赤く染まったヒーロー

宇目埜めう

1

 目を覚ますと、お兄ちゃんは血まみれだった。


 本当なら綺麗な銀色の髪の毛。なのに今は、赤黒く染まっている。滴り落ちた血が、床に赤いシミを作る。

 お兄ちゃんは、私が「どうしたの!?」と声をかける前に「大丈夫だよ」と優しく微笑む。

 いつもと変わらないお兄ちゃんの声と笑顔で、すぐに冷静になれた。

 あれほどの血がお兄ちゃんのものなら、笑うことはおろか、立っていることすらできないはずだ。つまり、お兄ちゃんを赤黒く染めているのは、誰かの返り血だった。


 こういうこと──、お兄ちゃんが血まみれで帰ってくることは、今までにも何度かあった。怪我をしてくることもあったけれど、ほとんどが誰かの血を浴びたことによるものだった。

 お兄ちゃんが外でしていることは、聞いても教えてくれないから分からないけれど、危ないことということだけは分かる。

 私たちの生活のため。私がいなければ、もっと安全な仕事でいいのかもしれない。そういう意味では、私を生かすためにお兄ちゃんは危ない目にあっている。


 お兄ちゃんは、私のヒーローだ。


 本当は危ないことなんてやめて欲しいけれど、そうすると私たちは生きていくことができなくなる。私はもちろん、お兄ちゃんだってまだ子供で、普通に働くことなんてできないから──。ううん。大人だって普通に働いてご飯を食べることはもうできないのかもしれない。そういう世の中に、私が生まれた頃からなっている。地獄みたいな世界で、みんな少しでもマシな地獄を探して生きている。

 だから、お兄ちゃんはきっと私が頼んでもやめてはくれないし、私も本当にやめてほしいと頼んだりはしない。


 そういえば──。初めて血まみれのお兄ちゃんを見たのは、いつのことだっただろう。

 たぶん、お父さんが死んだ日だ。

 お父さんが死んだ日のことはあまり覚えていない。はっきりと覚えているのは、血まみれで立つお兄ちゃんの姿だ。あのときは、お兄ちゃんも見ていられないほど怪我をしていて、そして、泣いていた。泣きながら笑っていた。


 お父さんは最低の人だった。ご飯だけはほんの少しだけだけど、食べさせてくれた。だけど、それだけ。今の生活よりも、ずっと地獄みたいな暮らしだった。

 お父さんは、気に入らないことがあるとすぐに暴力を振るう。私もお兄ちゃんもアザがない日がないくらいだった。


 お父さんは、まだ小さかった私にも容赦なく暴力を振るった。その度にお兄ちゃんが庇ってくれたけれど、小さなお兄ちゃんと大人のお父さんじゃ力の差は歴然としていた。

 それでも、お兄ちゃんはお父さんが飽きてどこかに行くまで、お父さんから私を守ってくれていた。


 あの日──、お父さんが死んだ日は、お兄ちゃんがいなかった。理由は覚えていないけれど、どこかに出かけていたんだと思う。

 あのとき、お父さんは、本当に些細なことで私に手をあげた。ふいに大きな平手が私の頬を捉えた。お気に入りのワンピースを着ていたっけ。お母さんからもらったワンピース。それが汚れるのが嫌だった。

 ──なんてことを考えていると、透かさずお父さんの足の飛んできた。

 そして、あの人は──、倒れた私に覆いかぶさって──、ワンピースの裾から手を差し入れて──、そして──。


 そんなとき、お兄ちゃんが帰ってきた。

 お兄ちゃんは、すぐにお父さんを突き飛ばした。お父さんは、見たことがないくらいに怒り狂って、執拗にお兄ちゃんに暴行を加えた。いつもなら飽きてやめてしまうのに、あの日は違った。

 ずっと、ずっと、ずっと──。うずくまるお兄ちゃんを蹴り飛ばし、踏みつけて──。私が蹴られているわけじゃないのに、だんだん頭が痛くなってきて──。割れそうで──。

 そこから先は覚えていない。気がつくと、血まみれのお兄ちゃんが優しく微笑んでいた。泣きながら微笑んでいた。

 お兄ちゃんが私を助けてくれた。お兄ちゃんが差し伸べてくれた手につられて私も手を伸ばすと、潰れたトマトみたいな赤い塊が落ちた。


 私の──手から──?


「どうした?」


 私がボーっとしているからか、お兄ちゃんは心配そうな顔を向けている。お兄ちゃんが動くと、決して綺麗とは言えない私のベッドに潰れたトマトみたいな塊が落ちた。


 お父さんの塊──。

 私の手からこぼれ落ちる、生暖かく赤い塊。潰れたトマトみたいな塊。ワンピースが汚れちゃう。


 これはなに? 心臓──?

 私が──お父さんの胸から引きずり出した──?

 私の──手が──?


「お兄ちゃん。お父さんを殺したのは、私なの?」


 思わず尋ねていた。お兄ちゃんは、いつもと変わらない笑みでうなずいた。


「お前のおかげで、あの地獄みたいな日々から抜け出せた。お前は俺のヒーロー。俺だけのヒーローだよ」


 そう言ってお兄ちゃんは私を抱きしめる。


 あぁ……。そういうことか。ようやく思い出した。思い出すことができた。ワンピースの心配なんかいらなかった。真っ白なワンピースは、その時にはもう真っ赤だったから。

 私の中には何か得体の知れないものが、蠢いている。最初からそうだった。

 今度は私が、お兄ちゃんのために危ないことをしなくちゃいけない。この地獄みたいな世界で、お兄ちゃんと二人生きていくために。

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赤く染まったヒーロー 宇目埜めう @male_fat

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