暮れなずむ


 苺は紅くなり、梅雨に入った。洗濯物が乾かず、雪柳と目白はお互い時間が合えば近所のコインランドリーへと通った。

 ふんわり香る柔軟剤に囲まれ、外の雨を見遣る。二人は乾燥が終わるまで、ひとつのスマホでオセロをやった。勝敗は五分で、負けた方が帰りにコンビニでアイスを奢る。


「早く夏になって欲しいな」

「そうか?」

「同じジメジメなら、晴れてた方が良くない?」

「まあ、確かに」


 相も変わらず、二人のライフスタイルは噛み合うことはなく、休日の何も予定が無い日にしか一緒に食事を取ることは無かった。


「海に行きたくならねえのか?」

「海? 暑いのに?」

「寒い海は許されてる理由とは」

「夏の海って、ギラギラしてるじゃん」


 海の光の反射が。

 そういう意味で言ったのだが。


「ああ、お前すげー声掛けられそうだもんな」

「……まあ、それもある?」


 二人の主食は専ら素麺になった。目白の親がお中元で貰ったお裾分けだと、大量に送ってきたのだ。雪柳は食費は浮くと嬉しがり、目白はまあいいかと諦めた。

 素麺を啜る目白をじっと見つめる。きらきらの正体が掴めないまま、時間が過ぎている。








 江長は目の前に対峙する男を見る。雪柳と待ち合わせている講義室へ行こうとしている途中だった。

 廊下の向こうから歩いてくる樋野の姿に気付いてはいたが、見えなかったふりをしようとした。しかし、樋野が江長の前で立ち止まったのだ。


「……通れないんですけど」


 何かを言おうと悩んでいるのか、微動だにしない樋野に言い放つ。その言葉にぴくりと反応した。


「伴奏を」

「え?」

「ピアノ伴奏を、頼みたい」

「合唱部なら伴奏者いるでしょ」

「インフルで休んでる」

「知るか!」

「お前にしか頼めない!」

「あたししか受けてくれなさそう、の間違いでしょ?」

「ああそうだよ」

「開き直るな歌バカが」


 廊下の真ん中で始まった口喧嘩に、行き交う学生たちがちらちらと視線を送る。それにも気づかず、江長はひくひくと頬を痙攣させた。


「大体あんた何でここにいるわけ?」

「それはこっちのセリフなんですけど」

「知ってるなら来なかった。話もしたくないんだけど」


 その言葉に樋野が目を瞬かせる。江長は続けようと口を開いた。


「兎に角、伴奏は」

「江長ちゃん」


 後ろから声をかけられ、振り向く。雪柳が居た。そして漸く周りの視線を集めていることに気づく。


「遅いから来てみたら、江長ちゃんが言い合いしてるって聞いて」

「あ、ごめん。こんな奴いいの、行こ」

「え、いいの」


 樋野を見る。ゆらりと動き、樋野は膝を折った。雪柳の腕を持った江長はそれに気付かず、歩き出そうとする。

 手が廊下の床についた。雪柳が動かないので、江長が振り向いて樋野を見た。


「この通り……」


 土下座する樋野に、雪柳と江長はぽかんと口を開く。


「何やってんの、お前ら」


 ざわめく周りと全てを回収したのは目白だった。





 四人で学生ラウンジのテーブルの席に着く。

 つーん、と江長はそっぽを向き、樋野はテーブルに顔を突っ伏している。大変そうだなと他人事のように思う雪柳と、呆れた顔をする目白。


「まさか四人集まるのがこんな場所とは」

「場所は悪くなくない? ラウンジの無料コーヒー好き」

「それは分かるけど」

「あたし、もう行って良い?」

「待て待て。土下座案件はどう決着ついたんだよ」


 立ち上がろうとする江長を呼び止める。


「これから一生喋らない、で話はまとまったから」


 先行くね、と雪柳に言って江長は行ってしまった。残された三人の内、二人で顔を見合わせる。一人は未だに起き上がらない。


「そうなのか?」

「私も途中からしか見てない」

「伴奏の話はしたんか」


 動かない樋野へと尋ねる。手だけがふらりと挙がり、肯定を示した。


「馬鹿だ……」

「江長にも歌バカって言われた」

「それはあれだろ、褒め言葉だろ」

「あ、そうか、あれ褒め言葉」

「お前は本当に幸せな馬鹿だな」


 雪柳は無料コーヒーを啜りながら、幼馴染二人の会話を静かに聞いていた。幸せな馬鹿である樋野が起き上がり、江長が飲まなかったコーヒーを掴む。

 三限目が始まるチャイムが鳴った。

 雪柳は鞄からタッパー弁当を取り出す。節約の為に、昨日の夕飯を詰めてきている。


「俺が悪いって」


 握った白飯をもぐもぐと食べながら樋野の主張を聞く。


