彼からの大事な話

朱ねこ

別れの危機と出会いの春

『大事な話がある』


 そう呼び出されたのに彼は来ない。

 仕事で遅れる旨を伝える彼からの連絡で、私は待ち合わせ場所からすぐ近くの珈琲店で独り彼を待つ。

 手元のカップは空となり、ガラスを通して見える外は真っ暗闇。


 彼と出会って一年目の春。夜はまだ少し肌寒い。

 彼を独りで待つこの時間が、私の期待は外れていたのではないかと疑わせる。

 急いで仕事を終えて、化粧直しをして浮かれていた私は何だったのだろう。途端に虚しくなってしまっていた。


 全然既読にならないメッセージに、雫が落ちていく。


 時の流れはいつもと同じなのに今は酷く遅く感じてしまう。

 最近は彼の仕事が忙しいらしく、彼とのデートもLIMEでのやりとりも減っている。メッセージが来ないのはきっと疲れているから。デートができないのは用事があるから。

 そう考えて、自分に言い聞かせて我慢していた。


 幾度見ても送ったメッセージは未読のままで、ため息が出てしまう。

 私は彼のことを気にしているのに、彼は私のことを気にしていないかのように思えてしまう。

 きっとスマホを見れないほど忙しくて大変なのだろうけれど、本当に忙しいのかすら怪しく感じている私がいた。信じたい気持ちと信じられない気持ちが交差する。


 私は彼のことが大好きだけど、彼はそんなに私のことを好きではないのかもしれない。

 切なさに胸がキュッと締め付けられるようだった。


 貴方が言ってくれた『好き』を信じている。

 それでも、大事な話が悪い知らせなのではないかと心配してしまう。


 一時間経っても来ない彼に私は怖くなってその場から逃げだした。

 逃げたら、追いかけてくれるんじゃないか、そんな淡い期待も持っていた。


 私は彼に好かれている自信がない。

 ネガティブ思考で弱い、そんな自分が嫌いだ。

 そこも私だからと受け入れてくれた彼に私は甘えている。


 帰宅すると、メッセージの通知が鳴った。

 彼だろうか。


 スーツを脱いで部屋着に替えた私は柔らかいベッドに身を沈めるように倒れこんだ。

 きっと私の行動は彼を困らせる。困らせるのは分かっているけれど、あのままずっと独りで彼を待ち続けるほどメンタルは強くなかった。 

 スマホを手に取り、彼の誕生日を入力してロック画面を開き、LIMEを起動させる。


『ごめん。仕事のトラブルで遅くなった。待たせすぎてごめん。会いたい』


 彼からのメッセージに私の心は一瞬満たされる。


「遅いよ」


 彼への不満を呟いて、スマホの電源を落とした。

 期待させたのに酷い人。一頻り泣いた私はいつの間にか眠っていた。


 朝起きて腫れた瞼を軽く擦って、スマホを見る。LIMEの通知が五件。

 全て彼からのメッセージだった。


 夜に四件、朝に長文で一件。

 要約すると、私が返事をしなかったから不安になった。ずっと気になって私のことを考えていたら眠れず、朝になっていた。私とは別れたくないから、もう一度会って話がしたいとのことだ。


 メッセージからは、彼の焦りや不安がよく伝わってきて泣きたくなった。


『初めて会った場所で待ってる』


 メッセージを送信してシャワーを浴び、身支度をして出勤する。昨夜お風呂に入らず、寝落ちしてしまったせいで時間はぎりぎりだった。

 彼と出会ってから、私の世界はまるで彼を中心に回っているようだ。彼との出会いから想いはますます募り、今はどうしようもないほどに溢れ出している。


 振り返ると楽しかった思い出が沢山ある。デートで初めて手をつないだ時は照れてしまって会話がぎこちなくなってしまったり、家でベタベタとくっつきながら映画を観たり、他愛もないお喋りをして笑い合ったり、彼といる時間はいつでもどこにいようと幸せだった。


