缶コーヒーと三百七十円

山猫拳

第1話

 座席背面のテーブルを手前に倒して、さっき買ったばかりの缶コーヒーを丸いくぼみに置く。窓を見ると、ぐんぐん遠ざかる駅のホーム。カバンからノートPCを取り出そうとして、思わず「あっ」と声がでた。缶コーヒーを買ったとき、オレは作業着のポケットに入っていた五百円玉を入れた。おつりを回収してなかったことを今、思い出した。

 普段はICカードかスマホを使っているのに、たまに現金を使ったからだ。作業着のポケットに入らなかったので、二つともカバンに入れた。面倒がらずにカバンを開ければ良かった。新幹線は凄い速度でオレと三百七十円を引き離していく。あぁ、さようなら。

 車内でコーヒーを買うより安いから、先に買って乗ったはずなのに……。五百円の缶コーヒーのキャップをひねって、一口流し込む。入社二年目で初めての一人出張。もう一度資料の確認をしておかなくては。それにしても悔やまれる。



 先方との打ち合わせは、順調に進めれた。事前準備しておいた資料が役に立った。仕様しようの変更にともなう性能試験を要求されたので、何回かここを訪問することになりそうだ。さっき昼飯を食べた定食屋は旨かったし、量もボリュームがあった。次来たら豚の生姜焼きの方を食べてみよう。

 帰りの新幹線まで、まだ時間がある。コーヒーが飲みたくなった。ついでにメールチェックもしたい。カフェで一息つくか。ここはビルばかりのオフィス街といった感じの場所だ。少し歩けば、カフェがあるだろう。

 途中に何個かカフェはあったのだが、昼休み時間帯の店内はどこも混んでいる。もう少し人が少ないところを、と思い見送るうちに随分歩いた。ふと右を見ると、ビルの間に緑の木々が見える。整備された花壇のようなものもある。どうやら公園のようだ。公園ならベンチと自動販売機くらいはあるだろう。また、缶コーヒーでやり過ごすか。


 公園で昼食をとる人や、子連れの若い母親なんかがいたりして、中央には噴水のような水場もある。サイクリングロードが併設されていて、公園は整備が行き届いていた。なかなか雰囲気の良い公園だ。思った通り、ベンチと自動販売機もある。作業着のポケットにさっきの定食屋でもらったおつりを入れていた。オレは百五十円を取り出して、投入すると百三十円のコーヒーのボタンを押す。今度は忘れずにおつりを取る。

「あれ? 多い……」

 指先には二十円以上の硬貨の感触がある。全て取り出してみると、三百八十円。オレのおつりは二十円。つまり、誰かが朝のオレと同じミスをやらかしていたわけだ。

「まさかここで出会えるとはな……。これはオレが朝忘れた分ということで」

 などと言っててのひらの硬貨をしげしげと見つめる。いや、これを忘れた人は、オレの朝のおつり忘れとは関係ない。朝のオレと同じくらいへこんでいるだろう。交番に届けたら本人に戻ってくるのだろうか。

「あの……、す、すいません。ここにおつり、入ってませんでしたか」

 突然背後から声をかけられてどきりとした。後ろを振り向くと、天使が立っている。つややかな黒く長い髪、黒目がちな瞳に長い睫毛。形の良い唇。白いニット……いや、天使ではない。綺麗きれいな女性だ。オレはさっきの発言を聞かれたのではないかと思うと、身体が熱くなった。

「あ、入ってました。これ、交番に届けようと……」

 掌を彼女に差し出す。彼女はてのひらの硬貨を見て目を大きく見開き、次にオレを見上げて顔をほころばばせる。

「じつは、さっきここでお茶買ったんですけど、おつり取り忘れてることに気が付いて。これ、私のです」

 まさか、こんな綺麗きれいな人が、俺と同じことをやらかしていたなんて。自然と笑いが漏れてしまった。彼女はオレに笑われて少し気を悪くしたのか、眉をひそめる。

「いや、オレも今日、駅のホームで同じことやったから。同じことやった人と会うと思わなくて。気を悪くしたらすいません。どうぞ」

 オレがてのひらを下にして、三百八十円を差し出すと、彼女は両手をその下に広げて受け取る。

「そんな……全然。ありがとうございます」

 少し俯いて、恥ずかしそうにお礼を言う。しばらくそのままじっとしていたが、急に顔を上げてオレを見つめる。

「あの、駅のホームに忘れたおつりは、回収できましたか?」

「え? あぁ……朝のことだし、新幹線に乗った後に気づいたから、もう無理じゃないですかね」

 彼女は手の中から二百円を出して、オレの手を掴んでてのひらに置いた。

「じゃあ、これ。忘れっぽい二人で半分ってことで」

「えっ? いや、そんな。もらいすぎ……」

 呼び止めるオレに軽く頭を下げると、くるりと後ろを向いて、歩き出す。呆然ぼうぜんとその背中を見送る。彼女は公園と道路を挟んだ向かいにあるビルに消えていった。ビルには「三十鈴精工みすずせいこう株式会社」という看板が掲げられている。せめて、名前でも聞いておけば良かった。すぐ後ろにあるベンチに腰を下ろし、横に缶コーヒーを置く。溜息ためいきを一ついて、スマホをカバンのポケットから取り出す。見計らったかのようにスマホが振動し始める。上司からの電話だ。

『あ、おつかれ。打ち合わせどうだった?』

「無事終わりました。うちの製品を先方の仕様しようにカスタムしてほしいってことで、この後何回かこっちに来ることになりそうです。これからメール送ろうかと……」

『良かったな。ウチのに決めてくれたんだ。ちょうど良かった。もう一件お願いがあって』

「はい……何ですか?」

『今日、篠崎が行った市内にあるメーカーなんだけど。今度営業が打ち合わせ行くときに、技術の応援が一人欲しいって話が来てて。篠崎対応してもらっていいかな? 営業は坂木くんで、訪問先は……三十鈴みすず精工だか、五十鈴いすず精工だか言うとこだった。詳細はメールするって』

 メーカーの名前を聞いて、もう一度道路の向かいにあるビルの看板を見る。

「どっちですか? み、三十鈴みすず?」

『えーっと……ちょっと待て。五十鈴いすずだ』

「あー……、惜しい。あと二十」

『何だよ、あと二十って。じゃ、よろしくな。何か美味いもんでも食って帰ってこいよ』

 通話の切れたスマホを横に置いて、ベンチに身体を投げ出す。風はまだ冷たいが、日差しは暖かく、季節が春に近づいているのだとわかる。

 次来た時も、この公園に、缶コーヒーでも飲みに来るか。

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缶コーヒーと三百七十円 山猫拳 @Yamaneco-Ken

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