「振った俺が悪い?」


 樋野の視線は雪柳へと向いていた。

 ぱちくり、と大きい瞳が瞬く。他人から告白をされている側の雪柳に理解を求めた。

 江長の言葉を聞きながら、雪柳も他人事では無いなと見ていたところもある。樋野と江長、どちらの側でも、いや殆どは樋野の側で。

 ぱ、とその間に掌が入った。


「雪柳に同意を求めるな」


 目白が目を三角にしている。


「いやだってこの人、その道のプロでしょ」

「どの道だよ」

「告白されて、被害者面される側のプロ」


 心当たりがありすぎて、雪柳は米を噴きそうになった。目白は静かに樋野の頭に手刀を落とす。コーヒーの水面が揺れた。


「いってえ。勝手に告白してきて、振られたら話もしたくないって、それは無くね?」

「いやあるだろ。お前のは無神経なんだよ」

「普通に伴奏頼んでるだけだろ」

「普通の人間は頼まねえよ」

「え、どう?」


 再び雪柳へ。

 米を咀嚼して飲み込み、少し首を傾げた。


「頼まない」

「ほらよ」

「煩えこのバカ親子が」

「あ? うちの子は馬鹿じゃありません」

「てめーだよこの親バカ」

「でも、ちょっと樋野の気持ちはちょっと分かる」

「ほらみろ、子供の方が大人だ」

「江長ちゃんのことを、言うわけじゃないけど」


 ぽつりぽつりと言葉を紬ぐ。目白はひとつも落とさず、漏らさず、零さず、聞き取る。


「好意を受け取って貰えなかったからっていって、嫌悪を向けて良いわけじゃないし。そんなの、向けられて嬉しく思えないし。今回は樋野の無神経さがあると思うけど」

「……つまり今回のは樋野が悪いと」

「そうなるね」

「ちゃんと謝れ。土下座とかじゃなくて、会話して」

「それが適わなかったからこうなってんだろ!?」

「頃合い見て、私も江長ちゃんに話してみる。でも、伴奏は期待しないでね」


 雪柳から現実的な言葉が出た。ひらりと樋野は手を振る。もう何も言葉が出なかった。


「よ!」


 江長の座っていた椅子に、海堂が座る。その音に雪柳と目白が驚き、樋野だけは動じず視線を向けた。


「え、なに、お通夜? あ、雪柳ちゃん!」

「煩い」

「樋野こっわ。雪柳ちゃん、この後時間ある? 駅近くにパンケーキ屋出来たんだけどさ、行かない?」


 樋野の相手をしつつ雪柳へのアプローチをする器用な様子に、目白は感心すらしてしまう。


「行かない」

「えーなんで、ふわふわらしいよ」

「今日バイトだから」

「どこでバイトしてんの? 何時から?」


 面倒くさいな、と雪柳は詰まる。そっけない態度を示しているのだから引いてくれると有り難いと思っていたが、海堂はぐいぐいと間を詰めてくる。

 樋野が目白へと視線を向けた。


「豊、子供が困ってるよ」

「ちょっと、うちの子に絡まないでもらえます?」

「え、雪柳ちゃんって目白の娘なん?」


 そういえばよくママと呼んでいたな、と海堂の中でひとつ思考回路が繋がる。純粋な質問に、目白と雪柳は呆れた顔を心の内に隠す。

 樋野はコーヒーを飲み干し、空になった紙コップを四つ重ねた。


「そんなもんでしょ、一緒に住んでるし」

「え、は!?」


 何でもないことのように樋野が言い、海堂が大きく驚いた。周りの学生たちの視線を集める。雪柳はそろそろ逃げたいと思った。


「あ、親戚……? 遠い親戚とか?」

「俺の顔を見るな。親戚じゃない」


 どこの血が繋がっているのかと目白を観察するが、否定される。


「え、付き合ってないって言ってたけど」

「金銭面と安全性のうえで同居してる」

「……騙されてない?」


 タッパーをしまった雪柳へと視線を向ける。指先は目白を示し、目が合った。

 きらきらと何かが煌めく。


「騙してる方かも?」

「え、何を」

「本当はこの前買ってきたの、きゅうりじゃなくてトマトの苗なんだよね」

「ま、じかよ……」


 目白の唯一の苦手な食べ物はトマトである。世界に野菜がトマトしか無くなっても、食べることは出来ない。

 この前苺の鉢の横に増えたプランターへと水を一緒に遣ったが、まさか自分の苦手なものへやっていたとは。そして、雪柳も目白トマトを苦手だと知ったうえで嘘を吐いていた。


「え、なんの話?」

「とりあえず惚気じゃね」


 興味は疾に失せていた樋野はどうでも良さそうに、海堂へ返事をした。海堂は泣く真似をした。


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