第1章 初日 第3話 怪談話と夢

 夕食が終わった後、小春たちは健一から怪談話を聴くことになった。

 なぜ怪談話をすることになったのか。

 それは夕食の最中、秋奈が発した一言が原因だった。



「ねー、ちょっと思ったんだけど」

 秋奈の言葉に、小春たちは秋奈に目を向けた。

「食べた後に、百物語とかやってみない?」

「ひゃ、百物語!?」

 夏代が少しだけ、顔を引きつらせる。一瞬のことであり、小春は気がつかなかった。

 しかし、秋奈はそれを、見逃さなかった。

「おっ、夏代ちゃん、怖いの?」

「い、いや、そういうわけじゃない。夏らしくていいなと、思ったんだ……」

「でしょでしょ? だけどさ、百物語には必要なものがあるの」

 秋奈が神妙な表情でい、小春たちは惹き寄せられた。

「必要なもの……?」

「それって、何ですか?」

「ローソクよ」

 冬華と小春が訊くと、秋奈はニヤリと笑う。

「燃えさしでもいいから、ローソクが必要なのよ」

「雰囲気を出すためには、確かに必要ねぇ……」

 冬華が頷く。

「いや、雰囲気出す必要があるのか……?」

 夏代は消極的だが、夏代以外はローソクがあったほうがいいと、乗り気になっていた。

「でね、さっき見たんだけど……」

 秋奈は云った。

「小春ちゃんのおじいさんが、あの仏壇の前にいるとき、下の方にローソクが置いてあるのを見たの」

「じゃあ、それを使えば百物語ができるじゃない!」

 冬華の言葉に、夏代の表情が凍り付いていったのを、小春は見逃さなかった。

「おじいちゃんに、訊いてみますね!」

「小春、悪いけどアカンぞ」

 小春が云った直後、健一が答えた。

 その速さに、小春たちは驚きを隠せなかった。

「おじいちゃん……」

「百物語をするためだけに、ローソクを何本も使うことはできんぞ。そもそもこのローソクは、祖霊舎で使うためのものじゃ。だからダメじゃ」

「どうしても、ダメ?」

「ならんもんは、ならん」

 ならんもんは、ならん。

 これは健一が、絶対に許可しないことを云う時に、しばしば使ってきた言葉だった。こうなると、いくら孫の頼みであったとしても、応じてはくれない。これまでの経験から、小春はそのことをよく知っていた。

 どうやら、百物語をやることは難しいみたいだ。小春が三人に目を向けると、残念そうな視線が飛び込んできた。

 秋奈ちゃんや冬華ちゃんも、少しがっかりとした表情をしている。でも、心なしか夏代ちゃんだけは、そんなにガッカリしているようには見えない。良かったという気持ちと、みんなの期待が消えてしまったことへの、気の毒な気持ちが入り混じっているのかもしない。ごめんなさい、皆さん……。

 ガッカリしていたところに、健一が再び口を開いた。

「――じゃが、安心しなさい」

 その言葉に、小春たちは顔を上げた。

「百物語はできぬが、わしが怪談話を食後に話そう。話の種類は豊富にあるから、きっと思う存分背筋を寒くできるぞ」

「おっ、おじいちゃん――!」

 小春が箸を置き、立ち上がろうとした。

 これだけは、何としても阻止しないといけない。小春はそう思っていた。健一の話す怪談話は、半端じゃなく怖い。小さい頃に何度も聞いて、その度に怖くて夜にトイレに行けなくなっていた。今でも健一の怪談話の怖さは、テレビでやる心霊ドラマや、ネットの怖話を上回っていると信じて疑わない。あの怖さだけは、本当に洒落にならない!

