沙羅双樹

かなぶん

沙羅双樹

 全てを斬り捨てた男の目には、ただ彼女だけが映っていた。

 常軌を逸した瞳が大股で近寄る様に、思わず後退りかけた足をその場に留めていれば、大きく広げられた腕が問答無用で彼女を掻き抱く。

「ようやく、この腕に……!」

 久しぶりに聞く掠れた低い声は、隠しきれない熱を帯びていた。

 男にしては冷静さを欠く、情欲を滲ませたソレ。

 聞いたことのない色を耳にし、彼女は押しつけられた胸の中で唇を緩めた。

 ――あまりに滑稽だ、と。

 血の臭いが漂う教会で、平時のように愛を誓わんとする男へ向けて。

 一方的な熱い抱擁の中で、彼女は目を閉じ、これまでを思い返す。


 初めて男と出逢ったのは、まだ彼女が浮浪児だった頃。

 女というにはまだ幼い彼女が劣情を押しつけられようとし、これを払うため、初めて殺人を意識した時に、割って入ったのが彼だった。

 後にこの地方、否、この国で一位二位を争う騎士と知る男の剣技は鮮やかで、助けを当然として去ろうとする裾を、彼女は力一杯引っ張って引き留めた。職務に忠実で冷淡な騎士は、すぐに彼女の喉元へ切っ先を突きつけたが、殺意を覆した剣技を気に入った彼女に恐れはなく、ただ、身なりと所作から上流階級と分かる男へ申し出る。

 ――こんなところへあんたみたいのが来るなんて、余っ程のことだろ? ガキでもアタシの方がここのことはあんたより知っている。だから、助けてくれた礼に手伝ってやるよ。

 渋る顔を見つけたなら、すぐさま金を要求した。

 ”みすぼらしい哀れな子どもに金を恵んでやる”というのは、上流階級にウケが良いと知っていたから。

 男もこの要求を受け入れた。

 ただし――他言無用を破れば斬り捨てる、と脅しを付け加えて。

 彼女は更に男を気に入った。

 男の言葉は彼女を浮浪児と軽んじず、対価を支払うに足る情報源と認められたと。

 実際のところは、分からない。

 ただ、彼女は期待に応えようと、ある人物の情報を集め始めた。

 十数年前、何者かにより攫われたという領主の子ども――。

 かねてより子どもの捜索は行われていたそうだが、今になって騎士が捜索に加わったのは、攫った一味の一人が捕まり、我が身可愛さから領主の子どもの情報と引き換えに、減刑を求めたためだという。応じるに似せて、内々に処理されたその者の話によると、襲撃後の逃走中に彼女が住む界隈に落とし、拍子に泣き出したため、慌てて放置したらしい。

