第10話

学校。


「いいか、今言った所は試験に出るぞ。」


 そこは常に己の力が試される所。


「おっと、そろそろ時間だな。」


 そして俺は今、かつてない挑戦の時を迎えようとしていた。


「じゃあ、今日はここまで。」


 ―――キンコーン、カンコーン


「よっしゃぁああ!! 俺の俊足は光をも超えるぜぇえ!!」


 あらかじめ手に持っていた鞄を握りしめ、俺の出せる最高スピードで教室のドアへと向かう。


「おー、マリモ! お前の足に期待してるぜー!!」

「マリモ、帰るのか? また明日なー!」

「あっ、マリモ君! 吉良先輩はいいの?」


 速水、斉藤、西野がそれぞれ声をかける。俺は右手を軽く上げることで、彼らに応える。見ていてくれ。俺は必ず、あのサディストから逃げ切ってみせるぜ。

 生徒の間をすり抜け、階段を二段飛ばしで降り、廊下を走り抜ける。今の所、サディストには会っていない。頬に当たる風が気持ち良かった。

 段々近づく出口を目にして、俺の鼓動が高まってくる。ここを出たら、寮まであと少しだ!!

 出口に向かって、ラストスパートをかけようと足に力を入れる。


「ハハハハッ!! とうとう俺は、サディストの魔の手から逃れ…ッぐえぇぇ!!」


 出口を走り抜けた瞬間、誰かに服を掴まれ首元が締まり、カエルが潰れたような声が出た。一瞬、川岸で手を振る亡くなった祖母が見えた。殺す気かッ!!! 首元を締め付けた元凶を睨みつけると、相手はその端正な顔に、人好きするような笑みを浮かべていた。だが俺にとってその笑みは、悪魔の微笑みに等しい。


「ハイハイ、お疲れさん。いやー、迎えに行く手間が省けて良かったわ。ほな、風紀室に行くで。」


 そう言ってサディストは俺の服の襟を掴んだまま、歩き出す。そうするとまた俺の首が締まり、苦しくなる。このままだと殺される。そう思った俺は、必死に足を踏ん張った。


「ちょっ、タンマ、タンマ、タンマ!! このままだと俺本当に死んじゃうから!!」

「んー? 大丈夫、大丈夫。キミならそう簡単に死なんやろ。」


 サディストは特に気にした風もなく、また歩き出そうとする。コイツ、俺を殺しても死なない宇宙人か何かだと思ってるのか。こちとら、か弱い人間だよ! もっと俺を労われ、サディストめ!


「まっ、キミが俺の信頼たる人になれたらなー。そん時に考えてやるわ。」


 なんと、俺の心の声が漏れていたらしい。思わず目を向ければ、こげ茶色の目が合った。


「まあ、今みたいに逃げ回ってばかりのキミじゃ、無理やと思うけどな。」


 その目は、とても冷ややかだった。走ったことで体は火照っていたはずなのに、まるで冷水を被ったかのように感じた。俺の口は乾ききって、何の言葉も出てこなかった。


 吉良先輩が言ったことは正しい。俺は逃げてばかりだ。この高校に入っても、会長に膝蹴りして逃げ出したり、風紀からも逃げ回っていた。逃げて、他人に責任を押し付けていた昔の俺と変わろうと思ったのに、これじゃあダメだ。


 俺は変わってみせると決めた。だからこそ――


「俺は逃げない。何があっても、俺は変わってみせると決めたんだ。」


 吉良先輩の目を真っ直ぐと見る。俺の声は、誰もいない静かな空間に響いた。

 先輩も俺も、どちらも身動き一つしない。その時、ふっと先輩が俺に手をのばした。俺は身を固くする。

 だがそんな緊張した雰囲気は、相手が俺にデコピンをしたことで霧散した。実際、いやかなり痛かった。俺はあまりの痛さに、思わず床に蹲る。


「~~ッ!!」

「俺は2-S、風紀副委員長の吉良 京介や。次にアホな名前で俺を呼んだら、しばいたるから覚悟しとき?」


 顔を上げれば、先ほどより表情を和らげた先輩がいた。もう、さっきような冷たい目じゃなかった。


「お前が変われるかなんて、そんなのお前次第や。そやから、まずは取り組むことは先輩には敬語を使うこと。廊下は走らんこと。ええか?」

「先輩に敬語を使うのは分かるけど、どうして廊下なんだ?」

「敬語。」

「………廊下なんですか?」


 そう改めて問いかけると、吉良先輩はゆるりと笑った。


「走るっていうことは、自分の心に余裕がない時や。確かに非常事態の時には、走らなあかん時もある。やけどな、いつも走ってばかりやと、周りにいる人を突き飛ばすかもしれん。そやからいつもゆっくり歩けば、己を見つめなおして、周りを見渡す余裕もできる。それが自信に繋がると、俺は思うんや。」