 小春が止めようとしたが、それよりも先に、秋奈が口を開いてしまった。

「おじいさん、どんな怖い話があるんですか!?」

「そうじゃな……『杉沢村』『新耳袋』『お岩さん』『四谷怪談』などが定番じゃな。もっと他にもあるぞい」

「すっごーい! おじいさん、是非お願いします!」

 秋奈が云うと、健一は笑う。

「それじゃあ、夕食が終わって準備ができたら、始めようかのう」

 秋奈と冬華は、目をキラキラさせていたが、小春は顔を引きつらせていた。ここへ来ることを計画した時に、どうして思い出せなかったのだろう。絶対に健一に、怖い話をしてほしいとお願いしてはいけないと、云えなかったのだろう。いくら悔やんでも、小春は悔やみきれなかった。

 ふと小春が夏代を見ると、夏代は信じられないというように、目を真ん丸にしていた。



 小春たちが夕食を食べた部屋で、座布団の上で座りながら待っていると、健一がやってきた。

「さぁて、みんな揃って居るようじゃな」

 健一は、小春たちと向き合うように座布団を敷き、その上に座った。

「おじいさん、待ってましたー!」

「どんな怖い話が聴けるのか、楽しみです!」

 秋奈と冬華は、夏らしい怪談話を早く聴きたくて、ワクワクしている。

 その隣で、夏代と小春はこれから始まるであろうことに、震えていた。

「それじゃあ、まずはどんな話からしようかのぅ……」

「はいはーい!」

 秋奈が手を上げて、自己主張をした。

「『鹿島さん』をお願いします!」

「『鹿島さん』じゃな。……わかった、それじゃあ始めようか」

 あぁ、始まってしまった。一度始まってしまうと、おじいちゃんの話は長い。私も、覚悟を決める時が来てしまった!

 小春は生唾をゴクリと飲み下し、他の三人と共に、健一の怪談話に耳を傾け始めた。



 怪談話をいくつか聴き終え、時計の針が夜の九時を過ぎた頃だった。

 健一の怪談話を聴いてきた小春たちに、はっきりと変化が現れていた。

 小春は、意外にも平気な表情で、健一の怪談話を聴いていた。秋奈と冬華は、想像以上に恐ろしい怪談話に震え上がり、顔を真っ青にして今にも泣きだしそうだ。そして夏代は、キョトンとした表情をしていた。怪談話って、こういうものだっただろうか? もっと恐ろしいものだと思っていたが、なんだか違うような気がする……。そんな表情で、健一の怪談話を比較的落ち着いて聴いていた。

 小春は、首をかしげていた。小さい頃におじいちゃんから話してもらった怪談話は、泣きだしそうなほど怖かったのに、どうして今は怖く感じないのだろう。全く同じお話で、しかも小さい頃に本気で泣いたようなお話もあるのに、なぜか今は怖く感じない。むしろ秋奈ちゃんや冬華ちゃんのほうが、怖さに震え上がっている。

 おじいちゃんの怪談話は確かに怖いが、そこまで震えるほどのものなのだろうか? それとも、これまで散々おじいちゃんから怪談話を聴かされてきた私は、おじいちゃんの怪談話に慣れてしまったのだろうか?

 小春がそんなことを考えていると、お茶を一口飲んだ健一が口を開いた。

「それじゃあ、最後にこの辺りに伝わる怪談話をしようかのぅ」

 どうやら、最後の怪談話みたいだ。良かったね、秋奈ちゃんに冬華ちゃん。これで怪談話から解放されるよ。でも、この辺りに伝わる怪談話なんて、あったかな? 私も聴いたことが無いだけかな?

「小春にも、これを話すのは初めてかもしれんな」

 あぁ、やっぱり。これは私も初めて聴く怪談話なんだ。

 気になるから、よく聴いてみよう。

 小春がそう思って聞き耳を立てていると、健一は話し始めた。



 この神山村の近くに、化野あだしのという名前の土地がある。

 今はダムがあるのじゃが、ダムができる前はそこに、化野村あだしのむらという村が神山村の隣にあったそうなんじゃ。

 化野村は、どこにでもあるような平凡な村だったのじゃが、一つだけ他の村にはない特徴があったと云われておる。

 伝説では、化野村には鬼門があったと云われておるのじゃ。鬼門とは、良くないものが出入りするための入り口と云われておってな、一説には地獄とこの世を繋ぐ場所とされておる。滋賀と京都の境目にある比叡山延暦寺や、東京の寛永寺のような有名なお寺は、鬼門を封じるために建てられたお寺という説もあるんじゃ。そして化野村の鬼門は殊更ことさらに強力なもので、神山村はおろか日本全国に災いを招くと、いわれるほどのものじゃった。

