挙兵

 何しろ、多忙なふたりである。

 彼女たちに、互いにとって初めての夜なるものを遂げさせた世話焼きは、アレックスとブラニクで、ほかにも密かにその事実を知る者は幾人かはいたであろう。

 そうした周囲のお節介連中は、みなふたりのちぎりを喜び、いずれ吉日を選び婚礼を開くことを望んだ。彼らの見届ける前で、ふたりは生涯の約束を交わし、夫婦となるのだ。

 だが、一方は徐々に水面下で盛り上がりを見せつつある解放運動の指導者であり、いま一方はその解放運動において行き掛かり上、団結の象徴にもなっている伝説的存在の術者である。本人たちはともかく、周囲の人々にとっては、この時期に彼女らの私的な出来事を取り上げて盛大に祝うような余裕はなかった。状況はすでに、そのような局面ではない。

 ふたりの契りを仕向けたアレックス、ブラニクにしても、彼らを今の情勢化で結婚させるために労をとったわけではない。テオドールに関しては特に、解放運動の指導者であるから、今後の推移によっては命を落とすことも充分にありうる。せめて互いを想い合っているふたりが生きているうちに、存分に愛し合う機会を持たせてやりたい、という老婆心なのである。しばらくは工作活動で忙しいし、あるいは挙兵となり戦役が始まれば数年にわたり都を離れることもあるかもしれない。ふたりに与えられた機会は、もしかするとそう多くは残ってはいないし、あの夜が最後かもしれない。

 実際、テオドールは扇動や挙兵準備のためすぐに各地を訪ねて回ることになり、ブラニクがそのまま貸し与えてくれたふたりの新居には、まだ誰も住んではいない。

 ソフィアに不安はあったが、彼女は引続きルブラン邸にあって、一日とて休まず、甲斐甲斐しくも診療にあたっている。

 カーボベルデにおけるペストの蔓延は、この時期ほぼ終息しつつある。それが姉妹の功に負うところであるのは誰の目にも明らかであった。カーボベルデだけでも数万人をペストから救ったわけだが、これは言い換えると、姉妹を神のように崇める者が数万人という規模で存在するということでもある。

 一方で、政道の乱れはなおも甚だしい。ほとんど無政府状態と言ってもいいくらいである。州や都市といった単位では、その長官や官僚の器量によって一定の平穏が保たれているところもあるが、そうでない場合はひどいものであった。租税が正しく徴収・分配されず、賄賂わいろが横行し、司法が機能していないために犯罪の取り締まりも行われない。治安は大いに低下し、商人だけでなく、財産のある庶民も自衛のため武器を買いあさり、生産力よりも消費人口の方が多い都では当然ながら慢性的な物資不足に陥った。乞食が徘徊はいかいし、体力のない者から順に死んで、路傍に死体が転がった。ペストの鎮静化とともに世情は落ち着くどころか、むしろ悪化する一方であった。

 春先にはルブランの持つ小麦倉庫のひとつが襲撃され、倉庫番を殺害された上に貯蔵されていた小麦を根こそぎ強奪された。強盗団も通常の警備では防げないほどに規模が大きくなってきていることを示唆する事実である。

 ソフィアの護衛も、三人から六人に増やされた。ソフィアにことさら敵意を持つ者がいるとは考えにくいが、後ろ盾であるルブラン・サロンの財力を狙って、金目当ての人質にしようと企む者がいないとも限らない。

 物情、騒然としている。

 そして、挙兵の機はルブラン・サロンの名士たちにとってはあまりにも早く訪れた。機というものは、往々にしてそれを仕掛ける者の期待よりも早く、向こうからやってくるものらしい。

 晩春のその日、ルブラン・サロンの初期メンバーであるセルバンテス老人は、二人の少年を供にして黄昏の大路を歩いていた。彼はいわゆる慈善活動家で、自らの半生で蓄えた富を恵まれぬ貧民に施したり、井戸掘りや乞食の保護といった事業に出資し、対価は受け取らないという類を見ない善人であり、しかも芯からの善人という点でこの時代では珍しい老人であった。姉妹が初めて都を訪れた際、彼女らを出迎えたのもこの老人で、その好々爺こうこうやぶりには姉妹も我が祖父を仰ぐような親しみを持っている。