 先輩の声は、不思議と俺の心に染み渡っていった。


「そう、ですね。ありがとうございます、吉良先輩。」


 俺は先輩に笑いかける。今なら、先輩と目を合わせられると思うから。


「というわけで、お前次廊下走ったら、反省文100枚書いてもらうで。」

「それは理不尽すぎません!? あと、俺は『お前』じゃなくて、1-Sのマリモっす! これから色々と迷惑かけると思いますが、よろしくお願いします、先輩!」

「ん、マリモ? 確かお前の名前は……」

「あー、ほら! あだ名ですよ。『マリモ』って、何かゆるふわ癒しキャラっぽくないですか? これで俺も皆の癒しキャラ確定っすね。」

「……なんや、それ。」


 吉良先輩に目を向ければ、なぜか少し複雑そうな顔をしていた。

 俺は雰囲気を悪くしたくなかったので、慌てて話題を変えた。


「ほ、ほら、吉良先輩! 俺に何か用事があったんじゃないですか?」

「……ああ、そう言えばそうやったな。委員長が呼んどるんやった。」

「……あの、俺帰っていいですか?」

「ダメに決まっとるやろ。」

「すいません、俺、突然腹痛がッ!! これは今すぐトイレに駆け込まなければ不味いです!!」

「さっ、行くでー。」


 俺の言葉を一切無視して、先輩は俺の腕を掴んで歩いていく。


 俺、このまま風紀委員長と殴り合いなんですか……。土下座で何とかならないかな……。





 そのまま吉良先輩に引きずられ、着いたのは『風紀室』と書かれた立派な木の扉の前だった。ああ、やっぱり金持ち学校は違うなぁと、しみじみ現実逃避をしつつ、先輩に続いて中に入る。こうなったら男は度胸だ。何があっても、俺は動じない!!


 と思ったら、眉間に皺を寄せた物凄い形相の風紀委員長が、仁王立ちで立っていた。



「………あっ、失礼しました。」


 俺は静かに扉を閉めた。


 …………えっ、ムリじゃん? 


 例えて言うなら、ひのきの棒を持ってお供もつけず鬼退治に来た桃太郎だ。こんな紙装備じゃ鬼に対抗できねえよ。瞬殺だよ。人を殺せるほどの視線って、俺生まれて初めて感じたわ。その証拠に俺のチキンが今だに反応してるよ。俺はまだ死にたくありません。

 そうして腕をさすっていたら、ドアが開いてそのまま中に引きずり込まれる。


 イヤァァァア、まだ心の準備がぁぁあ!!!


「ほらほら、逃げたらアカンでー。」


 輝くばかりの笑顔で、吉良先輩はそう言った。アンタ、絶対この状況楽しんでるだろ。


「大丈夫、大丈夫! お前ならいけるで!!」


 おい、なんだよ、そのスポ根魂。俺ならいけるって何がだよ。


 俺は改めて風紀委員長に目を向ける。相変わらず厳しい顔つきで、俺を睨んでいる。そして部屋の中央にある机をはさんで対面する俺と風紀委員長。お互い無言だ。……きまずッ!!!


 とりあえず、日本人お得意の常套句を、愛想笑いと共に言ってみる。


「えー、本日はお日柄も良く……。」

「………………。」


 すいません、俺もう泣きそうなんですけど。今すぐ西野のフワフワな笑顔に癒されたい。

 と思ったら、今まで無言だった風紀委員長が口を開いた。


「………お前、今、悠のこと考えただろ。やっぱり悠が好きなのか?」


 こっわッ!! 俺今何も言ってないよな!? どれだけ感が鋭いんだよ!?


 俺が恐怖で身震いしていると、ますます風紀委員長の殺気が強まってきたので、慌てて否定する。


「待ってください、違います!!! 俺は西野のこと、全然、これっぽちも、そういう意味で好きじゃありません!!」

「だがお前が悠をめぐって、俺と果し合いをすると全校生徒の前で宣言したと聞いた。そのために親衛隊を味方につけたらしい、と。」

「俺の知らぬ間に、話が余計にねじれているだと!? 誰だよ、そんなガセネタを流したのは!!」

「確か速水が言っていた気がしたが……。」

「アイツかよ!?」


 おのれ、速水。俺が委員長とこうなると予想して、先に手を打ったな。あとで覚えてろよぉおお!!

 俺は拳を握りしめて、風紀委員長を見据える。そしてすうっと息を吸い込み、


「前にも言いましたが、俺はノンケです!! この学園の風習に染まる気は、欠片も、微塵も、ありませんから!!」


 大声でそう言い放った。


 言った、俺は言ってやったぞ!


