第21話 何も聞こえない朝

 7月の終わり、武はマグロ釣りの準備に余念がなかった。


 武は一本釣りでマグロを釣り上げるつもりでいた。


 仕掛けは、竿ではなくテグスとし、電動リールではなく、武自身の身体で釣り上げる。


 テグスは10号の撚り糸巻き100m、錘は120号、針は若狭湾専用のマグロ針の4号を使用する。


 餌は生きたケンサキイカ


 ポイントは正栄のアドバイスに従い冠島北東10kmの沖合とした。


 正栄が教えてくれた。


「夏場、海水温が高いと、通常、日本海を青森の方へ北上するマグロが若狭湾に入ってくる。


 数は多くはないが、ワンチャンスは必ずある。


 型は、大きい物で100kgを超える黒マグロも居るが、狙いは30kg前後のビンチョウマグロ


 冠島は若狭湾の最高の餌場


 冠島の北東を狙え」と


 武は早々と準備を終えたが、なかなか船を出そうとはしなかった。


 正栄は、そんな武を見て、最期に賭ける意気込みを感じた。


「あん人は一発だけを狙っているんや。


 待ってるんや。」と


 正栄の察しのとおり、武は待っていた。


 海が微笑むのを待っていたのだ。


 亜由子も同じであった。


 2人で白灯台で夕餉をしながら、海が微笑むのを待っていた。


 2人には分かるのであった。


 海の気持ちが分かるのであった。


 白灯台左側の浜辺の水瓶


 夕陽が鎮座する水面


 その時、海の機嫌が見える。


 海面が2人に微笑む


 穏やかに微笑む


 その時を2人は待っていたのだ。


「今、見えた?


 私、分かったよ!


 水面が笑ったよ!


 武さん、見えた?」


「見えたよ。


 夕陽が安心している。


 水面の微笑みに包まれ、夕陽が安心して寝付いたね。」


「そう!


 安心してるの、太陽が!


 そう、海が穏やかに微笑んだから…」


「亜由、明日、船を出そう。」


「うん!分かった。」


 2人の待ち侘びにやっと海が微笑んで応えてくれた。


 翌朝、2人は新正栄丸に乗り込んだ。


 生簀の中には、昨夜、正栄が釣り上げた餌となるケンサキイカが朝日と同じ柿色に変色し、泳いでいた。


 新正栄丸は朝日を背にし、無用の月が浮かぶ北東の空を目印に凪の海面を進んで行った。


 出港して1時間、新正栄丸は冠島沖北東10km地点に到着した。


 時刻は午前6時


 朝日は新正栄丸の右手前方の水平線から血を滴るよう浮かび上がっていた。


 この日、潮の流れも緩やかであった。


 絶好のマグロ日和


 マグロが潮に乗ることなく、ここ、若狭湾でひと休憩する塩梅であった。


 武はマグロ針にイカを付け、大きく海面に放り投げた。


 操舵室のソナーは水深80mに底の地形を現していた。


 亜由子は、やはり、いつものように武の隣に居た。


 恰も女神のように、凛々しく佇み、静かに水面を見遣っていた。


 武はしっかりと道糸を手繰り、獲物が食い付く瞬間に全神経を集中させていた。


 第一投から1時間が経過した。


 当たりはなかなか訪れなかった。


 それでも、2人には確信があった。


 穏やかな水面


 波一つ無い


 完全に海が味方している。


 間違いなく、この日を海が御膳立てしてくれている。


 そう思っていた。


 武が餌を代えた。


 生簀の中のケンサキイカに混じり、一際大きなコウイカが泳いでいた。


 武はコウイカを玉網で掬い、ゲソを半分千切り、弱らせて、針に掛け、第二投目を投入した。


 武は以前、正栄が言っていたことを思い出した。


「皆んな、活きの良い餌が食うと言う。


 でも、そうは限らん。


 元気な餌を捕らえるのは、魚も一苦労や!