 彼がまた待ち合わせ場所に来なかったら、その時は絶対に許さない。

 私はいつも通り業務を終え、定時で退勤した。今日も問題なく順調に仕事を終えられた。


 会社から歩いて十分の小さな公園の前に設置されている自動販売機で温かいほうじ茶を買う。一つの電灯により照らされた、公園の入り口付近にあるベンチに座る。

 公園には、滑り台に鉄棒、ブランコと三つの遊具しかない。夜は人気がなく、昼間の様子は知らない。


 去年の今頃、彼とは此処で出会った。私は職場の人間関係に悩み、落ち込んでいた時にふらふらと散策して辿り着いたのがこの公園だった。

 その時、偶然居合わせた彼に声をかけられた。怪しい人かと警戒していたが、どうも仕事に疲れている様子だった。


『悩んでいることがあるなら話を聞くよ。話すだけでも、少しは変わるかもしれないしね。知らない人同士だから遠慮することもない』


 出会って間もない人間に気づかれるほど酷い顔をしているのだろう。視線を落として、左手を支えに頬杖をついた。

 一人で抱えることに限界が来ていた私は、見ず知らずの彼の言葉に甘えて悩みを打ち明けた。彼は真剣に聞いてくれて、相談にまで乗ってくれた。


 彼は話したいことがあった時の話し相手として立候補してくれた。どこにも頼れる人がいない私は彼と連絡先を交換してしまった。


 それから、彼とはたまに連絡を取り合い、お互いが都合の合う日に会うようになった。いつしか彼とのやりとりが日課となり、私の楽しみになっていた。


 彼と関わるうちに少しずつ彼を知っていく。


 彼のことは思いやりがあって落ち着いた大人だと思っていた。でも、違った。

 本当はそれだけではない。大人をやっているだけで、中身は自信のない臆病な人だと気付いた。

 似ているところを感じた私はどうしても彼のことが気になってしまい、踏み込んだ。


 彼は、自身の価値を見出せないでいる人だった。

 だから、私は好意を伝えた。私の日常を楽しく彩ってくれる特別な人だと告げた。


 必死の告白に彼は驚き、喜んでくれた。

 いつからか彼は応えてくれるようになり、明確な言葉はなかったが恋人のようになっていた。

 この曖昧な所も不安になる要因の一つかもしれない。


 そろそろ来るだろうか。

 公園の入り口から走ってくる人影が見えた。


「待たせた!!」


 彼は息を切らして膝に手をつく。いい大人が全力疾走でもしたのだろうか。彼の首には緩んだネクタイが垂れていて、きっと息苦しかったのだろうと想定できる。


「これでも急いできたんだけどやっぱり遅かったか。昨日も俺から呼び出したのに、すまなかった」

「待ちきれなかったから帰ったよ」


 ぷいっと顔をそらし、家まで追いかけて来てよという皮肉も交えて伝える。

 彼は案の定困った顔をした。


「ごめん。今日も待っていてくれてありがとう」

「いいよ、来てくれたから」


 初めて出会った場所も覚えていてくれた。その事実が嬉しい。

 私の言葉に彼はほっとしたらしく安堵の表情を浮かべた。


「ありがとう」

「うん」

「昨日大事な話があるって言っただろう。聞いてくれないか?」

「うん」


 大事な話とは、結局何だっただろうか。道路を走る車の音でさえ、私の耳から遠ざかる。

 緊張か不安のせいか、震えてしまう私の右手を彼は両手で包んだ。彼の温もりに少しだけ心が落ち着いてくる。


「俺と、結婚してくれないか?」

「……っ!」


 結論から言えば期待していた通りで、好きな人から言われたかった言葉をもらえて、私の涙腺は緩んでしまう。

 意味を成す声が出ず、返事ができなくて、こくこくと縦に頷いた。


 泣きじゃくってしまい、彼は笑って落ち着くまで頭を撫でてくれた。期待はしていても、まさか大好きな人に求婚される日が来るなんて思わなかった。

 彼は跪いて、私の右手を取り、薬指に見覚えのない指輪を通した。


「これ……」

「婚約指輪。何軒も見て、悩んだよ」


 手を目の前にかざしてみる。私のサイズにぴったりでいつ測っていたのだろう。

 ワンポイントで銀色に輝く指輪が煌びやかで特別な物に見えた。


 薬指にはまった彼と婚約する証となる指輪に私はにまにましてしまう。最近会えなかったのはこれのおかげだっただろう。


「嬉しい!」


 私は私の視線に合わせてしゃがんでいた彼にぎゅっと抱きついた。


「ずっと、近くにいてね?」

「もちろん」


 心からのおねだりに、彼は腕を私の背中に回し力強く抱きしめてくれる。

 私の心は幸せな気持ちでいっぱいに満たされていた。

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