 妖怪ようかい魑魅魍魎ちみもうりようが出て、疫病や災いといったものを、化野村から広めてしまうことだってできてしまうとさえ云われた。

 それでは困るということで、化野村にあった鬼門は神明山の神様の力を持つ水を貯めて封じることになり、化野村を潰してダムが作られた。大変な難工事だったそうじゃが、元々化野村がすり鉢の底のような地形じゃったから、なんとかダムを作ることができ、鬼門は封じられたそうなんじゃ。

 伝説では今もなお、化野ダムの底には鬼門があり、封印が施されているそうなんじゃ。



「……これが、化野ダムにまつわる怪談話じゃ。あんまり怖くなかったかのう?」

 話し終えた健一が訊く。

 おじいちゃん、少なくとも二人にはとっても怖い怪談話だったみたい。だってもう、今にも泣きだしそうなんだから……。

 小春は隣に座っている秋奈と冬華を見て、そう思っていた。もう勘弁して下さい、怪談話はもう十分です。そんな目で、秋奈と冬華は震えている。夏代は首をかしげていて、どこが恐ろしいのか理解できていないようだった。きっと怪談話ではなく、田舎にありがちな伝承だろうと、思っているのかもしれない。

「さて、これにてわしの怪談話はおしまいじゃ」

 健一のその言葉で、秋奈と冬華の表情から怯えが消えていく。

「こんな老いぼれの話に付き合ってくれて、ありがとう。久々に孫とお友達の若い子たちと話ができて、つい喋りすぎてしまった」

「あ……ありがとうございました……おじいさん」

「せ……背中が……まだ寒いですぅ……」

 消え入りそうな声でお礼を云う、秋奈と冬華。

 そのとき、光代が部屋に入ってきた。

「さぁさ、もうそろそろ眠くなってきたんじゃないかね? あんまり夜更かしをすると、お肌に悪いよ。部屋に戻って、寝る準備をしておいで」

 時計を見ると、十時近くにまで針が動いていた。

 どうして、いつもいつも、楽しい時間はすぐに過ぎ去ってしまうんだろう。せっかく友達と、おじいちゃんとおばあちゃんという、私が大好きな人たちと一緒にいられる時だというのに……。

 小春はそう思いながらも、立ち上がった。

「それじゃあ皆さん、そろそろお布団を敷きに行きましょう!」

 小春の呼びかけに、三人は立ち上がった。



 客室に布団が敷かれると、秋奈は布団の上にダイビングした。

「あーっ、怖かったぁ!」

 秋奈が叫ぶと、その隣にいた冬華も布団の上に仰向けになった。

「秋奈ちゃんに同意。小春ちゃんのおじいさんが、あんなにも怖い話ができるとは思いませんでした。見た目は優しそうなおじいさんなのに、人は見かけによらないものね……」

「小春は、いつもあの怪談話を夏に聴いて、過ごしていたのか?」

「そうなんです」

 夏代の問いに小春が答えると、秋奈と冬華が信じられないという顔をした。

「昔はおじいちゃんの怪談話を聴いた後は、怖くてずっと震えていました。一人で眠れなくなって両親と一緒に眠ったり、夜中に起きてトイレに行けなくなったことは、一度や二度ではありません」

「だけど、全く怖がっていなかったな。さすがに何度も聴いていると、慣れてくるものなんだな」

 夏代ちゃんだって、怪談話を聴く前は怖がっていたのに、いざ始まったら怖がっていなかったじゃないですか。

 夏代の言葉に、小春は心の中でそう返した。

「わ、私はもうしばらく、怖い話はいいや……。夜中トイレに行けないどころか、眠れるかも不安……」

「私もです。明日の朝ごはん、食べられるでしょうか……?」

 秋奈と冬華は、完全にグロッキーになっていた。部屋に戻ってきて後は寝るだけだが、スマートフォンをいじる気力さえ無いらしい。充電器に繋がれたスマートフォンが何度か通知で振動していたが、それにさえ反応していない。

