海辺で微笑み


 目が覚める。春の朝は魔物が棲んでいるのでは、というくらいに毛布から出られない。どろどろと目が開いたかと思えば閉じていく。その繰り返しで。

 無意識に手を伸ばした先でぶつかるスマホが震えていたのに気付き、掴む。ディスプレイに表示された名前を見て、手放す。

 昨日、高校を卒業した。その帰りに食べ放題へ行って、店を巡って、ゲーセンに行って。楽しかった思い出と共に、雪のように舞う桜の記憶が脳裏を過る。


 どうすれば良かったのだろう。

 いつも終わってから正解を探す。


 雪柳は枕に顔を埋めた。バイブ音が止まない。渋々それを取った。


「もしもし」

『もしもし、寝てたのか?』


 電話の向こうの目白は呆れた声を出した。


「春休みだし」

『海、行くんじゃねえの』

「……海?」


 何の話だ、と雪柳は起き上がる。カレンダーが目に入り、海の日でもないよな、とぼんやり思った。


『海行きたいって言ってたろ』

「あー!」


 昨日の会話を思い出す。


『自分で言って忘れてたんか』

「いや、だって本当に……」

『行かねえの?』

「今から?」

『棒に振るには勿体ない天気だぞ』


 その言葉に、雪柳はカーテンを開けた。入ってくる光に目を細める。薄い青い空が見え、近くに咲く桜の樹が見えた。


「うん、行く」


 高校の最寄り駅で待ち合わせることにした。

 二階から下りた雪柳を見て、母親である雪柳華名は目をぱちくりとさせる。


「バイト?」

「ううん、遊びに行ってくる」

「そう、気をつけて。夕飯は?」

「んーあとで連絡する」


 華名はマグカップに残ったコーヒーを飲み干し、雪柳の動向を見守った。冷蔵庫からトマトジュースを出して一杯飲み、コップを洗って水切りかごへ入れる。

 リビングを出て洗面所へ歯を磨きに行った。


「ふーちゃん、内見いつ行くの?」

「来週行きます」

「お家決まったら教えてね」

「はーい、行ってきまーす」


 服を着替え、軽く化粧をして鞄に必要なものを詰めて出ていく。先程眠っていたというのに早業だ。


「行ってらっしゃーい」


 母の声は玄関まで聞こえた。



 駅に着くと改札内の柱の元に目白はいた。雪柳は小走りでそこへ辿り着く。


「そんな走らんでも。海は逃げないわよ」

「目白ママ、一人?」

「え、何人に見えんの」

「樋野とか、いると思った」

「呼ぶか?」

「呼んだらくる?」

「来ねえな」


 あの省エネ型がわざわざ海に出かけようと行って来るわけがない。目白も樋野も同じ意見だった。

 下りの電車が到着し、二人は歩き出す。電車の中は平日の昼下がりということもあり、静かで人も少なかった。

 ちょうど端の座席が空き、そこに座る。


「目白はボーリング組?」

「ああ、最終的にカラオケで解散。雪柳は?」

「私は食べ放題行った。最後はゲーセンだった」


 暖かい空気の中、昨日の放課後について話し合う。車窓に桜が見えて、それを思い出す。


「そういえば告白どうなったの?」


 雪柳の問いに目白が驚いた顔を向けた。


「なんでそれ知ってんだよ」

「見えたから。非常階段から。江長ちゃんと」

「江長もかよ」


 溜息を吐き、目白は立ち上がる。降りる駅に着いた。


「断った」

「……それって私がいたから?」

「違う。恋愛として好きじゃなかったし、あれ生徒会の二年会計なんだよ」

「どこかで見たことあると思った」

「他の生徒会の後輩がその会計を好きだっていうの聞いてたから……なんつーか、複雑」


 例えるなら、雪柳に江長の想い人だった樋野が告白してくるような。

 確かにそれは、必ず断るが、どう対応しても誰かを傷つける結果になるのだろう。


「その子、嫌な気持ちになってないかな」

「なってんだろ、振られてんだから」

「ううん、それ以前に。私がいるって。好きな人に好きな人がいるって、なんか二重に辛くない?」


 翳る表情に、目白は腕を組む。じっと雪柳を見た。


「どうしたの?」

「お前も恋愛したことあるんだなと思って」

「ま、人間ですから。海だ!」


 駅を出ると海が見える。雪柳のテンションは分かりやすく上がった。

 一本道で海までは行ける。


「人全然いない!」

「風強いし、寒いし」

「泳ぐ!?」

「入りたくもねえ」


 しかし地元の穴場なだけあり、水質は良く透き通っている。目白は当たりを見回すが、犬を散歩するか運動目的で来る人以外見当たらない。

 海で喜ぶのは犬と雪柳くらい、ということになる。


