2-8

 それからしばらくのうちに、夏紀はハレノヒカフェに正式に採用された。と言っても書類を出したわけではないし、給料をもらうわけでもない。

 ハルから貰った楽譜を見て、夏紀は「初見じゃ無理!」と思ったし、実際に家で弾いてみても指は思い通りには動かなかった。練習してからハルに聴いてもらったときも、ハルはしばらく首を傾げていた。

「あんた──自信ある? 心配しすぎると失敗は増える」

 それはもちろん、わかっている。学校のステージで弾いたことはあるし、ピアノの発表会だって何度か出た。けれど子供の頃の話で、感覚を忘れていても仕方がない。

「……特訓だ」

 夏紀の仕事が休みになる週末の開店前、ハルがピアノの特訓をしてくれることになった、というか、ハルがそうした。夏紀は家で練習すると言ったけれど、ハルには許してもらえなかった。

 相変わらずハルの言葉は冷たいけれど、彼は丁寧に教えてくれた。夏紀には基礎があったので、特殊な記号のところを重点的に教わった。

 一通り夏紀が弾けるようになった頃、ハルは夏紀にピアノを弾かせたまま一旦姿を消した。

(どこ行ったんだろう……背後から見てたりしたら怖いんだけど)

 夏紀は緊張しながら弾き続け、メロディが盛り上がる手前で視界の隅にハルの姿を見つけた。ハルはバイオリンを持っていた。

(え? もしかして……)

 期待しなかったと言えば嘘になるけれど。

 ハルは夏紀のピアノに合わせてバイオリンを弾き始めた。そんなことをされると余計に緊張するけれど、夏紀は頑張って耐えた。せっかくの綺麗な旋律を乱すのは嫌だったし、ハルにもそんな思いをしてもらいたくはなかった。

 夏紀が我に返ったのは、恵子と徹二が拍手しているのが見えたときだった。カフェの店内の椅子に座って、夏紀とハルの共演を聴いていた。

「バッチリですね!」

「夏紀ちゃん、良かったよ! あ、オーナーも」

「俺、ついで?」

 ハルは笑いながらバイオリンを置き、夏紀のほうを見た。夏紀は本当に緊張していたのか、鍵盤の上で脱力していた。

「あの日──なんであんたにピアノの話したと思う?」

「え? あの日って……駅で、ですか?」

 恵子と徹二が「駅? 何?」と聞いていたけれど、ハルはそれには答えなかった。近くから椅子を持ってきて、夏紀の隣に座った。

「知ってたから。あんたがピアノ弾けるの。それも上手い、って聞いてた」

 どうして知っていたのか聞こうとして、夏紀はそれをやめた。ハルがハレノヒカフェのオーナーということは、いつ店内にいてもおかしくないということ。さやかと話をしているのを偶然聞いたのだ。

「すみません、上手くなくて」

 夏紀は謝ったけれど。

「上手いよ。俺には劣るけど。最初から、あんたを採用するつもりだった」

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