ユグドー、思い出のソコ編

 ヴォラントの冒険譚に曰く。


 リュンヌ教国は、経典を作った。


 経典の中身は、神話を編纂した神の言葉編と人間の信仰生活の指南書である神の行動編。


 そして、愛を説いた神の心編。


 この三部構成でできている。面白いのは、愛を説いた神の心編である。


 静かな月の愛と騒がしい太陽の愛について書かれているのだ。


 静かな月の愛は、友や家族に抱く愛。人生を成功させるが、信仰の助けにはならないと説く。


 騒がしい太陽の愛は、異性に対する愛。人生を失敗させるが、信仰の助けになると説く。


 リュンヌ教国の初代教皇は、弟のイストワールを溺愛していた。


 その溺愛ぶりは、凄まじい。


 国政や信仰なども捨て去って、イストワールの世話を焼くほどだ。


 結果として、リュンヌ教国は信者に弱みを握られたことになる。


 いくつかの戒律の譲歩を迫られることになった。


 さらに、初代教皇は……



✣✣✣



「ユグドーさんにも、お友達がいらしたのね。良かったですわ。いつも、一人で掃除をしていらしたから……」


 マリエル夫人の笑顔は、蒼天に輝く太陽すらも霞んで見えるようだ。


 それに、ディアークが他人から見れば、ユグドーの友に見えるというのも嬉しいことだった。


(いや、家族だったね。君が選んだ。僕の家族)


 不思議なものだ。


 子供のときは、それほどでもなかったこの言葉が、これほどまでに心をくすぐるのだから。


 一方で、ディアークは不機嫌に見える。貴族の血を引くディアークには、酷だったかもしれない。


 掃除のことを怒っているのだろう。


「ごめんな。ユグドー。俺にとって、お前は家族だ。弟だぞ。だからな? ベトフォン家の夫人を自称する意地汚い女に騙されている弟を見過ごせない」


 ディアークは、マリエル夫人を睨みつける。


 その眼差しは、猛禽類が縄張りに侵入した外敵に向けるような鋭さがあった。


「わたくしは、マリエル・ベトフォン。先程も挨拶をいたしましたね? 本物ですわ。ユグドーさんのお兄様でいらっしゃったの?」


 マリエル夫人は、微笑みをたたえたままで堂々としていた。


 傍から見れば、マリエル夫人とディアークは、お互いに見つめ合う格好になっている。


 ユグドーは、腹部に違和感を感じた。腹痛ではない。何だかよくわからない痛みである。


「何が狙いなんだよ。お上品にすませやがって。ユグドーはな。愛の意味すら知らないんだ。優しくして、騙そうとするな。だいたい、ベトフォン家の夫人が、こんなところにいるわけ無いだろ? お腹まで大きく見せやがってッ!!」


 ディアークは、早口でまくし立てた。首筋まで紅潮している。


 二十年の月日は、人間の内面を変えるのだろう。いつも穏やかだったディアーク。


 上品な素敵な紳士だった。

 

 ディアークが、怒っている。獣の遠吠えのようだ。横顔は、ものすごく怖い。


「わたくしは、本物のマリエル・ベトフォンですけれど? ディアークさんに信じていただかなくてもよろしいですわ。それよりも、ユグドーさん。わたくしは、貴方のことをもっと知りたいの。愛を知らないなんて、何があったんですの?」


 マリエル夫人の風に揺れる鈴の音のような声。優しさを内包した表情。


 すべて、ユグドーの心の奥に吸い込まれるように入ってくる。


 今度は、心臓の高鳴りが聞こえてきた。体が浮き上がるように軽い。


 病気なのだろうか。


 どう答えればいいだろう。すべてを話してみたい。でも、都区長は心配していた。


 何か、失礼なことがあるのではないか。ユグドーは、自分の身分を一番に考えるべきだ。


 そう、言い聞かせた。


「なあ、アンタ。こいつの何を狙ってるんだ。お金なんて持ってないのは見ればわかるよな? 小さい頃に故郷を追われて、十五年も島流しにされてたんだ。俺が知らないだけで、まだまだ辛いこと悲しいことをたくさん乗り越えてきたんだと思う。アンタは、遊びのつもりでも、ユグドーは、俺の弟。こいつが、弄ばれて捨てられるとこなんて見たくないんだよ。さあ、出ていけ、失せろ」


 ディアークのユグドーを守ろうとする思い。マリエル夫人の優しさ。


 どちらも、ユグドーにとっては嬉しい。変な踊りでも踊りたいくらいの気分だ。


 でも、このままでは良くない。


 ディアークは、マリエル夫人を偽物だと思いこんでいる。説明しても、理解してくれないだろう。


 ディアークは、頑固だ。ユグドーが騙されていると思っているなら、なおのこと譲らないはずである。


(どうしよう……。えっ、なんで?)


