第三章 新たな王太子

第十七話 兄の本心

 シュツェルツは廊下を歩いていた。兄の部屋に行くために。背後を守るのはエリファレットだ。

 アルトゥルの体調は一向に回復する気配がない。彼のほうこそ少しずつ毒を盛られているのではないか、と疑ってしまうほどだ。

 シュツェルツはあまり先のことは考えないように努めながら、近衛騎士が脇にたたずむ、アルトゥルの部屋の扉を叩いた。


「シュツェルツです」


 返事はなかった。母は今、席を外しているのかもしれない。現在のアルトゥルは大きな声を出すのも辛そうなのだ。

 シュツェルツがどうすべきか迷っていると、近衛騎士が声をかけてきた。


「王妃陛下はただ今、お席を外しておいでになります。殿下がおいでになったら、お気になさらずお入りになるように、とのことでございます」


「分かった。ありがとう」


 近衛騎士が扉を開けてくれた。控えの間に向かうエリファレットと別れ、シュツェルツは中に入った。


「兄上……」


 声をかけながら寝台に近づいていく。

 天蓋カーテンの内側で、アルトゥルは仰向けになったまま、ぼんやりと虚空を見つめていた。


「兄上?」


 シュツェルツが再び声をかけると、アルトゥルはようやくこちらに気づいたようだった。


「シュツェルツ……来ていたのか」


「はい。あの、お具合が悪いようなら、僕は帰りますが……」


「いや、ここにいてくれ」


 シュツェルツは頷き、普段座っている椅子にかけた。

 アルトゥルはしばらく黙り込んでいた。真上に視線を向けたまま、ぽつりと呟く。


「叔父上から、イペルセの話を聞いたんだ……」


「僕も聞きました。イペルセはマレよりもさらに温暖な、美しい国だそうですね」


 シュツェルツが話を合わせると、アルトゥルの声が掠れた。


「わたしもイペルセに行ってみたい……シーラムにも……」


「病が治ったら、いつかおいでになれますよ」と言うのは容易い。だが、それが不可能なことだと薄々分かっているシュツェルツは、何も言えなかった。


「……わたしは、死ぬのが怖い……もっと……もっと生きたい……」


 アルトゥルの目から大粒の涙が溢れた。涙は次々とこめかみに流れ落ち、枕を濡らしていく。

 兄の弱音を聞いたのは初めてだった。兄はいつも笑顔で、楽しい話しかしなかったから。だが、それは兄の本当の姿ではなかったのだ。


(兄上は笑顔の裏でいつも戦っていたんだ……死の恐怖と)


 シュツェルツは手を伸ばし、兄の手をそっと握った。自分が兄と同じ状況になったら、アウリールはこうしてくれるだろうと思った。

 兄は驚いたようだったが、嫌がってはいなかった。


「……そなたの手は温かいな」


 思い返してみれば、兄に触れるのは初めてだった。

 シュツェルツはなんだか恥ずかしくなり、照れ笑いを返す。

 その時、扉を叩く音がした。シュツェルツは思わずアルトゥルから手を離す。


 母だろうか。

 涙に濡れ、目が赤くなったアルトゥルの顔を再度見たシュツェルツは、これはこうなった経緯を詰問されるな、と思った。何しろ、母は全てをアルトゥル中心に考えている。少しでも異変があれば、それは傍にいた者のせいなのだろう。


 返事を待たずに入ってきた母は、シュツェルツを見ると、「あら、来ていたの」とだけ口にした。そのあとでアルトゥルの様子を見て目を見開く。


「アルトゥル……泣いていたの? シュツェルツに何か言われたの?」


 ああ、やっぱり。

 シュツェルツは叱責されることを覚悟した。


「母上、それは違います」


 アルトゥルが静かなようでいて、力強い口調で答えた。


「むしろ、わたしのほうがシュツェルツを困らせてしまったのです。最近、色々と疲れていて。話している最中に、突然、涙が出てきてしまいました」


「まあ……そうだったの。お薬を飲んで少し眠ったほうがいいわ。……シュツェルツ」


 何を言われるのだろう。

 母に名を呼ばれ、シュツェルツは肩を跳ねさせた。


「は、はい」


「疑って、悪かったわね」


 母にそんなことを言われたのは初めてだったので、シュツェルツは嬉しいと思うより先に困惑してしまった。


「いえ……お気になさらず」


 母は頷いたあとで、チェストの引き出しから薬を取り出す。睡眠薬だろう。薬を差し出された兄は、おとなしくそれを口に含み、母に吸い飲みで水を飲ませてもらった。


(兄上は、母上に気を遣っている……)


 本来、穏やかで気質の優しいアルトゥルは、家族に対して過剰に気を遣う必要などない。だが、自身の時間を削り、献身的な看護をしている母には、その優しさゆえにやはり気を遣ってしまうのだろう。

 母から与えられる愛情に応えようとするあまりに。


 それは、シュツェルツとアウリールの、言いたいことをなんでも言い合える気安い関係とは、ずいぶん違っているように思えた。

 シュツェルツと兄は年子で、互いにたった一人の兄弟だ。だからこそ、兄は先ほどの弱音を吐けたのだろう。


 兄が気の毒だった。母に溺愛されているがゆえに、ずっと孤独であり続けねばならなかった兄が。

 気づくと、シュツェルツはアルトゥルに声をかけていた。


「兄上、僕でよろしければ、いつでも参りますから」


 いつか最後の日が訪れるとしても、それまでは、必ず。


「ありがとう、シュツェルツ」


 アルトゥルは弱々しい笑みを浮かべると、つかの間の眠りに落ちるために目を閉じた。

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