「そういう時は、早めに寝たほうがいいかもしれないな」

 夏代がそう云って、時計を見る。

 時計の針は、十時半を回っていた。寝るのには少し早いが、もうやることもない。それにこのまま秋奈と冬華は起きていたとしても、余計に疲れるだけだろう。

「そうですね。それでは、そろそろ寝ましょうか」

 小春は立ち上がると、壁に取り付けられた電灯のスイッチに指を添えた。

「それでは皆さん、おやすみなさいです」

 そう云って、小春はスイッチを押した。スイッチを連続して押すと、蛍光灯が一つずつ消えていき、豆電球が点いて最後には真っ暗になった。

「ゴメン! 怖いから豆電球だけ点けてぇ!」

 秋奈の叫びが、闇の中から聞こえてきた。

「はっ、はいっ!」

 慌てて小春は、再びスイッチを押した。



 小春はどういうわけか、道の真ん中に立っていた。

「……?」

 辺りを見回すが、そこは見たこともない村だった。

 少なくとも、神山村ではない。道はアスファルトで舗装された道路ではなく、土肌がむき出しの道だ。周りには田んぼと畑しかない上に、近くにある家も、昔話でしか見たことがない古臭いものだった。昔話に出てくるような、かやぶき屋根の家しか建っていない。その村はどこか、見覚えがあるような場所だったが、知らない村であることも確かだった。

 どうして、こんなところにいるのだろう?

 小春は疑問を抱きながらも、村の中を歩いていく。よく見ると、村の田んぼには何も植えられていない。それどころか、雑草が伸びていた。

 おかしいなぁ。

 小春は首をかしげた。農業をやっているわけではないが、神山村も田んぼの多い場所であり、小春も幼いころから度々田んぼを見て育ってきた。それに紅楽荘にお米を持って来てくれる農家は、お母さんの弟に当たる人……叔父さんであり、小春の親戚だ。

 今の季節は、もう田植えを終えてからしばらく経っていて、稲が稲穂をつけていないといけない季節なのに。どうしてこの村の田んぼは、雑草が伸びているのだろう。

 おかしいのは、田んぼだけではなかった。

 畑にも作物が植えられていたが、どれも枯れている。葉っぱも茎もすっかり黄土色になっていて、生気は全く感じられない。かろうじてついている実も、やせ細っていて美味しくなさそうだ。

 枯れた野菜の近くでは、虫も息絶えている。

 おかしい。どこを見ても、人が住んでいるようには見えない。

 いや、それどころか、先ほどから人と会っていない!

 小春はそのことに気づくと、近くの家の中を覗いた。

「ごめんくださーい!」

 家の中に向かって叫ぶが、声は返ってこない。

 中には誰もおらず、家財道具などもいくらか無くなっていた。わずかに大きなタンスや仏壇が残っているだけだ。

 もしかしたら、引っ越した家なのかもしれない。

 小春はその家を出ると、別の家を覗いてみた。しかし、結果は同じだった。どの家を覗いてみても、人は誰一人としていない。さっきまで人が居たような生活感のある家もないわけではなかったが、肝心の人の姿は見えなかった。

「どうして……?」

 日差しは照り付けているのに、人が誰もいない。それどころか、虫の声や動物の鳴き声さえ、一切聞こえてこない。

 こんな場所に来たことなど、一度もない。

 まるで別世界に迷い込んでしまったようだ。

「皆さん……どこですか……?」

 小春は疑問と寂しさを抱きながら、田舎の道を進んでいく。

 しばらく歩いていると、小春は大きなお寺の前で足を止めた。

「お寺……?」

 小春は首をかしげる。小春はあまり、お寺に行ったことが無い。

 修学旅行で京都や奈良に行ったときに、お寺を見学したことはあった。しかし、小春が今暮らしている場所には、近くにお寺は無い。神山村にも、お寺は無い。だとしたら、目の前にあるお寺は何なのだろう。やはりここは、神山村ではない。どこか別の場所であることは確かだ。

 山門を見上げると、大きな額縁が掛けてあった。大きな額縁の中には『盛獄寺』と文字が並んでいる。このお寺の名前だろうか。

 もしかしたら、この村がどんな場所なのか、分かるかもしれない。村に人が居なくても、お寺ならきっと、誰かいるかもしれない。

 そんな気持ちから、小春はお寺の山門をくぐった。

 お寺の中に入ると、本堂が見えた。本堂の横にも建物があるが、静かで人の気配はあまりない。庭には大きな鉢植えが置かれていて、鉢植えからは蓮の花が伸びている。

 本堂に近づいていくと、線香の匂いが漂い始め、お経が聞こえてきた。やっぱり、誰かいるみたいだ。

 小春がそっと本堂を覗いてみると、本堂の真ん中で一人のお坊さんが読経をしていた。木魚を叩くポクポクという音と、時折鳴らされる鐘の音が聞こえてくる。お坊さんは本堂の奥にある仏像に向かってお経を唱えているため、顔は分からなかった。