 彼は、近道をするため大路から、やや狭い路地へと折れた。そこへ、前後から賊が殺到した。

 ぎらぎら、と抜刀した剣が赤い夕日を反射して光っている。このような盗賊どもが白昼に出現すること自体、すでに治安が機能していないことを物語っていると言えよう。

 辛くも切り抜けた少年の通報に応じて、ルブラン邸で待機していたアレックス以下、八名の若者が直ちに出動した。著名な財界人の巣窟であるルブラン邸には、治安の悪化に伴って増員した私兵が常時待機している。

 アレックスたちが駆けつけた時、五人の賊はすでにセルバンテス老人と供の少年を斬り殺して、持ち物を物色している最中であった。アレックスは恐れて逃げ散る賊に追いすがり、一人、二人と踏み込んで致命傷を与えわずかに復仇を果たしたが、相手が悪かった。

「セルバンテス氏を襲ったのは、官兵か」

 夜、ルブラン・サロンに緊急集合した名士たちは、その事実に揃って顔を青くした。アレックスらの行いに落ち度はないが、どうやらあの事件は自ら犯罪者集団と堕した官兵の連中が引き起こしたものであったらしい。国の正規兵たる者同士が仲間内で語らい、徒党を組んで白昼の強盗を犯すなど、この世の倫理や道徳も地に落ちたと言えるだろう。

 だが問題なのは、たとえ強盗団といえども、官兵をルブラン・サロンの私兵が斬殺したことにある。帝国の司法官僚どもが誠実かつ謹直に事案を処理するならよいが、そうはいくまい。かえってアレックスらに罪ありとしてありもせぬ罪状をでっち上げ、司法権を利用して一方的な裁断を下すかもしれない。いや、昨今の役人の腐敗ぶり、堕落ぶりからすれば、疑いなくそうなる。追及の手が伸びれば、解放運動の件が漏れる恐れが大である。

 つまり、こうなった以上は事態は抜き差しならない。

「窮すればすなわち変ず、変ずれば即ち通ず。むしろこれを奇貨として、我ら今まさに挙兵に及ぶべし!」

 古くからの同志を失ったルブランの勇壮極まる呼びかけに、一同はたちまち血の気を催し、断固たる決意で応えた。あいにくテオドールはアーヴェンらを護衛として、故郷のセーヌ村を含むアポロニア半島東海岸のカンペルレ州に私兵の募集に出ていた。よって彼らは指導者不在のまま、挙兵の大事を決断せざるを得ない。

 ソフィアは事態の歯車が自分の理解も制御もできないところで急加速しつつあることに、呆然としている。とにもかくにも都を脱出することだ、と名士たちが私兵や財産や物資の整理のため目まぐるしく動いているなかで、彼女ひとりは身動きもままならない。彼女も、都を離れねばならないのだろうか。しかしこの地を留守にしているソフィーやテオドールはどうなるのであろう。

「ソフィア」

 と、ようやく彼女に声をかけてくれたのは、ブラニクである。彼女ほどの海千山千の人をして、切羽詰まった表情を隠せないでいる。その事実もまた、ソフィアを限りなく不安な気持ちにさせた。

「なにぼけっとしてんの。今すぐお引っ越しよ」

「私も行くのですか?」

「そりゃそうさ。あんたみたいなべっぴん、官兵に捕まったら肉を食われて骨の髄までしゃぶられちまうよ」

 ソフィアは泣きたかった。彼女は姉とともに、数えきれないほど多くの人々を未曾有みぞうの疫病から救った。一方でルブラン・サロンの政治的活動とは完全に無縁ではないにしろよほど距離をとっており、彼女自身は無関係だと思っている。何故、彼女が官兵に捕まり、肉を食われ骨の髄までしゃぶられなければならないのであろう。

 とは言え、サロンの人々の天地がひっくり返ったような騒ぎぶりを目の当たりにすると、どうやら泣いている暇もなさそうであった。

「けど、どこへ逃げるんです」

「アルジャントゥイユだよ」

「あるじゃん……?」

 聞いたこともない地名である。少なくとも帝国内にそのような名前の大都市はない。

「まさか、国を出るのですか?」

「まさかはこっちだよ。アルジャントゥイユはアリエージュ川の中流にある風光明媚の地さ。帝国を倒したら、新しい王宮と都をそこに築いて、国づくりをするんだよ。今はまだ辺鄙へんぴな村だけどね」