 時には弱った、死にかけた餌の方が食う時があるんや。


 魚かて、楽をしたい時があるんや!」と


 そのことを武は思い浮かべていた。


 突然、一風の旋風が海面を横切った。


 すると、今まで姿形も全く見えなかった海鳥が、何処から飛んで来たのか、数羽が海面にゆらゆらと浮かんでいた。


 亜由子が言った。


「あの鳥達、待ってる。」と


 その瞬間、武の右腕に強烈な力が襲いかかり、右腕が引きちがれんばかりに海面に吸い込まれそうになった。


「来た!掛かった!」と武が叫んだ。


 急いで武は渾身の力で道糸を手繰り始めた。


 一手繰りし、また、一ヒロ、道糸を海に戻す。


 その繰り返しが何度も続いた。


「くそぉ!なかなか、上がらない!」と


 武が叫ぶ。


「大丈夫!上がるよ!頑張って!」と亜由子が声を枯らしながら励ます。


 やり取り始めてから30分が経った。


 武が手繰る回数が増えて来た。


「良し!潜るのを諦めやがった。」と武が叫び、大きく腕を振りながら力強く巻き上げ始めた。


「あっ、見えた!」と亜由子が叫んだ。


 黒々とした塊が円を描くように浮上して来た。


 その黒い塊は水面近くで銀鱗の輝きを見せた。


「ビンチョウマグロだ!」


 武は獲物を確認すると、今度は慎重にゆっくりと引き上げ出し、


「亜由、カギを用意しろ!」と指示をした。


 亜由子は一本カギを握り、獲物が水面に浮上するのを待ち構えた。


「バシャッ、バシャッ!」とマグロが尾鰭で水面を叩き出した。


 武は最後の力を振り絞って、マグロを船に近づけ、


「今だ!引っ掛けろ!」と叫んだ。


 亜由子は思いっきり一本カギを振り下ろした。


 カギはマグロのエラを捕らえ


 夥しい真っ赤な血で海面が染まり始めた。


 それでもマグロは抵抗を止めない。


 武は道糸を船縁の杭に結びつけると、足元に置いた銛を掴み、躊躇なくマグロに向けて投げ込んだ。


「ビュン!」と風を切る鋭い音と共に銛がマグロの側頭部に突き刺さった。


 亜由子は急いで銛のロープを握り、ウインチのワイヤーフックに結びつけた。


 それを確認した武はウインチのレバーを落とし、ゆっくりとマグロを船内に引き上げた。


 体長は1m、重さ30kgは有りそうなビンチョウマグロであった。


 2人は喜ぶ暇もなく、武は出刃包丁でマグロの腹を裂き、内臓を取り出し、エラを切り捨て、血を抜いた。


 亜由子は空の生簀にクーラーBOX一杯のバラ氷を移し入れた。


 武は空洞化したマグロの腹にバラ氷を詰めると、


「亜由、一緒にマグロを転がすぞ!」と言い、


 2人でマグロを転がし、生簀に落とした。


「ふぅ~、やったなぁー!」と武が額の汗を拭きながら、ショート・ホープに火を付けた。


「やったね!でも、疲れたぁ~」と亜由子が側に笑いながらへたり込んだ。


 この日はこの大物一本と鰹が数枚上がった。


 新正栄丸は午前中で操業を終えて、港に戻った。


 白灯台では、亜由子から大物を捕らえたとの連絡を受けていた正栄が待っていた。

 

 3人で生簀からマグロを引き上げ、正栄がマグロの尾鰭を切り落とし、既に船首に用意していた白紙と榊の上に祀り、日本酒を海に飲ませ、龍神に初漁の釣果の御礼を告げた。


 そして、正栄が用意した特大の発泡スチロールにマグロを移し、軽トラで吉田釣具店に向かった。


「おかみさん、マグロを釣ったよ!」と、亜由子が店に走り込んだ。


「マグロ!そりゃ、凄いわ!」と吉田の女房も急いで店から出て来て、


 そして、


「正栄さん、良い跡取りが出来ましたな!」と言い、正栄を和かに見遣った。

 

「せやねん!もう、ワシは引退したさかいな!」と正栄は笑って応えた。


 吉田の女房は10万円の卸値を付け、マグロを買い取ると、マグロの腹身を切り取り、


「これで、今夜、お祝いしなはれ!」と亜由子に渡してくれた。


 3人は漁村に戻り、バラック小屋でお祝いの宴を開いた。


 武も亜由子も昨日までの食欲不振が嘘のように箸が進んだ。


 2人とも嬉しかったのだ。


 マグロが釣れたからではない。


 正栄を始め、吉田の女房、皆んなが自分達を見守って、心から支えてくれてる心配りが、嬉しかった。

 

 途中、正栄は徐に腰を上げ、


「イカ釣りに行って来るさかい。」と言い、バラック小屋を出ていた。


 2人は正栄を新正栄丸まで送った。


 正栄は、「また、生簀に餌のイカ、残して置くさかい!」と言いながら、港を後にした。


 2人はバラック小屋に戻ると互いに風呂に入り、今日の疲れを取った。


 そして、午後8時には早目に布団に入った。


「なんだか、まだ、興奮していて、眠れないなぁ。」と亜由子が言った。


「俺もだ。まだ、腕がパンパンに張っているよ。」


「本当だ!武さんの腕、暖かい!」


 亜由子は武の腕枕した右腕をそっと撫でた。


「脚は大丈夫?」と亜由子は武の右脚も撫でた。


「うん。大丈夫だ。見ただろう、あの大物、釣り上げたんだぜ!この脚も頑張ったよ!」


「そうだよ!もう、大丈夫ね!」


「海のお陰だ。」


「うん!海のお陰。」


 そう言いながら、2人は心地良い眠りに堕ちていった。


 鳶が一つ鳴いた。


 魚村に朝が訪れた。


 亜由子は目を覚ました。


 武はまだ寝ているようであった。


 亜由子は朝までも優しく包み込んでくれている武の腕枕を解こうとした。


 暖かいはずの右腕が冷たかった。


 亜由子は武の胸に耳を付けた。


 何も聞こえなかった。


 何も…


 


 




 

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