 とりあえず、あのお坊さんに訊いてみようかな。もしかしたら、帰る道が分かるかもしれない。

 小春そう思い、口を開いた。

「すいませーん!」

 お坊さんに向かって声をかけたが、返事は無かった。

 読経中だから、集中していて聞こえなかったのかな?

 小春はそう思って、もう一度声をかけた。

「すいませーん!」

 声を大きくして、もう一度。

 それでも、お坊さんは振り向かない。読経中に声をかけるのは、失礼なのかもしれない。だったら、読経が終わるまで待っていよう。お経が聞こえ無くなれば、読経が終わったと思っていいはずだ。

 小春は本堂の前で、お経を聴きながらお坊さんの読経が終わるのを待ち続ける。お経の意味はよく分からないが、きっといいことを云っているに違いないはずだ。学校の世界史の授業では、お経はお釈迦様の教えをまとめたものだと、先生が云っていたから。

 そのまま本堂の前で待ち続けていると、お経が止まり、鐘が数回鳴らされた。その後からは、もうお経が聞こえてこなくなる。どうやら、終わったみたいだ。

 聞こえないかもと思いながらも、小春はもう一度声を出そうと、本堂に向き直って口を開く。まだお坊さんの姿は見える。今度こそ、あのお坊さんを振り向かせよう。

 しかしその直後、小春は目を見張った。さっきまでいたはずのお坊さんが、居なくなっていた。お坊さんは煙のように消えてしまい、さっきまでお坊さんが座っていた場所には、今は誰もおらず、長い線香が煙を漂わせているだけだった。

 目の前から一瞬にしてお坊さんが消えたことが信じられず、小春は本堂の中に入ろうとした。もしかしたら、まだ本堂の中にいるかもしれない。そう小春は考えた。

 しかしその時、どこからか声が聞こえてきた。


 ――本堂に入ってはいけない!

 ――すぐにお寺から離れるッス!


 誰の声かは分からないが、小春はその声に従った。

 どこかで聞き覚えがあるような、懐かしい声だ。

小春がお寺から出ると、お寺が小春の目の前で白黒へと変わっていく。まるで昔の写真のようにお寺が白黒になっていき、辺りの景色まで白黒に変わっていった。

 目の前で起こる信じられない現象に、小春は恐怖を感じて走り出した。

「なっ、何が起きているのでしょうか!?」

 誰に云うのでもなく、小春は目の前で信じられないことが次々に起きているのを見て、叫んだ。

 走りながら振り返ると、それまで色があった景色が、次々に白黒へと変化していく。まるで自分を追いかけてくるようで、小春はより一層の恐怖を感じた。

 よく分からないけど、あの白黒の中に取り込まれたら、戻って来れなくなるかもしれない!

 小春は不思議と、そう信じて疑わなかった。


 ――こっちだよ、こっち!

 ――大変かもしれないけど、頑張るッスよ!


 またしても、どこからか声が聞こえた。

 男の人の声みたいだけど、やっぱり声の主が誰なのかは分からない。

 だけど、この声の主は、きっと味方だ。その証拠に、この得体の知れない村から遠ざかる方に、私を誘導してくれているみたいだ。

 小春は走りながら、声の導きに従っていく。


 ――あともう少しだ!

 ――前方に駅が見えるの、分かるッスか?


 小春は声に反応して、前を見る。

 まだ遠くだが、確かに駅が見えた。駅は高台にあり、そこから線路が伸びている。あそこまでは遠いけど、きっとなんとか行けるだろう。

 走っていくと、前方に踏切が見えてきた。


 ――この線路を、辿っていくんだ。

 ――駅までの、最短ルートは線路を辿っていくことッス!