 正直、この辺りではよくある話だったため、彼女の感想は「ふーん」だけ。

 彼女自身も、彼女が仲間と呼ぶ同年代の者たちも、皆、似たり寄ったりな出自でこの場所に住み着いている。

 そして、よくある話である以上、情報集めは苦労の連続だった。中でも大変だったのは、忠義に厚い騎士が、依頼主のくせに大して情報をくれなかった、という点。

 真偽を図るため、子どもの性別さえ教えて貰えず、仕舞いには「アタシだったりするんじゃねーの?」と投げやりに言ってみたことさえあった。


 それがまさか真実とは欠片も思わないままに。


 遅々として進まぬ領主の子どもの情報集めに伴い、流れる月日。

 成長に従い周囲の人間関係にも変化があるなら、彼女と男にも重ねた年月の分、変わる想いがあった。

 騎士に結婚話があれば彼女が。

 彼女に誰かが言い寄れば男が。

 それがどういう意味か分からないほど、子どもでもなければ、人非人でもない二人は、次第にその距離を縮めていった――しかし。

 蜜月は唐突に終わりを告げた。

 彼女の身体に刻まれた領主の子どもの証を、忠臣が知ってしまったために。

 何より大きく変えてしまったのは、身分違いの二人を茶化しながらも応援し、支えてくれた者の不在。

 明らかになった身分により、正式に領主の子として迎えられ、一人翻弄されるしかなかった彼女は、個人の感情より公の忠義を取った男を恨み、拒絶した。


 それが誤りと知ったのは、後のこと。


 彼女が領主の子どもと知らせたのは、男ではなく、他の者だったとその者自身から明かされた彼女は、しかし、その頃にはもうすでに次代の領主となっていた。

 いや、それよりも遥か先を見据える、大国の――。

 甘い時を過ごす少女の夢は、領主代理としてこの地より栄えているはずの王都を訪れた時に、終わりを迎えていた。

 怠惰な王政に、貪欲な臣下。略奪か、諦めしか知らぬ国民。

 華やかに腐敗しきった、憧憬も崩れ落ちる死の都。

 一目それを見、体感してしまったなら、再び男と対峙したとて、同じ想いに囚われる暇などない。彼女はただ、騎士であることを男に望む。


 彼女には幼き頃、自らの境遇を哀れんだ時代があった。

 自分に力があれば思うままに変えられると、不遇を嘆く時代が。

 けれど今、彼女には力があり、従う者たちがいる。

 この国の未来を憂い、彼女が領主として立つ前より行動し計画する者も。

 それら全ての想いを背負う彼女にとって、男との出逢いはすでに別の想いへと昇華されていた。

 すなわち、この国の未来の礎となることが、他の誰でもない彼に見出された意であり、彼の働きへ報いる唯一の術なのだと――。


 だというのに、これはどういうことだろう?

 離される身体に合わせて目を開けた彼女は、欲望に濡れ濁る瞳と交わして思う。

 あの後――再会した男へ、騎士であることを求めたあの後、男は領主の城から消え、風の噂で領主を狙う賊に成り下がったと耳にした。

 男の技量を思えば信じたくはない話だが、ゾクリと泡立つ想いもあった。

 領主として生きると決めた彼女を、未だに彼は女として求めている、と。

 それは……彼女にとって、とても甘美なモノであった。

 程なく、領主の城を襲撃するという企みが、まことしやかに聞こえてきたなら、彼女は一計を案じる。

 もしも本当に、彼が賊の一味となり、彼女を狙うならば……。

 そうして賊の襲撃に併せ、この教会に少ない護衛と共に籠もっていれば、こうして目の前に、真っ直ぐと彼女を求める男が現れた。

 本当に、来てくれた……。

 思わず笑みが零れたなら、歪んでいた男の瞳が優しく揺らぎ、寄せられる唇。

 そして――


 男の身体が大きく揺れ、後ろに倒れ伏す。


 一人立つ彼女の手は、真っ赤に塗れていた。

 表情には変わらぬ笑みを携えて、大きく抉られた胸を晒す男へ言う。

「ありがとう。わたくしの騎士よ。貴方の”名誉ある死”は決して無駄にしません」

「――――」

 男の唇が何かを呼ぶように動くが、結局声にはならなかった。

 徐々に熱が奪われていく瞳を見つめながら、相変わらず微笑む彼女は告げる。

「貴方は倒れた護衛の代わりにわたくしを助け、そして、賊の最期の足掻きによって、彼らの作った魔石の爆発を受け、死を迎えました。……そう、貴方は賊ではなく、わたくしの騎士として死ぬことになるのです」

 その死を真実悼むように、彼女は瞳を伏せた。

 一つだけ、大きく息をつく。

「……貴方の死は、わたくしの騎士たちの――この地の戦力を増強するでしょう。国で名を馳せた貴方を殺せるような賊のいる地、あの王都とて見過ごすことはできないはず。貴方の死は、わたくしを大いに助けてくれます」

 貴方の意思とは無関係に。

 噤み、斃れた男のそばで跪いては、魔石越しではない手で硬い頬に触れる。

 そうして、男が生前望んだ通りに唇を寄せると、口にした血と唾を絡めがてら立ち上がり、床に吐き捨てた。


 賊の襲撃は程なく制圧された。

 残った事実は、賊が生成したモノと全く同じ魔石で、一人の騎士が死んだこと。

 その騎士の名は遠い王都を震え上がらせ、領主の望むままに金がバラ巻かれた。


 これより先も、彼女の謀に則り、この国の歴史は刻まれていくことになる。

 彼女の導きにより即位した王が、彼女を断頭台の露とするまで――

 最期のその時を迎えるまで、全ては彼女の謀の通り、綴られる。

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沙羅双樹 かなぶん @kana_bunbun

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