第十九話 こわい魔女

 その日、ローズがギルバートと一緒にリビングでお絵かきをしていると、マーリンがやってきて唐突に言いだした。


「ショッピングに行きましょ」


 彼女の言うことは絶対だ。断られることはまずない。ローズはギルバートとマーリンと三人で、おでかけすることになった。

 場所はナイツブリッジ。ロンドン最大の王立公園ハイドパークに隣接している高級ショッピングエリアだ。人の往来が多く、背丈の低いローズは数十メートル進むのも一苦労である。なので右手をギルバート、左手をマーリンに握られながら、ローズは人混みが左右に分かれていく様をただ眺めて歩いた。

 ハイドパーク隣の歩道を歩いている時、ふいに妙齢の女が一人、ローズ達の進行を妨げるように立ち塞がった。歳の頃は三十そこそこの、常なら美人の部類に入るような女だった。しかし今は酷いもので、ぐしゃぐしゃに崩れた化粧と髪、泥だらけの服、やつれた顔のせいで老婆のような有り様になっている。その女はマーリンの前で膝をつくと、ベビーピンクの綺麗なワンピースに縋りついてきた。


「お姉ちゃん、私を返して!」


 そう言って、ぐしゃぐしゃに泣き崩れるのだ。ローズは口もきけず、ただその二人を見ている事しか出来なかった。マーリンも、黙って女を見下ろしている。

 するとギルバートが二人の間に割って入り、取り縋る女の腕を引き剥がした。


「おい、さっさと行け。警察を呼ぶぞ」


 低い声でそう脅すと、女は泣きながら、また公園の方へと逃げていった。


「……さっきの人はなに?」

「気にするな」


 ローズはギルバートに尋ねたが、彼は目も合わせてくれなかった。マーリンも、今はもう立ち並ぶ店を眺めてウィンドウショッピングを楽しんでいる。いつも笑っているギルバートの口角は固く引き結ばれ、どこまでも無感動な表情をしていた。


「気が狂ってるのさ」


 頭の隅で引っかかるものを感じながらも、ローズは二人に引き連られ、通りを歩く。そうしてしばらく街中を歩いていると、偶然にも店から出てくるイーサンと鉢合った。彼は女と一緒で、仲良さげに腕まで組んでいる。目が合うや、三人は彼の方へと歩いていき、声をかけた。


「よぉ」

「偶然ね、イーサン」

「イーサン、デートしてる!」


 その呼びかけにイーサンは口角を上げたが、その顔はお世辞にも三人を歓迎しているふうではなかった。彼の腕を掴んでいる女は、現れた三人に目を向けた後、隣の男の顔を覗きこんで首を傾げる。


「友達?」

「……まぁ、そんなようなものかな」


 ギルバートはにやにやとした顔でイーサンの肩に手をかけ、何やらかを口にした。それに対して、イーサンは無言のままだった。その言葉はローズと相手の女には理解できないものだったので、何て言ったの?とまた女が首を傾げる。


「その子、何人目?」


 皆の視線が、一斉にマーリンへと集中する。


「意味を聞いたでしょ?」


 マーリンはにっこり笑ってそう言った。


「まさか自分だけだと思ってたの?」


 瞬間、空気が凍りつく。一拍して、女の顔が青褪め、赤くなって、イーサンを睨み、持っていた買い物袋を投げ捨てた。そうしてそのまま一度も振り返ることなく、人混みの向こうへと女は去っていった。


「……今のはボクのせいじゃないぞ?」


 小さな声でギルバートが呟く。イーサンは溜息をつき、マーリンを睨んだ。


「どういうつもりだ、マーリン? 僕の邪魔をしないでくれ」

「あら、むしろ手助けよ。あんな程度の低い女の想い玉なんていらないわ。無駄足が一つ消えたじゃない」


 イーサンは眉を寄せる。でもそれだけだった。デートを台無しにされても、イーサンはマーリンを怒らない。ただ深く溜息をついて煙草を吸い始めた。

 しかしさっきの言葉はなかなか面白いイントネーションだった。ローズは復習のため、先ほどギルバートが言っていた言葉を何度か口に出して繰り返してみる。


「やめなさい、ローズ」


 イーサンに止められた。でもマーリンが面白がって、さっきの言葉も含め、ローズにどこで使えるかも分からないような言葉を教えこみ始める。イーサンはげんなりした。


「そんな言葉、一体どこで使うつもりなんだ?」


 呆れてイーサンがまた一口煙を吸い込むと、ふいにマーリンが彼の口からそれを奪って自分の口へと持っていく。イーサンは慌てて取り返そうとしたが、彼女はそれをするりとかわすと、ぱくりと小さな口で咥え、慣れた手つきで煙を吐きだした。