 目の前で、マリエル夫人が泣いていた。ディアークに詰問されたからだろうか。


 事態は、悪化してしまった。何とかしなければと、頭の中で単語だけが反響する。


 でも、ユグドーには、マリエル夫人に声をかけるための言葉が見つからない。


「おいおい。今度は泣き落としかよ。それは、ちょっと、俺にも効くけど……。で、でも騙されんぞ。ユグドー、見るな。後ろを向いてろ」


 勢いを失うディアーク。マリエル夫人に慰めるような声をかける。


 先ほどまでとは、声色が違う。ユグドーには、それが羨ましく感じられた。


 生まれの違い、身分の違い。立場の違い。そんな言葉だけが浮かんでくる。


「っ、違いますわ。ディアークさんの怒気に感じるものはありません。そよ風にも劣りますもの。ユグドーさんの境遇を想像したのです。だって、今のユグドーさんはとても、素直で良い目をしておられます。だから、わたくしの力で、傷を癒して差し上げたいのですわ」


 ユグドーは、胸が苦しくなる。どうしても言えない。都区長だけが原因ではない。


 言葉が出てこないのだ。


 マリエル夫人の顔を見ていると、巫女姫リリアーヌを思い出すのだ。同じ失敗をしてしまう気がする。


 それが、恐ろしいのである。


「苦しいの? ユグドーさん。わたくしは、頼りになりませんか? 何をしてあげたらいいのでしょう」


「とっとと帰れよ。ユグドーはな。お前みたいなヤツにでも優しくされたら、愛おしいと感じるくらい純情無垢なんだ。こいつは、俺が守る。二度と離すものか。俺が守ってあげなきゃいけないんだ」


 ユグドーは、ディアークの目に陰りを見つけた。


 必死な思いは、ユグドーというよりは、ファミーリエ傭兵団の仲間に向けられているのだろう。


 これまでの旅でも、同じ目や表情を見たことがある。


 シードラゴンが、亡くなった仲間のことを話すときの目や顔つきに似ていた。


「ユグドー、この女。なかなか曲者だ。妙に度胸がある。でもな、俺を信じろ」


 ディアークの恐怖に震えた表情の先に、都区長の姿が見えた。


 ただならぬ雰囲気を察したのか、泡を食ったように駆け寄ってくる。


「はぁあうぁっ、何をしておるのだ。お前たち。マリエル様、あぁ。何故泣いておられるのか。あぁ、あぁ、もう終わりだ……」


 都区長は、マリエル夫人の深緑の瞳に輝く雫を見たのだろう。


 真っ青な顔を天に向けて、足の力が抜けたのか。その場に倒れる都区長。


 都区長よりも、ディアークのほうが深刻だった。


 何度も、ユグドーの顔や都区長を見ては、ゆっくりと膝をつく。


「は、は、そ、そ」


 ディアークは、額を地面にこすりつけて謝った。何度も地面に頭を叩きつけている。


 ユグドーは、手のひらを握りしめて息をのんだ。


 何かしなければと、ディアークの後に続いて跪き地面に頭を叩きつける。


「僕からも、謝ります。ディアークは、悪いです。でも、悪くないと思います。あ、その。本物のマリエル様なら、僕なんかに話しかけないって。そう思ったんだと思います。だって、僕は小さな村からも追い出された平民以下の廃民なんです」


