほうがいいよ」

「そうだな。それに、ウコンさんとサコンさんは、神使の狐だったんだ。助けてくれたお礼参りも兼ねて、行っておいた方が良さそうだ」

「そうだよねー。やっぱりちゃんとお祓いを受けたほうがいいよー」

「皆さん……」

 それぞれの答えに、小春は安堵する。勝手に決まってしまったことだというのに、こうして受け入れて、それに従ってくれる。それが不思議でもあり、嬉しくもあった。

 あの時、洞窟の中で皆さんに声をかけて、本当に良かったです。こうして私は今も、皆さんと一緒に過ごせています。もう二度と、皆さんを失ってしまうような出来事にだけは、遭いたくありません。

「……皆さん、ありがとうございます」

 そっと、小春は呟く。

 小春の心は、嬉しさで満ち溢れていた。



 その日の夜、小春たちは涼しくて心地よい神山村の空気の中で、朝までぐっすりと眠ることができた。

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