「これ持ってて!」


 いつの間に靴と靴下を脱いだのか。雪柳はそれらと鞄を目白に押し付けて、駆け出した。

 裸足のまま波を追いかけては逃げる。


「冷たい!」


 遠くの浜辺で一人キャッキャと遊ぶ雪柳を見て、目白は乾いた地面へと腰を下ろす。隣にちょんと靴を置いて。

 自分は荷物見張り番か、と呆れた。

 雪柳は脹脛ほどまであるワンピースの裾を片手で上げて、パシャパシャと足を海に浸けた。風にひらひらとそれが揺れる。

 そんなに楽しいのか、と膝に頬杖をついた目白。

 一方、雪柳は冷たい水の感覚を一頻り楽しみ、地平線へと視線を向けた。

 真っ直ぐで、その向こうには何も見えない。何もない、ということの美しさ。ぼんやりとそれを見ていると、至近距離で水が跳ねる音がした。


「お、冷て」


 目白が居た。

 先程までは乾いた砂の上にしゃがんでいたのに。二人の靴は並んでその場所に置かれていた。雪柳の鞄は目白が斜めにかけている。

 まさか来るとは思わず、雪柳はぽかんと見上げた。


「なんだよ」

「入らないって言ってたから」

「お前が楽しそうだから、どんなもんかと」


 しかしやはり冷たい水だ。足の裏の砂の感じは日常では味わえない。

 足を動かすと水音が鳴る。


「どんなだった?」

「寒い。後悔」

「えい」

「やめろ馬鹿」


 雪柳が裾から手を離し、水を掬って目白へかける。心底嫌そうにしたが、雪柳が手放したワンピースの裾を掴み、少し持ち上げた。


「ほら、濡れてるぞ」

「まあいいよ、ちょっとくらい」


 その手からすり抜け、雪柳は裾を濡らして歩いて行く。

 ああーと、子供が服を泥だらけにして嘆く母親の気持ちが少し分かってしまった。少し離れた場所で立ち止まる雪柳の背を見つめる。




「変な感じ」


 水道水で足を洗いながら雪柳は言った。

 裾は濡れて色を変えている。


「足か?」

「じゃなくて、こうやって目白と海来てるの」

「確かに」


 タオルを渡す。自分の砂塗れの足を見た。

 目白はあまり挑戦心がない。楽しいことは好きだが、新しいことにあまり興味がない。保守的なのだろう、とは思う。樋野の自由度具合に付き合っていれば、そんなことも言っていられないのだが。

 つまり、いつもなら海に行っても遠目に見る側だった。

 靴を履き揃え、アスファルトの道を戻る。

 日が暮れそうだ。海に落ちていく太陽に目を細めた。


「綺麗だな」

「春は曙、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめてって言うけどさ」

「枕草子?」

「そうそう。春が一番夕焼けが綺麗だと思う」


 雪柳も同じものを見ている。そして同じ感想を持った。

 クラスが同じというくらいで、殆ど接点も無かったのに、と目白は苦笑する。


「今日、楽しかったか?」


 その問いに雪柳が顔を上げた。


「目白ってよくそうやって聞くよね」

「そうか?」

「うん、前も訊かれた。高校三年間、楽しかったかって」

「あーそうだな、訊いた。楽しんでる奴が、好きなんだろうな」


 先程、雪柳が海辺で遊んでいるのがそう見えたように。

 好きだと。

 好きだと……思ったのか?


「だから目白は人に慕われるんだろうね」


 ふふ、と笑いながら雪柳は少し前を歩く。

 ふと公園から子供たちの笑い声が聞こえてそちらを見た。楽しそうに玩具のピストルを持って遊んでいる。一人の男児が「ばーん!」と相手を撃つ真似をした。相手の男児は「ウッ」と言いながら倒れる演技をする。大人顔負けだ。

 くるり、と振り向くと目白は何か難しそうな顔で地面を見ていた。


「ね、目白」


 呼べば、目白は雪柳へ顔を向ける。


「ばーん」


 親指を立て、人差し指を向けて、子供たちの真似事をする。


 目白はぽかんとそれを見ていた。

 どうしたのか、と雪柳は笑ったまま首を傾げる。


「倒れる演技……え、なんか顔紅くない?」

「……んでもねえよ、前向いて歩け。転ぶぞ」


 眉間に手の甲を当てて言った目白の顔を覗く。


「熱中症?」

「違う」

「大丈夫?」


 パタパタとハンカチで扇いでくる。それは助かる、そして有り難い、が。


「大丈夫なわけあるか……」


 呟いた声は雪柳には聞こえなかった。

 射抜かれた心臓が痛い。


 人は、いきなり恋に落ちるらしい。




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