Re: start

宵埜白猫

前に進むために

 ドアをノックする音が、電気の消えた薄暗い部屋に響く。

 壁にもたれて座る神崎かんざき雲雀ひばりは空虚な目をそのドアに向けていた。


「雲雀、今日は一緒にどこか行かない?」


 穏やかな声が、外から聞こえてくる。

 けれど今の雲雀には、外に出る気など微塵も無かった。

 この部屋の中に雲雀を引き留めるもの、それは――


「行って来たら? せっかく雲雀のお友達が誘ってくれてるんでしょ?」


 優しい笑みを雲雀に向ける女性。


「母さん……」


 雲雀の母だった。


「雲雀もずっとこんなとこに居たら体に悪いわよ」

「……私はいいんだよ。母さんと居る方が楽しいし」


 雲雀がそう答えると、母は困ったような顔を浮かべる。


「あまり楽しそうには見えないわ」

「そんなことないよ。私、母さんと居れて、こうして喋れるだけで嬉しいもん」


 雲雀は精一杯の笑顔を作ってみたが、その笑みの下にある憔悴を隠せてはいなかった。


「ほら、雲雀とってもつらそうよ」


 そう言って母が手を伸ばすと、雲雀が勢いよくその手から逃げた。

 それを見て母は悲しんでいるような安心しているような不思議な笑みを浮かべて。


「……なんだ。ちゃんと分かってるじゃない」

「ちっ、違うの! これはそう言うのじゃなくて!」


 必死に取り繕う雲雀に、母はゆっくりと首を振る。


「雲雀、よく聞いて」

「嫌! 聞きたくない!」


 駄々っ子の様に首を振る雲雀を見つめて、母は静かに言葉を紡ぐ。


「人が前に進む時にはね、何かとお別れしなきゃいけないの」


 その言葉を聞いた雲雀の目に、涙が浮かぶ。


「それはとっても辛くて寂しいことだけど、新しい世界を見るためには必要なことなのよ」

「……じゃあ私はそんなの見たくない。ずっと母さんと一緒がいい」

「それは駄目よ。……それだけは駄目」


 母の拒絶に、雲雀の目に溜まっていた涙が一気に流れ落ちる。


「でもね、雲雀。お別れした後に、また会えることだってあるのよ。いつだって戻ってきていいの」

「……ほんとに、いいの?」

「ええ、もちろん」


 それは見慣れた母の笑顔。

 の母がよく浮かべていた、優しい笑顔だった。


「いってらっしゃい、雲雀」


 そんな母の言葉に涙を拭って、雲雀は立ち上がる。


「行ってきます、母さん!」


 そうしてドアに向かってゆっくり歩き出した娘の背を、嬉しそうに見守って、母はゆっくりと、その姿を宙に混ぜた。


「元気でね、雲雀。母さんいつも見てるから」

「うん。ありがと、母さん。……大好きだよ」


 母の声に振り返ることは無く、雲雀は前を向いて答えた。

 もし振り返ってしまったら、この決意が揺らいでしまいそうだったから。

 最後にもう一度だけ涙を拭って、雲雀はドアに手を伸ばし――


「お待たせ」


 そんな言葉をきっかけに、二人の少女の楽しげな声が、響き始めた。

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