第九話 過去が見せる光と影

 アウリールは北殿内の椅子に腰かけ、シュツェルツとエリファレットを待っていた。

 不意に、ベアトリーセの泣き顔が脳裏に浮かぶ。あれは、彼女と最後に会った日の顔だ。

 ともに逃げよう。アウリールがベアトリーセの細い肩を掴みながらそう迫ると、彼女は言った。「あなたに、シュツェルツ殿下が見捨てられるの?」と。


 あの時、アウリールは答えるべき言葉を持たなかった。駆け落ちがもし失敗した場合、自分は処刑されるだろう。そうなれば、シュツェルツの心は死ぬ。それが痛いほど分かっていたからだ。

 ベアトリーセは賢く優しい女性だった。涙に頬を濡らしながら、「あの方には、あなたが必要なのよ」と懸命にほほえんでいた。


(すまない……ベアトリーセ)


 自分は彼女よりもシュツェルツを選んだのだ。

 アウリールとベアトリーセのために国王と掛け合ったシュツェルツは、彼女を救えなかったことを泣きじゃくりながら詫びた。


 ただの少年に戻って泣くシュツェルツを思わず抱きしめ、アウリールは心の底から痛感した。このお方を見捨てなくてよかった、と。

 あの時、シュツェルツが自分たちのために行動してくれたことがどれだけ嬉しかったか。


 アウリールは自分の両手をじっと見つめた。

 シーラムを出る前、アウリールはシュツェルツに王太子になって欲しいと伝えた。人の痛みを知るシュツェルツが国王にならなければ、この国の未来はないと思った。


 そうは言っても、シュツェルツはまだ十四歳。しかも、王太子になるためには兄王子の死を待つ必要がある。そんな酷なことを十一も年下の彼に託してもよいものだろうか。


(俺は、殿下のお傍にいるべきなんだろうか……)


 そう考えた時、シュツェルツの声が聞こえたような気がして、アウリールはハッとした。


 ──アウリールが死ぬなんて嫌だ! ずっと傍にいてよ!


 そうだ。シュツェルツは確かにそう言っていた。

 三年前も、アウリールは同じようなことを考えていた。

 当時、ベアトリーセが側妾になって間もなくのこと。アウリールはシュツェルツの嘆願のおかげで侍医の地位のまま、変わらず彼の側仕えでいることを許された。

 だが、ベアトリーセの恋人だったアウリールの周囲では変化が生じていた。


 ついこの間まで親しげに言葉を交わしていた同僚や女官たちから避けられるのだ。みな、国王の不興を買うことを恐れたのだろう。エリファレットだけが今まで通りに接してくれた。


 こんな状態で殿下にお仕えし続けてもいいのだろうか。いつか殿下の足を引っ張ってしまうのではないか……。


 心密かに悩んでいた頃、シュツェルツが初めて暗殺者に襲われる事件が起きた。

 刃を持った暗殺者が迫ってきた時、アウリールはとっさにシュツェルツを抱きしめて庇った。「邪魔だ!」と怒鳴る暗殺者に剣の腹で殴られ、頭を打ってからのことは覚えていない。


 気づくと、アウリールは東殿にある自室の寝台に寝かされていた。傍らには揃って心配そうな顔をしたシュツェルツとエリファレットの姿があった。アウリールが気を失っている間に、暗殺者はエリファレットによって倒されたということだった。

 ここまで運んできてくれたのもエリファレットらしい。その割に、真面目な友はすまなそうな表情をしていた。


「すまぬな、俺が出遅れたばかりに」


「いや、大丈夫だよ」


「大丈夫なわけがあるか。頭を打ったのだぞ」


「まあね。頭を打っていると、一見元気そうに見えても、あとでポックリいくことがあるから」


 冗談めかしてそう言った時、今まで黙っていたシュツェルツが叫んだ。


「アウリールが死ぬなんて嫌だ! ずっと傍にいてよ!」


「殿下……」


 アウリールが声をかけると、シュツェルツは今にも泣き出しそうに整った顔を歪め、ぎゅっと毛布を握りしめていた。

 シュツェルツはまだ十二歳。両親の愛情を得られなかった彼にとって、九歳からともに過ごしてきた自分は親兄弟と同等の意味を持つのだ。

 アウリールはほほえみ、心を込めてシュツェルツの頭を撫でた。


「大丈夫です。殿下のご成長を見届けるまでは、何があっても死んだりいたしませんよ」


「……本当?」


「はい、本当です」


 その時、アウリールは決めた。この先、何があってもシュツェルツ殿下にお仕えし続けよう、と。


(そうか……)


 なんのことはない。既に答えは出ていたのだ。

 シュツェルツが乗り越え難い壁をよじ登ろうとしているのなら、傍らで手を貸せばいい。


(それでこそ、ベアトリーセ、君と出会った意味がある……)


 アウリールは落としていた視線を前に向けた。

 外への扉が開く音がした。シュツェルツとエリファレットが戻ってきたのだ。

 アウリールは席を立ち、扉の前でシュツェルツたちを出迎えた。

 見れば、シュツェルツの艷やかな黒髪が少し雨に濡れている。アウリールはハンカチを取り出し、シュツェルツに差し出した。


「雨が降ってきたのですね。どうぞ、こちらをお使いください」


「ありがとう」


 シュツェルツは目を細めてハンカチを受け取り、頭や肩を拭き始めた。


「あとで洗濯してもらってから返すよ」


 洗濯をする者がいる、というごく当たり前のことをきちんと理解しているシュツェルツの聡明さが、アウリールはことのほか嬉しい。自分のことは自分でする、という校訓のシーラムの学院に在籍した甲斐はあったようだ。

 シュツェルツが歩き出す。


「東殿に帰ろう」


 アウリールとエリファレットの声が重なった。


「かしこまりました」


 北殿内のもと来た道を戻る途中、供を連れた六十歳ほどの男が向こうから歩いてくるのが見えた。シュツェルツの姿を目にすると、壁際に下がる。

 確かあれは、王太子派の巨頭、大神官ハルヴィロ・ガイアー。

 シュツェルツは目顔でガイアーに応えると、そのまま通り過ぎる。

 エリファレットが潜めた声で告げる。


「聞くところによりますと、ガイアー殿は国王陛下に罷免されたそうでございます。今では神官長だとか」


「絶対に兄上以外の王太子は認めないと主張していたから?」


「そのようでございますね」


「僕の最初の暗殺未遂に一枚噛んでいたのかもね」


 あるいは、昨日の事件も。そう思ったものの、アウリールは口には出さなかった。シュツェルツならば、容易に考えつくことだったからだ。

 代わりにホワイトブロンドの親友をからかうことにする。


「エリファレット、いつの間に情報通になった?」


 エリファレットは渋い顔をする。


「俺はお前と違って、組織の人間だからな。近衛騎士団の結束力と拘束力を甘く見るなよ」


 ぶっきらぼうに聞こえる台詞。けれど、アウリールには分かる。帰国後も孤立しがちで微妙な立場の自分を、エリファレットはそれとなく気遣ってくれているのだ。


「頼りにしているよ」


 アウリールはエリファレットに笑顔を向けた。自分は主君と友に恵まれている、と心から思いながら。

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