「おい、その姿ではやめてくれ」

「あら優しい。でも弟子に指図される筋合いはないわ」


 言ってもう一口吸うと、イーサンの口へと煙草を返した。

 間接キスしてる!とローズは顔を赤くした。もしや、二人は恋人同士なのではないか。でもその割には歳が離れすぎている気がするが……。ローズは疑問に思った。


「二人は恋人同士なの?」


 尋ねられたイーサンは、驚いた顔でローズを見下ろす。


「違うよ」


 即座にそう返事をした。マーリンは笑っているだけだ。


「じゃあ、恋人じゃないけどデートする方の人?」

「違うよ……!」


 今度はイーサンも半笑いだった。ローズの頭には、二人に体の関係があるかどうかなんて考えはない。それがどれほど突拍子のない質問だったかなど、分かりはしないのだ。じゃあなんだというのだ、単純に疑問が解消されずに困惑しているその顔が、イーサンにはおかしくて堪らなかった。

 胸にあったわだかまりも掻き消えたので、彼は近くの灰皿で煙草の火をかき消した。


「ローズ、帽子を見にいきましょうよ。私が買ってあげるから。あなたの名前、ハットさんでしょ?」


 唐突にそう言って、マーリンはローズの小さな手を引き帽子屋に入っていった。その少し後ろを、男二人が連れ添って続く。イーサンが店の扉をくぐる時、他の二人には聞こえないほどの小さな声で、ギルバートがそっと囁いた。


「あの先生とは、な?」


 イーサンはそれに対し、無言のままだった。

 ローズはマーリンと一緒に店内を歩き回る。マーリンは目に入る帽子を片っ端から手に取っては、自分の頭に、たまにローズの頭にも被せてまわった。マネキンの一つから真っ白なツバ広帽子を取って被り、彼女が鏡の前で顔を傾け始める。


「あなたは随分と優しいのね」


 急にそんな事を言われ、ローズは何の事だか分からない。


「この間、私がギルに怒った時、あなたかばってあげてたでしょ?」


 そこまで言われ、あぁ、と合点がいった。もしかしてその時の事が不満で自分も怒られやしないだろうか、とローズは恐る恐る彼女の顔色を窺う。


「わたしもよく、おかたづけをわすれてパパにおこられるから。でもあんな言いかたされたら、かなしいと思って……」

「優しいのね」


 振り向いたマーリンは柔らかく笑っていた。ローズは彼女に褒められた事が嬉しかった。もしかしたら、自分は何か勘違いをしていたのかもしれない。彼女のこの間のあれは、別に意地悪で言った言葉ではなかったのかもしれない。

 マーリンは被っていたツバ広の帽子を元の場所へと戻し、どれがいい?とローズに尋ねてきた。ローズが棚に並ぶうちの一つを指さすと、彼女はその帽子を手に取って、ローズの頭へと被せる。そして帽子の位置を調整すると、その場に座りこみ、ローズの顔を覗きこんだ。にっこり笑ってこう言う。


「でも、ギルはあなたの事が嫌いよ」


 ローズの顔から笑顔が消えた。何故そんな事を言われるのか、分からなかった。ただずきりと、胸に痛みを覚える。


「……ギルが、そう言ったの?」

「見てれば分かるわ」


 そんなことない。反論したいのに、その言葉をはねのけるだけの自信を探している間に、マーリンがまた口を開いた。


「私が嘘ついてると思ってるでしょ?」


 彼女の笑顔は揺らぎもしない。それは意地悪な笑顔ではなかった。本当に綺麗な笑顔だ。愛嬌があって、誰もが魅了されるような、完璧な笑顔。

 それが堪らなく恐ろしかった。


「でも皆も嘘つきよ。ギルも、エリシャも、イーサンだって。皆、あなたに嘘ついてるわ」


 マーリンが恐ろしい。ローズはその時、はっきりと彼女の事をそう思った。怒鳴られたのでも、ぶたれたのでもないのに。にこにこ笑って、綺麗な子なのに。なのに、どうしてこんなふうに、人を傷つける事を平気な顔で言えるのだろう。

 その時初めて、ローズは人を恐ろしいと思った。


「これにしましょ」


 ローズに帽子を被せたまま、マーリンはローズの手を引きレジへと歩いていく。その手を離してほしいと思うのに、ローズにはどうする事も出来なかった。

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