第ニ話 上階に住む人たち

 扉の先にあったのは深紅の廊下。壁紙には臙脂にピンクローズの花と葉が描かれている。廊下の奥にひとつ扉があり、その途中にも左右対称になるようによっつの扉が並んでいる。扉はどれも木製で、小さな曇りガラスの窓がはめ込まれており、それが波のように揺らめいているせいで部屋の中は見通せない。ローズが恐る恐る廊下の先へと足を進めると、ふいに右手奥の扉が開いて、一人の男が出てきた。

 月光のような銀髪で、イーサンと同じく髪が長い。オールバックにした髪は深紫のリボンで後ろに一括りにしている。ネイビーのシャツに、リボンと同じ色の艶のあるベスト。ライトグレイのアスコットタイを締め、すらりと真っすぐに伸びた背筋。白磁の陶器か、あるいはガラスのナイフのような印象を覚える男だった。


「おい、イーサン。俺の時計のぜんまい鍵を見てないか?」

「いや? 僕の荷物の中にはなかったよ」


 現われた男は整った顔立ちだが、切れ長のつり上がった目は血だまりのように黒赤で、しかも眉間に深い皺を刻み不機嫌オーラをふり撒いている。銀髪の男の美しくも気圧される迫力に、ローズは思わず怯んだ。とその時、ローズの右手、つまり廊下右手前の扉がふいに開いて、ローズは飛び上がった。


「君の鍵はここだよ、エリシャ」


 現われたのはまたしても見目麗しい男だった。きっちりとしたスーツを着込んだ二人とは違い、その男の格好はラフなもの。黒いタイトパンツにゆったりとした白のブラウス。緩やかにウェーブを描く豊かな金髪も相まって、まるで中世からやってきた貴族の貴公子のような容貌だ。清らかな水辺を思わせる青い瞳が煌き、まるで春の陽光のように眩しい男だった。

 彼の声を聞くや、ガラスのナイフの切っ先が、貴族の貴公子へと向けられる。


「お前の仕業か、ギルバート」

「なんだなんだ、さもボクが隠したみたいな言いがかりはよしてくれ。言っておくけど、この鍵があったのはボクの宝飾ケースの引き出しの中だ。君が自分のがらくたケースと間違えて入れただけだろ」

「俺のネジと歯車の事を言っているなら、お前が毎週大切に磨いているその石っころよりも、よほど役に立つ物だと分からせた方がいいか?」

「いいや、結構。そもそもボクとエリシャの荷物が一緒くたになってるのは、イーサンの荷物が多すぎるせいだろ。つまりイーサンのせいだ。一人で何箱使った? 私物が多すぎる」

「僕は君たち二人と違って、整理整頓が得意だからね」

「自分の物への執着が強すぎるだけだろ。もっと減らせよ」

「減らしてるよ、あとは必需品ばかりだ。それに僕の私物が多いと言うなら先生はどうなる? 着れもしないドレスだけで二十箱はあった」

「それ、本人に言ってみろよ。どんな罰が下るか見ものだな」


 ギルバートと呼ばれた金髪の青年は、銀髪の青年、エリシャへとぜんまい鍵を手渡す。エリシャの不機嫌そうに細められた目が、まばたき一つしてローズを見下ろした。


「それで、そっちの子どもはなんだ?」

「それはボクも気になってた」


 頭上からそれぞれ美貌の三者に見下ろされ、ローズは抱えていた本をぎゅっと抱きしめる。何も言えないでいる間に、イーサンが二人の質問を拾いあげた。


「下の階の子だよ。アパートの前で出会ってね。家に招待したんだ」

「家に子どもを連れてくるな」


 エリシャの不機嫌な赤い目に睨まれ、ローズはさらに縮こまる。すると隣にいた金髪の貴公子、ギルバートがまぁまぁと男の肩を叩く。


「そんな睨むことないだろ? 相手は子どもだ。ボクなら、レディなら誰であろうと歓迎だ」


 そうしてよろしく、と手を差し出されるままにローズはギルバートと握手をする。彼の爪はつやつやに磨かれて、桜貝のようだった。

 イーサンが屈んでローズの肩に手をまわす。


「ローズは母親を亡くしているらしくてね、父親と二人暮らしらしいんだ。子連れの男と仲良くなるなんて、なかなかない機会だと思わないか?」


 イーサンのその言葉に、二人の男は興味を惹かれたようだった。おかしな話である。大概こういった話を出した時にローズが見てきた大人たちの反応は、眉尻を下げ、さも残念そうな声音で謝罪を口にしたり、ローズや父親を励ますような言葉をかけるばかりであった。しかし目の前の二人は違う。エリシャの眉間の皺は途端に消え去ったし、ギルバートの顔には喜色さえ浮かんでいる。


「父親は迎えに来るのか?」

「じきに。さっき連絡したらしいから、そろそろ帰ってくるよ」

「では、父親が来たら呼んでくれ」


 そう言って、エリシャは自分の部屋へと戻っていく。

 扉の隙間から見えた彼の部屋は、なんとも奇妙なものだった。デスクには試験管やビーカーが所狭しと並び、どの入れ物にも青や緑のおかしな色の液体が入っている。その周りにはネジや歯車などのアンティークな機械仕掛けめいたものが取り囲んでおり、それがどうやら部屋の奥の壁沿いにある巨大な古めかしい機械に集約されているようだ。もっとよく見たかったが、エリシャが扉を閉めてしまったので断念するしかなかった。


「ボクもその父親と話がしてみたいな。機会を作ってくれよ」

「順番にね。色々と段取りがいる」

「じゃあ、そこは任せた。必要があれば呼んでくれ」


 ギルバートもそう言って、自分の部屋へと戻っていく。彼の部屋は温室のように緑の草花が生い茂っていた。奥には水晶や原石の塊がごろごろと転がっていて、何やら水の音も聞こえてくる。おまけに獣の鳴く声まで……。ローズは部屋の奥をのぞき見ようと首を伸ばしたが、残念ながら扉を閉められてしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る