 ユグドーは、必死で声を出しながら地面に頭を叩きつけた。


 しかし、柔らかな感触が、ユグドーの頭に触れる。視界は、ゆっくりと地面から上に向けられた。


 マリエル夫人の手だった。ユグドーは、その感触や香りに懐かしい何かを感じる。


「やっと、わたくしと話をしてくれましたね。もう一度、わたくしの名前を、マリエルと呼んでいただけませんか?」


 ユグドーは、土を握りしめた。呼びたい。何度でも、でも気が狂いそうになる。


 これは、なんだろう。


 誰かを思い出す。夜、寝るときに、優しい声で話をしてくれた気がする。


 ご飯を残したときに、怒られた気もする。


 夜の底、部屋に来て布団をかけ直してくれた誰かに。誰だ。誰なんだろう。


「あ、あぁ。ごめんなさい……」


「いいのですよ。ユグドーさん。でも、話してくれてありがとう。名前を呼んでくれたこと、忘れませんわッ。もう、帰りますね。都区長、気にしなくてもいいですわ。わたくし、何も気にしておりませんから」


 マリエルは、ディアークを見て語気を少しだけ強めた。


 ユグドーは、マリエル夫人にリンゴを手渡される。


 マリエル夫人に強く手を握られた。ユグドーは、握られた手をただ見つめる。


「あ、あのっ!! 申し訳ない。ディアーク・ベッセマー。ベッセマー家の誇りにかけても、今日のことは忘れません。一生の恥です。私は、私の目は、ただの飾りでありました」


「ええ、忘れては駄目です。わたくしの名前は、マリエル・ベトフォン。信じてくれるなら、許します。それでは、ユグドー。また」


 マリエル夫人は、ユグドーに笑顔を見せて迎えに来た使用人の元へと歩きだした。


「ディアーク・ベッセマー。生涯の、唯一の、絶対の忠誠を捧げます。祖国よりも、血よりも、重い。この忠誠を……受けとっ」


 ディアークの声は、掠れていてマリエル夫人にまでは届かなかったであろう。


 ユグドーは、我慢していた涙を流した。喉の奥から、止めどもなく嗚咽が漏れる。


 いつまでも、いつまでも。泣き続けるのだった。



✣✣✣



 ヴォラントの冒険譚に曰く。


 初代教皇リュンヌは、弟を愛していた。それ故に、他のことを蔑ろにしていたのだ。


 そんな彼を信仰へと戻したもの。それは、愛であった。


 人間の女性。後の妻? いや、違う。


 妖精王ニナへの愛だ。


 当時の精霊世界リテリュスは、リュンヌ神の代理は、人間ではない。


 その首座を務めていたのは、妖精族だった。


 初代教皇は、龍族や妖精族からリテリュスの主権を奪い取るために暗躍する。


 具体的には、神魔具の奪取──リュンヌ教国の主張では、悪用されるのを防ぐため──である。


 神魔具とは、神話の時代に転輪聖王リュンヌや阿修羅王エールデが使った大量破壊兵器のことだ。


 ちなみに、ユグドーが、求めている十二支石も神魔具の一つである。


 初代教皇は、妖精族が所持していた神魔具「蓮の角笛」を奪い取るために妖精王ニナを捕らえた。


 ところが、妖精王ニナの美貌に心を奪われた初代教皇は、簡単に、会って数秒で隷属してしまう。


 妖精王ニナは、自分を妻にしたければ、リュンヌ神に真を捧げること。


 そして、初代教皇が愛するものを龍族に差し出すこと。この二つを条件とした。


 初代教皇は、弟のイストワールを捧げることを約束したのだ。


 そして、その日から心を入れ替えたようにリュンヌ神への祈りを捧げはじめた。


 兄の初代教皇に裏切られたイストワールは、妖精族と手を結んだ龍族に殺されてしまう。


 無論、初代教皇が関わっているなど、誰も知らないことである。


 イストワールの息子とその親友ベトフォンは、復讐のために挙兵。


 大軍を率いて、龍族と開戦し、勝利した。龍族は、北東の果ての島まで追い出された。


 これにより、後ろ盾を失った妖精王ニナは、配下とともに逃亡。


 初代教皇は、亡くなるその時まで、妖精王ニナの帰りを祈ったというが……


 隷属のことも祈りの内容なども、知らなかった周囲の人間は、その信仰心に感服する。


 後に、初代教皇リュンヌの日誌が発見されたために、彼の愚行は一部の者に知られることになった。


 私は、ユグドーの足跡を調べる中で初代教皇の日誌の写本を手に入れた。


 その他にも、驚くべき内容が書かれていた。


 しかし、ユグドーとは何も関係ない内容である。ここでは、その内容には触れないでおこう。


 【ユグドー、思い出のソコ編】完。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る