「えっ!?」

 声の指示に、小春は驚いた。

 線路を辿っていくなんて、やったことがない。そもそも、線路は人が立ち入ってはいけない場所だと、何度も云われてきた。線路に入るのは、抵抗感がある。

 そもそも、列車が走ってきたら避けられない!

「そんなっ! 危ないじゃないですか!」

 小春が云うと、すぐに声が返ってきた。


 ――大丈夫だ。列車は走ってこない。

 ――オレたちがいるから、大丈夫ッスよ!


 声は大丈夫だと云うが、本当に大丈夫だろうか?

 列車が走ってこない保証なんて、どこにあるのだろう?

 小春はそう疑問に思いつつも、声に従った。ここまで来たら、もう頼るべきものは自分と不思議な二つの声しか無い。

 覚悟を決めた小春は、踏切から線路へと足を踏み入れた。

 線路はデコボコしていて、歩きにくい。だけど、後ろには白黒へ変わっていく世界が迫ってきている。その中に取り残されたくはない。

 傾斜もある坂道に敷かれた線路を辿っていくと、前方に荒れたホームが見えてきた。小春は残っている力を振り絞る思いで、足を前へ前へと進めていく。

「ハァ……ハァ……!」

 やっとの思いでホームに辿り着いたときには、呼吸が荒くなっていた。


 ――良かった。これでもう安心だ。

 ――間に合って良かったッス!


 間に合ったって、どういうことなんでしょう?

 これから、何かが始まるのですか?

 疑問に思った小春は、顔を上げた。

「一体……なんのことですか?」

 小春が問いかけると、すぐに声が返ってくる。


 ――ホームの上に上がって、村を見てごらん。

 ――もうすぐ、分かるッスよ!


 声に従い、小春は荒れたホームの上に上がって、自分がこれまで駆け抜けてきた村の方を見下ろした。村はずっと下の方にあり、かなりの距離を駆け上がってきたことが、一目で理解できた。

 その直後、地響きが起こった。地震だと思った小春は、慌てて近くにあった手すりにしがみつく。

 そして目の前で、信じられない光景が広がっていった。

 濁流が村の中へと押し寄せ、村は次から次へと濁流に飲み込まれていく。よく見ると、村は山々に囲まれていて、ちょうどすり鉢の底のような場所にあった。家や田畑が水の中へと姿を消していき、あっという間に村は消えて湖へと姿を変えてしまった。

 あそこに残っていたら、今頃はあの濁流に……。

 そう思うと、小春は背筋が寒くなった。濁流は小春がいるホームの近くまで押し寄せてきたが、やがて止まった。村から逃げるために辿ってきた線路は、途中までが水の中に消えてしまい、水中へと続く線路となった。

 小春はゆっくりと、意識が遠のいていった。



「――うわあっ!?」

 小春は叫んで、飛び起きた。

 辺りを見回すが、そこは先ほどまでいたどこかの村や荒れたホームではなく、紅楽荘の客室だった。隣では、まだ三人が眠っている。枕元に置いていたスマートフォンの時計を見ると、朝の五時だった。カーテンの隙間から微かに見える外は明るくなっているが、まだ起きるには早い時間だ。

 それにしても、嫌な夢を見てしまった。どこか分からない村の中を走って逃げて、最後には村が湖の底に沈んでしまう夢なんて……。久しぶりに、悪夢を見てしまった。きっと、おじいちゃんから、久しぶりに怪談話を聴いたせいだ。怖くないと思っていたけど、どこかで恐怖を感じていたんだ。

 小春の手は自然と、枕元に畳んでおいた着替えに伸びていった。着替えの上を探り、お守りを手にすると、握りしめる。昔から小春は、このお守りを手にすると安心できた。お母さんの話によると、これは神山村の稲荷神社で貰ってきたものだという。スピリチュアルとか、そういうものを信じているわけじゃない。だけど、これがあればどんなことも乗り越えられる。そんな気がして、いつもお守りを持ち歩いてきた。

 お守りを手にしたまま、小春はそっと布団に横になった。まだ起きるには早いから、もう少しだけ眠ろう。朝食は七時過ぎからになっているから、それまでに起きれば大丈夫。



 しかし、小春はその後眠ることができなかった。七時ごろになって三人が起き出すと、ほぼ同時に起きたフリをして、床から身を起こした。

 夢のことは、誰にも話さなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る