第四章 魔法使いの先生

第十八話 暴君

「イーサンがこないだ教えてくれたタルトの店、すごく美味しかったよ」

「良かった、あそこは僕の行きつけなんだ。今度、誰かとのランチデートにでも使ってみて」


 言われたウィリアムは困ったように笑って頭を掻いた。そんな父親の姿を、ローズは足元でじっと見つめている。パパにデートの予定なんて、あるのか。そう問いたげな娘の視線を受け、ウィリアムは慌てて言い添えた。


「イーサンは何が好きなんだ? 今度、俺の行きつけも教えるよ!」

「うーん、素朴な食べ物がいいかな。家庭料理を出してくれるような」

「へー、意外だな。それともイギリス料理に興味があるのか? そういえば、イーサンはどこの出身なんだ?」


 その質問に、彼はにっこり笑うだけだった。


「色々混ざってるんだ」


 なんだ、教えてくれないのか?とウィリアムが笑い返す。ローズは今度はイーサンの顔をじっと見つめた。表情は笑っているが、彼のヘーゼルの瞳には強い拒絶の色が混じっている気がした。それ以上は踏みこませない、にこやかな顔の下にそんな頑ななものを感じる。彼はロンドン生まれの魔法使いではないのかもしれない。それとも、魔法使いだけが住む秘密の国でもあるのか……。

 ちなみに会話の中身とは関係ないが、三人は今、深紅の廊下のど真ん中で会話をしている。ローズはこの家の秘密について父親に話すことが出来ない。だったらいっそ見せてしまえばいいのだ!と思いつき、朝、イーサンが家の扉を開けた瞬間、無邪気なふりをしてローズは父親の手を引き家の中へと引きずりこんだ。イーサン達の部屋には無理でも、天井にまで本棚のある書斎を見せれば一発でこの家がおかしいということに気づいてもらえると思ったのだ。でもまぁ、その企ては見事に失敗に終わったわけだが……。

 ウィリアムを引っ張って深紅の廊下の先にある扉を開けた時、ローズは困惑する事になった。どうしてか、父親には二階に通じる階段も、書斎の廊下へと続く扉のどちらも見えていないようだったからだ。いくらローズが引っ張っても、なんだなんだ? 綺麗な絵なんだからイタズラするのはやめなさい、とローズを窘めるだけでそれ以上足を進めてくれなかった。どうやらウィリアムの目には、左右の道には巨大な絵画がかかっているように見えるらしいのだ。口で説明しようにも、残念ながらローズの唇がそのために開くことはない。そこで時間をくっている間に、イーサンが来てウィリアムの足を完全に止めてしまった。


「おっと、そろそろ行かなくちゃ。それじゃあ、イーサン。今日もよろしく頼むよ」

「あぁ、いってらっしゃい」


 そして、パタンと玄関の扉が閉じられる。ローズは開かない口をへの字に曲げ、悔しさに顔を歪めた。


「残念だったね。だが僕らのツメはそんなに甘くないよ」


 にやりと口角を上げたイーサンが、ローズを見下ろしそう言った。


「うちの玄関には目くらましのまじないがかかってるんだ。魔法使いか君みたいに小さな子なら避けられるが、大人達がこの家の真実を見ることは出来ない」


 イーサンが玄関に向かって腕を伸ばすと、そこに透明で薄い紗幕のようなものがかかっているのが一瞬だけ見えた。それが天井から吊り下がり、イーサンの膝丈あたり、ローズの頭より少しだけ上の位置まで垂れ下がっている。


「この紗幕をくぐると、くぐった者の視野を制限する事が出来る。だから、ウィルにこの家の不思議について見せることは出来ないよ」


 ローズが鼻の頭に皺を寄せてさらに顔を歪めると、黒い魔法使いはなおの事、意地の悪い笑みをその顔に浮かべるのだった。

 二人が玄関でそんなやりとりをしていると、ウィリアムと入れ違いにギルバートが帰宅してきた。


「おっと、お二人さん。今日も仲のいいことで」

「朝帰りとは大層な事だな、ギル」

「ははは、バーで出会ったマダムに気にいられちゃってね」


 ギルバートからは酒の匂いがした。それから煙草、華やかな香水の香りも混じっている。思わずローズは鼻をつまんだ。


「ギル、くさい」

「あ、ローズ。さすがにそれは傷ついたぞ」

「いや、ローズの言うとおりだ。早く匂いを落としてくれ」

「文句ならボクじゃなく、マダムの方に言ってほしいね。でも確かに、風呂には早く入りたい」


 言いながらギルバートがシャツのボタンを緩めていると、二階からカツカツとヒールの音がしてマーリンが下りてきた。今日は真っ赤なドレスを着て、それと同じ色が彼女の唇を彩っている。耳元できらりと光ったのは、蝶の翅のピアスだ。


「あらギル、探してたのよ。一体どこにいたの?」

「あぁ、先生。昨日から外出してて今さっき、」

「お風呂の浴槽に垢が付いてたの。今朝入ろうと思ったのに、気持ち悪くて吐きそうだったわ。たしか昨晩の当番はギルだったはずよね?」


 ギルバートは途端に口を閉じて固まった。少しの静寂があった後、ようやくしてまた、彼が口を開く。


「あ、すみません、昨日はうっかり……」

「あら、うっかり忘れていいことだったかしら。だったら私もあなたの事、うっかり忘れちゃうかもしれないわね。明日からあなたの部屋が綺麗さっぱりなくなってても怒らないでくれる?」