 いつ何時も、自己主張は大切だと思う。委員長は、少し驚いた表情をしていた。

 俺はいくらか落ち着いて、もう一度繰り返す。


「だから俺は西野を、というか男自体、そういう対象で見ることは出来ません。」

「……そうか。変に疑って悪かったな。」

「いえ、分かってくださればいいですよ。」


 俺がそう言うと、委員長は安心したようにフッと笑った。切れ長の目が細められ、口の端を上げる先輩は、何というか凄く色気があった。俺は思わず目をそらしてしまった。本当に高校生かよ。


「いや、もしかしたらこれから性癖が変わることも……。」

「何でそこ気にするんですか!? 俺ノンケだって宣言しましたよね!?」


 委員長は眉間に皺をよせ、落ち込んでいるようだった。

 訂正。外見がどうあろうと、中身は恋に思い悩む思春期の男子高校生だったわ。そう思うと、委員長に対して怖くなくなった。

 俺は委員長に右手を差し出す。


「改めまして、俺は1-Sクラスのマリモです! これからよろしくお願いします!」

「ああ、俺は2-Sクラスの八神 凌士だ。よろしくな。」


 そう言って、八神先輩は俺の手を握り返してくれた。そのことに嬉しくなって、自然と口がほころぶ。先輩のこと、最初は鬼だと思っていたけど、実はいい人なんだな。


「いやー、お二人さん、仲直りして良かったわ。それはそうと、マリモ。今日の晩御飯、西野君のために何を作るつもりなんや?」


 今まで静かに見守っていた吉良先輩の質問に、俺は特に気にせず返事をする。


「あ、炒飯にしようかと……。」


 ゴキィッ!!


 俺の右手から、鳴ってはいけない音がした。


「いてぇぇええええ!!!!」

「俺は、悠に一度も手作り料理なんて食べてもらったことなどないのに……!」


 知るかよっ!!! そんな理由で、俺の右手を犠牲にするんじゃねぇッ!!


 八神先輩はかなりショックだったのか、ブツブツ呟いている。正直、ホラーだ。

 俺は痛む手を抑えて、その場に蹲る。傍からすると『封印されし我が右手が…!』的中二病全開の展開に見えるが、実態は全く違う。

 俺は元凶の男を睨みつけるが、ずっとニヤニヤ笑っていた。やっぱり、吉良先輩がサディストに違いない。文句を言おうと口を開いても、あまりの痛みにうめき声しか上げられない。悲惨すぎる。


「昨日風紀から逃げた上、木にも登ったんや。こんなんで済ませるんやから、罰としては軽いでー。」


 その発言に、俺は背筋が凍った。え、これで軽い方なんですか。


「まぁ、この学園は生徒の主体性を重んじているからな。この学校では頻繁に生徒の暴行事件が起こるから、風紀の力が強い。だから多少のことは大目に見てくれる。」


 さっきまで落ち込んでいた八神先輩が復活して、俺に説明する。

 そして俺はまたしてもこの学園の暗黒面を見てしまった。暴行事件って……。


「………でも、何でそんなことが学園で起こって」


 少なくとも前にいた学校では、俺が起こした事件以外は平和だった。

 普通、学校でそんな事件が頻繫に起こるはずがない。

 俺が思わず呟くと、八神先輩と吉良先輩は複雑そうな顔をした。


「俺ら風紀も、可能な限り手を尽くしているんだがな……。」

「相手は権力を持った金持ちのボンボンやからね……。もみ消すのもお得意なんや。俺らはそんな奴らとイタチごっこを続けとる。」


 吉良先輩は悔し気な顔をして、そう言った。


「じゃあ、被害に遭った生徒は……。」

「良ければ退学、最悪の場合、行方不明なんてこともある。」

「そんな……!」


 俺はその言葉に絶句する。なんて危険な場所なんだ、この学園は。


「にしても、分かっとるのか。お前。」


 吉良先輩が俺の顔を覗き込む。え、何がですか。


「あー、その顔じゃ何も分かっとらんな。」

「え、どういうことですか。」

「つまり、お前が今一番全校生徒の標的になっとるっちゅーことや。」


 ……………な、なんだと!!!??


「まぁ短くて2週間、長くて一か月といったところやろ。」

「短かすぎるでしょッ!?」


 思わず吉良先輩の発言に突っ込む。

 流石に2週間はない……と思う。


「お前、この間食堂で一条を膝蹴りしただろ。」


 あ、そう言えばそんなこともありましたね。

 八神先輩の発言に、コクリと頷く。


「その一件で、お前への反感が高まった。風紀としてはもう少し様子を見るつもりだったが、親衛隊の動きが予想以上に早く、見過ごせない状況になった。」

「というわけで、安全のために俺ら風紀がつくことになるで。」


 風紀の監視……。迷惑をかけてしまった。変わってみせるって決めたのに、また問題起こしてばかりだ。

 会長を膝蹴りしたのは後悔してないが、誰かに迷惑がかかるのは嫌だった。


「あの、……迷惑かけてすいません。」


 俺は、頭を下げた。自分が今出来るのは、謝ることしかない。

 何を言われるのか、俺が身を固くしていると、頭にポンッと手がのせられた。


「別に気にしなくていい。それが俺たち風紀の仕事だからな。」


 八神先輩の言葉に、思わず涙が出そうになる。


「そうそう。むしろ一条会長を膝蹴りしたのは、よくやったと思うで。」

「吉良先輩……!」


 なんて良い先輩達なんだろう。俺は感激して、言葉が出なかった。


「あっ、ちなみに西野君のためにお弁当も作ったんやってな。」


 ミシィッ!!!!


 俺の頭から、鳴ってはいけない音がした。


 あまりの痛みに、言葉が出なかった。

 この先輩達には、あまり近づかないようにしよう。俺は心にそう固く誓った。

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