捨てられた子犬の兄弟のように

 ヴァレンティノが姉妹の護衛団に加わってから、半年ほどになる。

 父がおらず、母を亡くし、身寄りもいなかったこの少年は、たまさか姉妹の面識を得ることによって、本来ならば望むべくもない環境を手に入れることができたのであった。都における随一の商人であるルブランの屋敷に住まいを得、衣食にも事欠かず、そして何より、多くの知識人や名士と交わりを結ぶようになったのである。

「いやいや、強情だが勘のいい子だ。見込みがある」

「えぇ、将来の楽しみな少年です。あと三年か、五年もすれば」

 そう論評するのは、カーボベルデ界隈では最も知られた教育者であるクレッソンとチェーザレである。初老の両名の目から見ても、ヴァレンティノは末に期待が持てるだけの素質があったようだ。

 ちなみにヴァレンティノとは、ヴァレンテの通称である。通称とは通常、本名よりも短く使い勝手がいい言葉が選ばれるものだが、この地域ではその原則から外れる運用がされるものであるらしい。

 いずれにしても、ヴァレンテ・ロマーノは、彼らのような一流の名士たちから一流の指導を受け、旱魃かんばつにあえぐ土が水を欲するように、ありとあらゆる学識を吸収していった。少年期にあっては、理想的な教育環境と言っていいであろう。見渡せば、その方面の第一人者が揃っているわけである。

 精神的には、ソフィーが親代わりであり、ソフィアとテオドールが親友であった。姉妹とは四つほどしか年齢が違わないが、ソフィーは精神面が老成していて面倒見もことのほかいいだけに、ヴァレンティノを放ってはおけないところがある。ヴァレンティノの方も、初対面で彼の頬を叩き、叩きつつも保護してくれたソフィーに畏敬の念を抱いている。また、ソフィアやテオドールとはほとんど対等の友人として交流を深め、夜はよく四人で話をした。

 また肉体の鍛錬は、アレックスやシャルルが相手になり、夢中になって木の棒を振り回し、ときに剣の扱いを教わることもあった。特に足の速さは両者を瞠目どうもくさせるほどの資質があり、体力自慢の彼らもヴァレンティノに追いつくことは決してできなかった。

 この頃、ある重大で深刻な事件が姉妹を見舞った。彼女らの故郷であるセーヌ村から、急報が届いたのである。

「ジョルジュ・ルモワーヌ氏が、危篤である」

 急使はまず道理として惣領であるテオドールに通知し、彼の判断ですぐに姉妹が呼ばれ、三人は鳩首きゅうしゅし相談の場を持った。

「感冒をこじらせたらしいんだ」

 テオドールは一昨年、父をペストで失いかけて以来、再びの凶報に打ちのめされつつ、ようやく声を絞り出して言った。感冒とは要するに風邪のことだが、医療も衛生も栄養状態も貧困なこの時代、風邪は悪くすると壮年の人であっても命取りになった。特に感冒の病根が肺に達すると、予後はよくない。

「すぐに、セーヌに戻った方がいいわ。私から、ルブランさんに甘えてみる。懐の深い方だから、きっと、馬車を手配してくれるはずよ」

「ありがとう、ソフィー。きっと大丈夫だと信じてるけど、僕は父さんに会いに行くよ」

「そうして。ソフィア、あなたも行ってあげて」

「でも」

「ルモワーヌさんは私たちにとっても大切な人よ。私だって、それこそできることなら風に乗って飛んで行きたいくらいだけど、今はここに残って治療を続けないといけないわ。あなたが行って、ルモワーヌさんを助けてあげて」

「……うん」

 ソフィアには、テオドールとアレックス、アーヴェンが同行する。いずれも、セーヌ村で生まれ育った連中だ。アーヴェンはルモワーヌ家の召使いでもある。

 ソフィアは生まれて初めて馬車に乗り、またソフィーとの長期の別れを経験した。カーボベルデからセーヌまで、徒歩なら七日ほどだが、馬車を急がせれば三日ほどであろう。それでも、一日たりとも離れたことのない姉妹にとっては、不安を呼ぶほどに長く感じられる。

 特にソフィアは寂しがった。また、姉のことが心配でもある。ルブラン邸に残った護衛団は、ほかの村から参加した若者であったり、あるいはシャルルやヴァレンティノといった、いわば新参の面々であり、多くの名士たちの庇護ひごを受けているとはいっても、その心情としてはあるいはソフィアよりもよほど心細いかもしれない。

 しかし、最も不安でいるのはテオドールであろう。彼は父親と仲が良い。人格者である父を、尊敬してもいる。もし彼がソフィアを連れて戻ったとき、父の生命力が尽きていなければ、ルモワーヌ家に再びの奇跡が訪れるであろう。

 だが、彼らは間に合わなかった。

 父の遺言を、テオドールは母から聞かされた。

「テオ、お前には徳が備わっている。みなを守り、みなを導く北極星ポラリスになるんだ」

 ソフィアは何度か、水に精一杯の思念を含めてルモワーヌの唇に落としたが、すでに血が滞り魂の抜けた体に彼女の術はいかなる効用も及ぼさなかった。それでもあきらめようとはせず、何度も何度も蘇生をこころみるソフィアの手を、最後はテオドールが止めた。

 ソフィアはただ立ち尽くして、この心優しい幼馴染の悲痛な号泣を見守った。

 ルモワーヌの死去が確認されたのは、わずか数時間前のことであったという。

 (あともう少し早ければ)

