私は、助けてくれたあの人の名前も、何も知らない。

マクスウェルの仔猫

第1話 私は、助けてくれたあの人の名前も、何も知らない

 数年前の夏。


 学校からの帰り道のいつもの駅。


 絵里は、喉の渇きに耐えかねて駅のホームの水道で水を飲んだ。

 いつも持ち歩いているマグボトルはすでに空っぽで、電車に乗っている間ずっと喉の渇きを我慢していたのだ。


 よく公園や駅に設置してある上向きの蛇口を捻った時に思ったより勢いがあり、絵里は慌てて水量を調節した。


 やっと一息つき、口元と制服に付いた水滴をタオルで拭いたその時。

 水道から離れた場所にいた、作業服を着た男が寄ってきて絵里を怒鳴りつけた。

 絵里は驚いて、小さな悲鳴を上げた。


 呂律が回っていない赤ら顔をしたその男は、


 水が飛び散って床が濡れるじゃねえか!

 他人の迷惑を考えろってんだ!

 まったく、最近のガキはどいつもこいつも。


 などと繰り返し言っている。


 絵里は、最初に水を出した時に床を濡らしたのかも…と思い「ごめんなさい!」と謝り、手に持ったタオルで水道の周りの床を拭いた。


 だが、絵里が床を拭いて立ち上がった後も男はぶつぶつと文句を言っていた。


 てめえ、馬鹿にしてんのか。

 ガキだって容赦しねえぞ。

 いいか、俺はな。


(どうしよう、どうしよう!怖い…!)


 絵里は縋るように、周りをキョロキョロと見た。


 駅員さんやお巡りさんはいないだろうか。

 誰か助けてくれないだろうか、と。


 しかし周りの人間達は、様々な表情で遠巻きに見ているだけであった。

 もちろん気遣わしげに見ている人も中にはいたが、酔っぱらいの剣幕に、様子を見ている。


 絵里は、それは当然だろう、と思ってしまった。


 こんなに怒っている酔っ払いを見て、怖いと思わない人なんて、と。


 絵里は必死で考えた。


 もっとちゃんと謝れば、許してもらえるだろうか。

 もう一度床を拭いてからの方がいいのか。

 それとも、逃げた方が。


 色々と考えはしても、ずっと怒鳴られている事が怖くて、謝る事も逃げる事もできずに立ち竦んでいた。


 すると、電話をかける人から、早く来てやれよ、女の子が絡まれてんだ!という言葉や、ここは○○駅の●●線ホームです、という声が絵理にも聞こえた。

 

 駅員探せ!という声や、駆け出す足音もあり、周りの状況に気が付いた絵理は作業服の男より周りに必死に耳を澄ませてしまった。

 

 すると。


「うぉい!聞いてんのかよお前!」


 作業服の男がフラフラと絵理の方に寄ってきたのだ。


(あっ!やだ…!)


 思わず絵里が目を瞑ったその時。

 絵理のすぐ目の前から声が聞こえてきた。


「こんにちは〜。どうしたんです?」


 絵里が恐る恐る目を明けると、紺色のスーツ姿の男性の背中が見えた。


「何かあったんですか?」


 話し方は優しげだが、ガッシリとした身体、堂々としたスーツの男性の語り口に、作業服の男の勢いが弱まった。


「おう…実はな、そこのガキが水をな、撒き散らしやがったんだよ。危ねえったらありゃしねえ」


 スーツの男性が水道辺りを眺め、


「あ、そうだったんですね。それは一理あるかな」

「だっろぉ?」


 と言ったのを聞いて、助けて貰えるのかと思ってしまっていた絵理の心臓がドクン!と跳ねた。


 話をしている間に走って逃げようか、でも追いつかれたら…と逡巡している時に、絵里はある事に気が付いた。


 ひらひら、ひらひら。


 手を後ろに組んだスーツの男性の片手が、動いていた。

 その意味が分からずに絵里が動けずにいると、その手の動きが早くなった。


 よく見ると、スーツの男性は男から絵理を隠そうとしてくれている。

 

 そしてその次に見た、スーツの男性の手の動き。

 絵里はそれを見て、逃げようと決心した。


 心の中で、ごめんなさいありがとうと繰り返しながら頭を下げた後、絵里はスーツの男性へ背中を向けて走ったのだった。



 自宅に着いてへたり込んだ絵里を見て、絵理の母親は大層驚いた。

 だが、絵理の話を聞いた後に、駅に電話をしてくれ、喧嘩で怪我をした男性がいなかったかどうか確認してくれた。


 今日、あの駅で怪我をした男の人はいないそうよ、との言葉に絵里はホッとする。そしてお礼も言えずに逃げてしまった事に母親は、今度もし逢えたらお礼を言えるといいわね、と絵理の背中をポンと叩いたのだった。



 それから暫くの間。


 絵里はその駅で降りる度に、作業服の男がいないかビクビクしながら助けに入ってくれた男性を探した。


 スーツを見ては、あの人かも、いや違うかも、と。


 だが、簡単には見つけられるはずが無かった。

 そもそも絵里はスーツの男性の顔も見ていないのだ。


 絵里は、手紙と何度も作り直したお菓子をカバンに忍ばせたまま学校を卒業した。


 ●


 絵里は卒業から数年経った今でも、その駅で降りる度にスーツ姿の男性を目で追う。


 顔も、名前も、年も、何もかもわからない人。


 これが恋なのか、それとも出逢えたら恋が始まるのか。

 絵里がいくら考えても、答えは出て来なかった。


 ただ、あの時最後に見たスーツの男性の手の動きを思い出す度、絵里は胸がキュッとなる。


 追い払う仕草の後の、オッケーのサイン。

 まるで、「任せて」と言うような。

 それだけは昨日の事のように、鮮明に思い出せるのだ。


 そうして、絵里は今でも鞄の中にお礼の手紙を忍ばせている。


 あの男性があの出来事や自分の事を全く覚えていない可能性は高い、とも絵里は当然思ってはいるのだが…。


 でももし、もし万が一、もう一度出逢えたら……お菓子を渡すのではなく、お礼に食事に誘うんだ、と絵里は心に決めている。


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