第7話 じゃない彫刻
彫刻と言えば、何を連想するだろうか。
街中や公園、ギャラリー、デパートの展覧会等々では、具象から抽象、様々なサイズの立体が無造作に立ち並んでいる。
駐車場に立つ裸婦像は何のためにあるの?と疑問をもつ人も多いだろう。
二宮金次郎像からは、働きながら勉強せーよ!と説教を食らわす像であることを感じずにはいられない。現代なら本じゃなくてスマホを持つだろう。
全てが彫刻とも言えるし、評論家が定義する彫刻じゃない場合もある。
美術史の流れを汲んでいる、流れを変えている彫刻には価値が置かれる。
喫茶店のインベーダーゲームから家庭用ファミコンが発明されたときを振り返ると、イノベーションに価値が置かれる意味が分かるだろう。
突拍子もないものや、流れに逆らっている、流れを考えていないものは、美術界からはあまり相手にされない。ブームにならないからだ。
レトロ感覚で喫茶店の古びたゲームに勤しむのはありだが・・。
美術界には、誰がいつの時代に何を表現したのか、どんな概念で理論化し、体系化してきたのか。誰も気付かなかった表現形態をどんなタイミングで発表したのか気にする人々(美術評論家)がいる。
一般の人からすれば、どうでもよい事柄について
人間の肉体美を追求したムキムキの男女が絡み合うバロック彫刻はダサいし、視覚的に複雑さを排除しシンプルにしたミニマル彫刻でもいいんだけど、モノを形作るんじゃなくて、自然物や材料そのモノに最小限の手しか加えず表現するモノ派で終焉かと思ったのに、コンセプチャルアートのように、形態自体無くてもいいじゃん、言語だけで!と言う人も出てきちゃった、モノをつくることを止めちゃうと俺たち困っちゃうんだよね、という時代にダイラは学生時代を過ごしていた。
ムキムキ人間最高だぜ!という時代にミケランジェロの横で、むき出しの石そのままがいいんだ!と言ってみたところで、誰にも相手にはされない。
ブームに少し飽きてきたころに、次の表現をそろりと出すことが次のブームを生み出し広げる。
モノ派以降、彫刻家たちは、モノの表面、皮の部分に注目し出した。
表面を鏡や金属でキラキラさせたり、薄い布でひらひらさせたり、蝋や樹脂でドロドロさせたり、忙しく表面をいじくった。
「モノを作らなくたっていいじゃんでは、私たちの生活は成り立たないんだよね・・もうちょっとモノを作らせて!」と誰かが言ったわけじゃないけど、首の皮一枚でつくることに繋がっていたかったのが本音か。
石や木の表面をいくら彫刻したって、中身はただの石や木のままでしょ~と誰かが気付いちゃった。お墓でいくら拝んだって、それはただの石なんだから。表面に〇〇家の墓って書いてあるから、皆そのつもりでいるだけ、暗黙のルール・・。
そういうことにしてるだけじゃないの?
分かった、じゃぁ、中身を無くして、表面(皮)だけにしちゃうのが次のブームだな!と彫刻界はそろりと動き出した。
モニュメントや記念碑みたいに
でもそんなことできるの?
美大にはモノ派以降の表現を模索する教授や、ミニマルバロックという新たな分野を築いていた日本人の作家が世界に出始めていた。
日々鬱々としていたダイラは、次のスターを求める美術界に彗星の如く現れた。モノ派以降の表現者として、美術界を席巻しようとしていた。
ダイラの作る作品の表面は誰もが知っている鉄板だったが、光がこぼれていた。
表面や皮に固執していた作家たちは、ダイラのイノベーションに腰を抜かした。
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