 その生涯において、彼女は幾度、この日のことを思い起こしてはほぞを噛んだか分からない。なまじ、息のあるうちに到着できていれば確実に救うことができたに違いないだけに、一層その悔恨かいこんは大きい。

「テオ」

 と、そう声をかけることしかできない自分の無力が悔しかった。

「ごめん」

 という言葉がのどまで出かかった。だが、父を亡くした幼馴染を前に、その言葉はあまりに軽く、かつ無責任にも思われた。ソフィアは最善を尽くしたし、テオドールもそれを理解している。責任の及ばない範疇はんちゅうにまで責任を持とうとするのは、かえって無責任というものだ。それに、この街を離れ、より多くの人々を助けるべきだと姉妹に勧めたのも、ルモワーヌ自身であった。自身が不慮の病気や事故で死ぬことも、当然、想定はしていたであろう。

 だから、ソフィアは言葉をかけなかった。彼女は何も言わず、涙に暮れるテオドールのそばにいた。そして、彼が彼女と向き合う気力を取り戻したなら、そのときはもう少し素直に、彼の想いに応えようと思った。

 それは少女の成長であったのか、どうなのか。

 葬儀は翌日に行う。テオドールは終始暗い顔でありながら、アーヴェンら召使いたちを指揮し、その準備を完璧にやってのけた。村じゅうのひとびとが集まり、祈りを捧げて、ルモワーヌの遺骸を白い布で包み、穴に放り投げて、埋める。死者の尊厳も礼式も曖昧あいまいな時代で、生前どれほど徳の高い人物でも、死んだあとは無残な扱いである。

 ソフィアはテオドールの七つ下の弟ジョシュアの相手をしながら、たったひとりで悲しみと向き合いながら健気けなげに働く彼を不憫ふびんに思った。

 彼女がテオドールと話し合いの機会を持てたのは、葬儀の日の夜になってからである。テオドールが気遣われ、またことさらに自分を避けているような態度が気になって、眠れずにいるところ、彼がひっそりと訪ねてきたのだ。

「ソフィア、起きてる?」

「テオ、どうしたの?」

 わざわざ松明たいまつを持ち出して現れたテオドールの姿に、ソフィアはうれしさとともに、妙な胸騒ぎも覚えた。

 テオドールは必要以上に神妙な声で切り出した。

「ソフィア、君に話があるんだ」

「うん」

「僕は君と一緒には戻れない」

 ソフィアは、自分の体から一瞬で血の気が引いていくのを実感した。彼女は努めて冷静に聞き返して、

「どうして?」

「僕が家を留守にすることはできないんだ」

 当然のことではあった。彼はルモワーヌ家の長男であり、後継者である。受け継いだ門地を、彼が管理することになる。また弟のジョシュアは当年11歳で、彼が当主として養育せねばならない。気軽にこの地を離れて、姉妹の手伝いをしているわけにはゆかないのである。

 ソフィアの胸騒ぎは的中したと言っていい。

 テオドールはしかし、決してソフィアへの気持ちを失ったわけではない。

「僕は、君のことを大切に想ってるよ。君のそばにいたいし、君のことを守りたい」

「テオ」

「君と一緒にいたい」

 憎い、とソフィアは思った。これから離れ離れになるというときに、何を言い出すのか。やはり、いつまでも子供なのだ。ぼんやりしていて、相手の心を知る感性が鈍い。

「でも、一緒にいられないんでしょ」

「うん、だから悔しいし、悲しいんだ。君に術者としての務めがあるように、僕も僕の務めがある。どんなときでも、君のことを守ると思ってたのに、僕はここに残らなきゃいけないんだ」

「そう、分かったわ」

 この返答は、そっけないを通り越して残酷であっただろう。彼女を一途に思う男に対して、聞き分けがよすぎるというものだ。

 しかしテオドールはさらに残酷である。

 彼は最後に言った。

「ソフィア、僕は何よりも、君の幸せを願ってるよ」

 ソフィアはそれを、別れの言葉として受け止めた。その言葉にはあまりにも純粋な情愛が含まれていて、それだけに、まるでふたりの永遠の別れを示唆しさしているようにも思われた。

 ソフィアはただ、口角を引きつらせつつ、微笑を浮かべた。ひどくぎこちない笑顔になっている自覚が、彼女にはあった。

 ソフィーならば、このようなとき、どのような言葉を彼に贈ったのであろう。

 カーボベルデへの戻り道中で、彼女は三日間、一言も口を利かず、しばしばこらえかねて涙した。

 都に着いたソフィアを迎えたのは、彼女のたった一人の肉親であるソフィーであった。ただの肉親ではない。人生のほとんどすべての時間を共有し、術者の血を分かち、彼女のあらゆる面を理解し受け止めてくれる、誰よりも心が広く、誰よりも慈愛にあふれる、仮に世界のすべての人々が彼女から離れあるいは彼女の敵となろうとも、絶対に味方でいてくれる、そう全身全霊をもって確信できる唯一の人なのだ。

 そのときも、ソフィーは何も説明しなくても分かってくれた。何があったのか、何故テオドールがそばにいないのか、そしてソフィアがどのような思いでいるのか。

 何も言わなくてよかった。何も言わなくても、通じ合えるふたりだった。

 そして、互いに無言のまま、どちらからともなく、強く抱きしめ合い、泣いた。

 どれほど術者として強く生きようと誓い、またどれほど人々からの尊崇を受けようとも、彼女らは捨てられた子犬の兄弟であった。

 泣きながら、震えながら、寄り添い合い生きていくしかないのである。

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