第15話 神様からの最期のプレゼント

 女を蝕む癌細胞は気まぐれに転移を繰り返していた。


 子宮を拠点とし、その巣が切除される間際、血液に運ばれ、より大きな臓器である腎臓を犯し、それに飽きると胃へと移った。


 医学も放射線治療により癌の行手を阻み、抗がん剤をも投入し、その痕跡を失くそうと尽力した。


 癌細胞は、一旦、死滅したと見せかけ、医学の目が届かない臓器の裏影に潜み、ほとぼりが冷めるや否や、また姿を現し、それに迎合した血液は場当たり的にその運び役を承知してしまった。


 女の身体は、癌細胞のある無しといった医学と癌との追いかけっこに翻弄され、医者はステージという大雑把な物差しで経過報告を繰り返した。


 よくなっているか否かは医師よりも患者の方が心得ていた。


 体中の激痛、抗がん剤の副作用による脱毛、嘔吐、そんなもんじゃない。


 女の心が「限界のドア」をノックした。


 一喜一憂は懲り懲りと、女の心は覚悟を決めた。


 病魔に負けた?


 諦めるのが早い?


 生命力が弱すぎる?


 言うだけ言えば良い。


 心は知っている。


 生きる事が全てではない。


 長生きする事が誉ではない。


 強い事が全て褒め称えられるものではないと…女は感じ至っていた。


 そんな、周りだけが騒々し中、女はある夢を度々と見た。


 死に接する夢


 絶望、恐怖、暗黒といった死を表する一般的なカテゴリーではない死の近寄りの夢


 安堵、和らぎ、許し…


 儚い人生であることを運命として受け入れ、それを良しとし、最終の場面に女の願いを夢が表現した。


 女は小さい時から海が好きだった。


 育った家も舞鶴湾に近く、その深々としたエメラルドのような海色をいつも眺めていた。


 朝日と共に宝石の輝きを発し、夕日と共に光を閉じる。


 女にとって、その海の輝きは、手元から決して失われない玉手箱のようなものであった。


 女が見た夢


【女は産まれたばかりの朝日に輝く海面の反射光に目を細めながら自転車で海岸線の道を走っている。


 河口に掛かる大橋の欄干を通り抜けると、


 真っ赤な太陽が明らかに水平線から浮かび上がり、


 エメラルド色に帯びる舞鶴湾が女を静かに待っていた。


 自転車道の右手にテトラポットが見え始め、川と海との界が近づくのを女は感じた。


 次第に道の行き止まりが見えて来た。


 女は自転車の速度を落とした。


 右手に見える川の水面は鏡のように鎮まり返り、海への無用な戦いを放棄していた。


 正面に見える海の水面は無抵抗で従順な川の流れを優しく受け止め、一応の節度として、目立たない潮目を表出していた。


 女は海に促されるよう自転車を止めた。


 そして、女はそんな優しい海に抱かれたいと思った。


 海に横たわりたい。


 海の中で眠りたいと思った。


 そう思いながら、女は眼前に広がるエメラルド色の海に両手を広げ、大きく深呼吸をし、胸一杯に最期の空気を吸い込み、瞼を閉じた。


 その時


 海も空も太陽も月も全部が女の味方となった。


 太陽は立ち位置を空の反対側に急いで移し、空もそれに合わせて落ち着いた光度を醸し、月はまだ自分の出番は早いと星に照度役を譲った。


 そして、海はゆっくりと潮目を変え、そして波音を消し、皆が演出した「夕まずめ」の舞台に静寂のBGMを奏でた。


 その時、


「目を開けて良いよ」と


 女の耳元に風のような声が囁いた。


 女がその言葉に促され、ゆっくりと瞼を開けると、


 海が水面をゆっくりと揺らし、女に微笑み、


 太陽は優しい温もりの橙色となり、女に先立ち、海の布団の中に入り込み、


 月は遠慮がちに空の片隅で静かに輝き、暗闇の迫りを防いでいた。


 そして、声の主は、女の肩に分厚く大きな頼もしい掌を優しく被せた。


 女はその掌の主をそっと見遣った。


 切れ長の目をした男が、眩しくもないはずの海の中の太陽を眩しそうに見ながら女の肩に手を乗せ、


「寂しくないよ。俺が一緒に行くから…」

 

 と呟いた。


 女はその分厚く大きな掌に頬を寄せた。


 女の瞳から自然と涙が流れた。


 悲しみの涙ではない。


 安堵の涙であった。


「生きるのが苦しく辛かった…、

 

 死ぬのが怖くて恐ろしかった…、


 でも、もう、安心して良いんだよね。」


 女が囁いた。


「頑張り過ぎた。ゆっくりと休もう。」と


 男が軽く女の肩を叩いた。】


 この夢を見た朝から、女の心は安らぎに満たされて行った。


 そして、女は思い始めた。


「今まで私に人生の夢なんてなかったのに…


 神様が最期にお示しになさってくれた。


 夢のような夢


 必ず叶う夢


 海に行かないと…」と


 それを境に女の血液中の白血球の数値が下がり始め、癌は胃までの侵攻で足踏みを始めた。


 医者は癌末期の患者によくある小康状態であると判断し、患者の願いである自宅療養を許可した。


 余命1年と両親には宣告された。


 退院すると女は毎日のように車で海に出掛けた。


 女は夢で見た景観の海を探していた。


 次第に女は海を楽しみたいとも思い始めた。


 入院中、YouTubeの釣りの動画をよく見ていたこともあり、エギングをしようと決意した。


 釣れなくても良い


 海と友達になりたかった。


 そして、夢の中の海に近づいて行きたかった。


 そんな時


 女は遂に逢えた。


 福井県小浜市阿能のある漁村


 深雪に音を吸収され尽くした静寂の防波堤で見たあの光景


 西の小山の峰を滑り落ちた夕陽は潮止まりの水瓶の静水の鏡に姿を映し、


 微かに揺れながら、空よりも海の中を橙色に照らし、


 恰も夕陽が海の中で眠っているように映った、あの光景に…


 夢の中の景色と同じだった。


 そして、斜め前には、大きく優しい背中、


 男の背中が女の心を迎えていた。


 


 


 


 


 

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