 なんと、ルブラン・サロンの連中は遷都まで計画しているらしい。ソフィアの想像力では到底、理解の及ばぬところまで彼らの構想、あるいは妄想が進んでいるようだ。

「とにかく今すぐ、金目のものや思い出のものを、持てる分だけ持ってきな」

「は、はい」

 小一時間後には、彼女はブラニクとともに馬車に揺られている。時代が時代だから、都から各地方に伸びる道路も整備されきっておらず、急ぎの馬車だと内臓が揺れるほどの衝撃が絶え間なく続く。ブラニクはしばしば気分を悪くし、馬車から吐瀉としゃ物をまき散らしつつ、それでも決して逃げ足は緩めることなく、一路アルジャントゥイユへと向かった。前後には、同様に都から逃げ出す同志たちやその私兵どもが陸続と連なっている。

 逃亡者の群れは統制もなく、とにかく北を目指して脱兎のごとく走ったが、最後尾はルブランの馬車がセルバンテスのひつぎとともに守った。そのすぐ後ろに、アレックスが80人ばかりの兵とともに殿軍しんがりを務めて、一度だけ追手の軍と小競り合いを交えた。帝国軍と解放軍が初めて戦場で戦ったのが、このアルジャントゥイユ逃亡戦であったとされ、結果は解放軍の完勝に終わった。帝国の直轄軍は、突発的な戦闘に対処しうるだけの統制力すら失い、決死の覚悟で反撃に及んだ小勢の解放軍に対し、砂でつくった人形のようなもろさで崩れ、都へと逃げ帰っていった。

 ブラニクが言ったように、アルジャントゥイユは取るに足らない小さな村である。都であるカーボベルデにも近く、アリエージュ川の豊かな水源にも接し、広闊こうかつでなるほど風光明媚ではあるが、周囲に目立つ資源がないために発展していない。特に住居を構えるための木材が不足しているのが致命的であった。都市を築く立地としては理想的だが、古代的な感覚では木材がなければ都市も文明も自然発生しない。ゆえにこの村では、建築材料として木材ではなく石材を主に用いている。

 ルブランはサロンの同志たちと相談し、かねてよりこの地に目をつけ、頑丈な石造りの邸宅と、家屋を数件、建てている。根拠地とするにはまだ未発展に過ぎるが、アルジャントゥイユは四方に通じて進退が自在である。挙兵の際はこの地に本拠を据え、中規模の軍を養って、各地で蜂起した解放軍と連携しつつ、帝国軍を突き崩す構想であった。

 ただ、その時期は早くて三年後と見込んでいたのが、成り行きによって早まったことになる。

 ルブランはアルジャントゥイユに到着するなり、決起を求める檄文げきぶんを詩人であるサイモンに起草させ、諸方に発した。テオドールが説得したアレグリーニや、エクランのペドロサといった大物にも、当然ながら挙兵を促している。同時にテオドールには早々にアルジャントゥイユへ戻るように告げ、エクランのソフィー一行にも事態を伝えて善処を依頼した。

 ソフィアはそうしたルブラン・サロンの動きとは相変わらず距離をもうけつつ、患者の治癒に努めた。今日日きょうび、ペストは国内第一の都市であるカーボベルデでの感染状況が鎮静化しつつあるとはいえ、そのほかの都市や村では依然として跋扈ばっこを続けている。アルジャントゥイユは村民1,100から1,200人といった程度であろう。ソフィアが駆け回ると、たちまち村に患者はいなくなった。

 この村でもやはりソフィアは女神のように敬われたが、患者がいないので暇を持て余した。

 日々に退屈さを感じるなど、いつぶりであろう。

 思い起こすと、セーヌ村の風景が蘇った。豊かなオリーブ農園と、姉のソフィー、幼馴染のテオドール、両親も生きていた。小さな村だが、みんなが家族のようなぬくもりに包まれてともに生きていた。ペストが蔓延するまでは。

 (そうだ)

 久しぶりに絵を描こう、と彼女は思った。時間があると、彼女はよく絵を描いた。幼い頃から、絵画の才能にかけては神童と呼ばれたほどである。もっとも、同じ村の連中の言うことだから、あてにはならない。

 さらさら、と羊皮紙に絵筆を走らせていると、例によってブラニクが後ろからのぞきこんできた。

「たいしたもんだね」

 ルブランらとともに都を離れて、彼女の娼婦としての商売がなくなったから、同様に退屈なのである。彼女は飽くことなく、ソフィアの絵画の製作を見守った。

 術者ソフィアが、絵画の巨匠としてその才能を世界に示し始めるのは、この頃からであったろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る