みなしごの手を引いて

 二人は、彼女たちの護衛としてついてきた者たちに、治療方針の変更を伝えた。彼らは臨時病院の役割を果たしているルブラン邸の倉庫にあって、患者の運び入れなど、診療の補助を行ってきたが、この日以降、治療対象者の選別も行わなければならなくなった。端的には、年寄りは後回しにして、子供を優先的にることにする。

 一人、アレックスだけはこの方針に絶対反対の意を示した。だがほかに誰も続かなかったため、不承不承ふしょうぶしょう、従った。

 この時代、大陸の人々の平均寿命は15歳から18歳程度であったと推定されている。客観的に見ると恐ろしい数値だが、これは生まれた者の半数程度が乳児の段階で死亡してしまい、それらの群が平均寿命を大幅に引き下げているからである。つまりはそれだけ、生まれた直後の死亡リスクが高かったということでもある。逆に言えば乳児を含めた子供の生存率を上げることは、社会的に極めて重要な課題でもあったのだ。

 とはいえ、人の命を意図的に選別することに、感情的あるいは倫理的な抵抗感がまったくないわけではない。

 テオドールは二人の決断を聞いて、最初は黙っていたが、あとでソフィアにだけはそっと、

「つらいよね」

 と言って慰めた。僕は君たちの判断は正しいと思う、支持するよ、とも言い、その言葉にソフィアは救われた思いがした。

 しかし世界は必ずしも姉妹に対する理解者だけで構成されているわけではない。とりわけ、治療の順番を遅らせたことにより死去した患者の家族や知人のなかには、姉妹らに対し暴言や罵声を浴びせる者もあった。姉妹はそれでも、診療方針を変えようとはしなかった。彼女たちは一日も休まず、献身的に治療にあたり、さらに数ヶ月が経過した。

 この頃になると、術者姉妹の奇跡の力を耳にした有力者たちが次々と協力を申し出るようになり、ルブラン邸はそうした連中のサロンとして機能するようになった。具体的な名を挙げると、在野の名士で学識は群を抜くと称されるチェーザレ、武器商人のトスカニーニ、薬商人の婦人ブラニクといったあたりである。

 こうした人々が足しげく出入りするルブラン・サロンは、単に姉妹の徳を慕い、その事業に関わるだけでなく、彼ら自身の人脈を育て、情報交換をする場となったのである。そしていよいよ、姉妹の名声は高まり、やがて独り歩きを始めた。移住してから半年ほどで、カーボベルデの都に姉妹の名を知らぬ者はもはやいなかったという。ペストはもちろん、ありとあらゆる病を瞬時に完治せしめるというので、その力は神のようだと噂された。

 ある日、一人の少年がルブラン邸を訪ねた。ルブラン邸の周囲はペストを患った者たちでごった返していて、地面に座り込んだり、担架に横たえられたり、乳幼児ならば母親に抱えられたりと、いずれも悲惨な姿で長蛇の列をなしている。老人は行ってもてもらえない、という話も広まっていて、並んでいるのはほとんどが10代以下の子供である。

「おい、お前も診療の希望者か」

 少年に声をかけたのは、シャルルである。もとは野盗の親分をしていた悪党であるが、すっかり心を入れ替えたのか、一言の文句も言わず、与えられた役割に律義に従事している。今ではソフィーはもとより、ソフィアやアレックスからも信頼を得ているほどだ。

 彼の仕事は、治療を求めに訪れた人々を年齢の順に並べ替えるとともに、列を乱さぬよう監視することである。

「おい、どうなんだ」

 少年が黙っているので、シャルルは再び尋ねた。少年は13歳か、14歳くらいであろうか。赤褐色の髪と、ミントグリーンのような非常に明るい色の瞳を持っていて、一目でも目立つ容貌である。特に赤毛は珍しく、死神の生まれ変わりや悪しき術者の末裔まつえいであるなどという愚かしい風聞ふうぶんが流れて、差別や偏見の対象にもなっている。

 少年は長身のシャルルを見上げて、無愛想に言った。まだ変声期も迎えていないようだ。

「術者は、死んだ人間も治せるのか」

「なに、死んだ人間?」

 気味の悪いことを言いやがる、との感想を、シャルルは口には出さなかったが、声には露骨に含めて反復した。

「そりゃあ死んだ人間は無理さ。生きてるやつ限定だ。誰か死んだのか?」

「母ちゃん」

「あぁ、気の毒だったな、坊主。だがそういうことなんでな。父ちゃんに面倒を見てもらえ」

「父ちゃんはいない。女をつくって、とっくに出てった」

「なるほどな」

 哀れだ、とシャルルは思ったが、しかしこのご時世、そのような子供はいて捨てるほどいる。何しろペストは致死的な病で、罹患りかんすればその過半は助からずに死ぬと言われた。もとより栄養状態のよくない時代の人々であり、衛生環境は悪く、売られている薬も半分はよくて迷信、悪いとただの雑草の粉末であった。そのような状況では孤児などいちいち数えていられないくらいに発生している。そして引き取り手のいない孤児は、乞食こじきになって、遅かれ早かれ路傍で野垂れ死ぬのが末路であった。