「……先生、あの、」

「グズね。言い訳を考える暇があるならさっさとやりなさい」


 ギルバートは返事も出来ずに黙りこむ。床にひっついた足をなんとか引き剥がすようにして彼が一歩を踏みだした時、深紅の廊下に高い声が通り抜けた。


「ひどいわ、そんな言いかた」


 その場にいた全員がローズを見下ろす。その後、男二人の視線は廊下を突っ切り、またマーリンへと向けられた。今度はマーリンに注目が集まる。

 途端、彼女はしおらしい声で言う。


「あら、じゃあこう言えば良かったかしら? うっかりだったのだから仕方ないわ、今回はたまたま運が悪かったのよ、気にする事ない、次また頑張りなさいって」


 そうして急に、その声から熱が消え去った。すんと冷めた青い瞳で、彼女はこう続ける。


「私は私の弟子についてよく知っているのよ。他の誰にも見せた事のない、恥ずかしいところまでね。ギルは一番、怠惰でダメな子なの。甘やかしたって、これっぽっちも意味がないのよ」


 それだけ言うと、マーリンはさっさと二階の自分の部屋へと行ってしまった。傍らに立ったイーサンが、小さく息を吐きだす。上階で扉のしまる音がしてようやく、ギルバートは肩を落とした。


「……あーあ、イーサンかエリシャがボクの代わりにやってくれてればなぁ」

「僕らにそんな気遣いを期待したのか? この家にそんなおめでたい頭の奴がいたとは驚きだ。物忘れの多いお前が悪い」

「子どもの頃、風呂に入れてやっただろ? その時の借りを返そうって気持ちはないのか?」

「あぁ、髪をむしられて体中すり傷だらけにされたあれの事かな? 借りはいつか必ず返させてもらうよ」


 イーサンはにっこり笑っているが、その目はまったく笑っていなかった。それを見て、ギルバートが悲しげに眉を下げる。


「お前は誰を見て育ったらそんな可愛げのない奴になっちまうんだ?」

「そうか、だとしたら納得だ。僕が見てた背中には、少なからず君のも入ってたはずだから」


 ギルバートは落としていた肩をさらに沈めて息を吐く。そんな姿を見て、イーサンも大仰に溜息をついた。


「いいからさっさと掃除してきなよ。これ以上先生の機嫌を損ねると、後が面倒だ」

「はいはい」


 ギルバートは踵を返し、マーリンの言い付けを守りに風呂場へと向かっていく。ローズはギルバートの後を追った。


「お、ローズ。手伝ってくれるのか?」


 脱衣所で服の袖と裾を捲りながら、ギルバートが嬉しそうに言う。彼が落ち込んでいるのではと様子を見にきただけだったが、まぁいっかとローズは首を縦に振った。そうかそうかと彼は喜び、ローズを抱き上げると空の浴槽の中へと下ろした。


「それじゃあ分担しよう。ローズは浴槽、ボクはそれ以外。しっかり頼むぞ!」


 渡されたスポンジで洗剤を泡立て、ローズは浴槽をこする。指でこすってきゅっきゅと音が鳴るまで洗うよう、念を押された。


「ねぇ、ギル」

「んー?」

「なんでみんな、マーリンの言うとおりにするの?」


 イーサン、ギルバート、それにエリシャも、三人の彼女に対する態度や口ぶりは、ローズには意味不明だった。


「どうして先生とよぶの? どうしてワガママ言ったりひどいことを言っても、あの子はおこられないの? どうしてだれもマーリンにやめてって言わないの?」

「……うーん」


 ギルバートの返事はすぐに返ってこなかった。ただ浴室のタイルを擦る音だけが反響する。


「ボクたちがそれぞれに一番大切だと思ってるものを、今はマーリンが持ってるんだよ。それを返してほしいってのが一つ」


 ギルバートは前へと落ちてきた髪を後ろへと払いのける。ローズの手が止まっているのを見ると、彼はコンコンと浴槽の縁を叩いて催促してきた。手伝ってやっているというのに、口うるさいものである。

 ローズが手を動かし始めるのを見て、ギルバートもまたタイルを擦り始める。


「あともう一つは、あの人の持ってる力が欲しいってのもあるね。そんじょそこらの魔法使いにはない、唯一無二の魔法だから。特に、イーサンとエリシャはそうだろうな」

「それってどんな魔法なの?」

「とっても強い、すごーい魔法」


 ギルバートはおどけて言うばかりで、それがどんな魔法なのかは全然教えてくれなかった。なんとなく誤魔化されているような空気を感じ、ローズは顔を歪める。ギルバートはローズのそんな不満にはもちろん気付いていたが、気付いていてなお、にっこり笑うだけだった。彼の頬にくっ付いている泡が、えくぼと一緒に持ち上がる。


「先生の助けがボクらには必要なんだ。あの人は"心の魔女"って呼ばれるくらい、とっても優秀な魔女だから」

「あなたよりずっと年下なのに?」

「うーん、まぁ、そうだね」

「……変なの」


 ギルバートはそれ以上は教えてくれなかった。ほら、手が止まってるぞ!と言って何度も急かしてきて、ローズは泡まみれの浴槽の中、ぶすりと顔を歪めていた。

 マーリンには秘密がある、ローズはそれを確信していた。なぜならローズは、父親に彼女が"先生"と呼ばれている事を話すことが出来なかった。イーサンも、ギルバートも、エリシャも、決してウィリアムの前で彼女の事を"先生"とは呼ばない。ローズの前でだけ、この家にいる間だけ、彼女のことを"先生"と呼ぶ。

 マーリンの秘密には、魔法が絡んでいるのだ。

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