「とにかく、死んだあとじゃあ助けらんねぇ。このあたりにいたらお前も黒死病になって死んじまうぞ。とっとと身寄りを探すんだな」

「術者と、直接話す」

 そう言うと、少年は突然、走り出した。シャルルは慌てて追ったが、意外なことに彼ほどの男が全力で走っても追いつけない。

 少年は列の先頭、ルブラン邸の倉庫にまで風の巻くように走り込んで、姉妹と対面を果たした。臨時病院であるこの倉庫には、姉妹のほか、助手としてテオドール、警備としてアレックスがいる。このアレックスが立ち上がって、鋭く誰何すいかした。

「おい、なんだお前。列を乱すな」

 しかし少年は姉妹を交互に見て、肩で息をしている。ソフィーとソフィアは見知らぬ少年の闖入ちんにゅうに顔を見合わせていたが、アレックスによって少年がつまみ出されようとすると、ソフィーがそれを止めて尋ねた。

「どうしたの、私たちに何かご用?」

「母ちゃんを」

「お母さん?」

「今朝、死んだ。でも術者なら、治せるだろ」

「ごめんなさい、それはできないの」

 努めて優しく、だがはっきりと、ソフィーは断った。強大な思念を持ったいにしえの術者ならばともかく、彼女らの力では死者を蘇らせることまではできない。よしんばできたとして、今は生きて苦しみのなかにいる者をより多く救うところまでで手一杯である。

 少年は顔を歪ませ、苛立いらだちや落胆や悲嘆の複雑に入り混じった、なんとも言えない表情をつくった。

「なんで治せないんだよ。父ちゃんもいない。母ちゃんも死んで、オレももう死ぬしかない」

「そんなことないわ。生きている人は、死んだ人の分まで、精一杯生きなくてはいけないの」

 ソフィーは自分よりもまだ一回りほど小さい少年の顔をのぞき込むように腰をかがめて、静かにさとしたのだが、少年はここで言うべからざることを言った。

「もうオレ一人だけなのに、どうやって生きていけっていうんだ!きれいごと言いやがって、もうみんな死んじまえばいいんだ!」

 刹那せつな、すさまじい音ともに、少年の体が木の床に転がった。ソフィーが、少年を平手打ちにしたのであった。少年は想像もしていなかったからか、あるいはソフィーの平手にそれほど力がこもっていたからなのか、衝撃に倒れ、尻餅をついて、呆然と彼女を見上げている。

 ソフィーの表情は、怒りと厳しさに満ちている。

「そんなこと言うの、私は絶対に許せない。誰だって、懸命に生きる義務と資格があるのよ。あなたのお母さんだって、あなたを守りたくて、一生懸命に生きようとしたんでしょ。あなたはお母さんの分まで生きなきゃいけないし、お母さんの分まで、ほかの人の命に敬意を払うべきだわ。それができないなら、あなたにはお母さんの死を悲しむ資格すらないわよ!」

 少年は恐ろしいのか、それとも悔しいのか、悲しいのか、ぶるぶると震え始めた。

 ソフィアもテオドールもアレックスも、初めて見るソフィーの姿であった。特にソフィアは、顔を蒼白にして姉に畏怖の念を抱いた。彼女の知るソフィーは常に慈母のように穏やかで優しさに満ちていて、もちろん頬を打たれたことなど一度もない。

「あいつだけは、怒らせたらまずいな……」

 アレックスがぼそりとつぶやいたのが、全員の心情であったろう。ソフィーが人を叩くなど、まるで神話世界の天使が怒り出したかのような恐ろしさと驚きがある。

 だが、ソフィーは少年を平手打ちにしてそのまま床に転がしておくはずもなかった。

 彼女は再びしゃがみ込んで、少年の手を引っ張りながら、

「あなたは私が面倒を見るから、テオと一緒に母屋おもやに行っていなさい。あとで話しましょう」

 と、テオドールに目配めくばせをして、この少年を保護することにした。

 ロンバルディア教国成立の歴史を語るのであれば、彼の存在についても当然、触れてゆくことになるであろう。

 少年の名は、ヴァレンテ・ロマーノである。

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