覆面と彼

石花うめ

覆面と彼

「誰かー! その人を止めてくださーい! ひったくりですー!」


 ああもう、最悪!

 せっかくの休日、服を買おうとして商店街に来たのに、財布が入ったバッグをひったくられるなんて!

 しかも、私が呼びかけても、誰もひったくりを止めようとしてくれないし! 

 ブーツ履いてるから走れないし。

 もうやだ!


 私は地面にへたり込んだ。

 泣きそうになりながら、遠ざかるひったくりの背中を見る。


 その時。

 ひったくりは、前方から向かってきた屈強な大男にカウンターのラリアットを食らわされて、地面に叩きつけられた。

 真下に振り下ろすような、強烈なラリアットだった。

 大男は、完全にノックダウンしているひったくりに馬乗りになると、「警察を呼んでくれ」と周囲の野次馬に呼びかけた。


 警察が来ると、大男はひったくりを警察に差し出し、私にバッグを返しに来てくれた。

「これ、姉ちゃんのだろ?」

 岩山のように大きな男の身体は、近くで見るとより迫力がある。全身を覆っているゴツゴツとした筋肉は、飾りではなく、生きるために身につけた武器のようだ。

 大男は私の手を取って、脚に力が入らない私を立ち上がらせてくれた。

 身体の大きさに威圧されてしまったけど、すごく優しい人だと思った。

「あ、ありがとう、ございま——」

 大男の顔を間近で見た私は、一瞬言葉を失った。

 大男の目蓋の上には、耳にかかるくらい大きな十字の縫い傷があったのだ。

 もしかしたら、とんでもない人に助けられたのかも。私は一転して警戒を強めた。

 大男は、私がその傷を見たと気付いたらしく、ぎこちない笑顔を作って問いかけてきた。

「姉ちゃん、この傷跡が怖いかい?」

「あ、いえ! ごめんなさい、つい、見てしまいました」

 私の反応を見た大男は「いいよいいよ」と言い、うろたえる私を手で制した。

「こんな仕事をしてりゃ、怖がられることなんざ日常茶飯事だからよ。むしろ怖がらせるのがプロのヒールってもんだ」

「……ヒール?」

「そうさ、オレはプロレ——。いや、すまない姉ちゃん! 今のは聞かなかったことにしてくれ!」

 大男は慌てて、大きな手で顔を覆いながら走り去ってしまった。


 一体どうしたんだろう……?

 もしかしたら、警察に厄介になることを恐れたのかな?

 私はその背中を見ながら、やっぱり普通じゃない人だと思った。言い寄られたりしなくてよかったと、少しほっとした。


 返してもらったバッグを握りしめ、アパレルショップに行こうと歩き出す。

 しかし、歩きながらも、大男が去り際に言おうといていた言葉の続きを考えてしまう。

 あの人、なんて言おうとしてたんだろう?

 たしか、プロレ——って言いかけて……。

 ……プロレ、ス?

 ……プロレス、ラー?

 ……プロレスラー!

 一瞬まさかとは思ったが、咄嗟に出したラリアットに、あの逞しい体は、間違いなく私がイメージしているプロレスラーそのものだった——。



 ——どうしよう。

 あの人に後ろ髪を引かれる思いで、プロレスの試合会場に来てしまった。

 あんなことがあった後に、商店街の電柱に貼ってあったプロレス大会のポスターを見たのがいけないんだ。

 それにしても、プロレス会場なんて初めて来たけど、意外と女性ファンが多くて驚いた。

 客席全体を見渡してみると、飾り付けられたうちわやグッズを持っている人が大勢いる。まるでアイドルのライブ会場みたいだ。


 イメージと違う雰囲気に戸惑っていると、会場が暗転した。

 爆音で入場曲が流れ始める。

 入場ゲートにはスモークが焚かれる。

 華やかなコスチュームに身を包んだ選手たちが入場ゲートから現れ、花道を闊歩する。

 大きく引き締まった腕の筋肉に、コスチュームの隙間から見えるシックスパック。髪の色もカラフルで、私が思っている何倍も、プロレスラーはオシャレだった。

「……みんなイケメンだ。プロレスラーって、こんなにカッコいい人ばっかりなの?」

 思わず私がつぶやくと、隣に座っていた私と同い年くらいの若い女性が反応して話かけてきた。

「ね! みんなイケメンでカッコいいよね! あなた、プロレス観に来るのは初めて?」

「はい! 私、プロレスって、大きくて武骨な男の人が黒いパンツ履いて試合する、男臭いイメージがあったんですけど、今って全然違うんですね!」

「そうそう! 今どきのレスラーはみんな、ボディービルの大会にも出られるくらい、いい身体してるのよ! でも、試合内容は昔からの伝統を受け継いで、バチバチの肉弾戦を見せてくれるから、楽しみにしててね! ほら、試合が始まるよ!」

 カーン!

 ゴングが鳴らされて、試合が始まった。


 四角くて狭いコバルトブルーのリングの中を、大柄の選手たちが縦横無尽に駆け回り、激しくぶつかり合う。

 ガタガタとリングを踏み鳴らす音。

 肉体と肉体がぶつかり飛び散る汗の飛沫。

 場外の鉄柵に選手が衝突したときの衝撃。

 そして、選手の一挙手一投足に対して起こる、拍手と歓声の波。

 全て私が今までに味わったことのない刺激だった。


 私は少しずつ会場の雰囲気に飲み込まれていって、セミファイナルの試合が終わる頃には、隣の女性と一緒になって大声で応援していた。


 そしてメインイベント。今日の最終試合。

 エレキギターの派手な入場曲が流れ始めた。

「岡橋太一くんが来るよ! めっちゃ強くてカッコいいから、目離しちゃダメだからね!」

 隣の女性は、岡橋太一という選手が推しらしく、「たいち」と書かれたうちわを振り回している。

 岡橋選手が入場してきた。金髪に金色のガウンを羽織った、豪華絢爛を絵で描いたような選手だ。

「きゃー! 太一くーん!」

 岡橋選手がリング中央で両手を広げてポーズを取ると、会場は一際大きく沸いた。


 しかし、次の瞬間。

 沸き上がった歓声は一瞬でブーイングに変わった。

 大柄の覆面レスラーが岡橋選手の後ろから忍び寄り、チャンピオンベルトを使って殴り倒したのだ。

 倒れ込む岡橋選手。


 何がなんだか分からないうちに、試合開始のゴングが鳴った。

「くっそー! またあいつ⁉︎ もう! 太一くんのパフォーマンスを邪魔するなんて許せない! しかもタイトルマッチで!」

 隣の女性はブーイングを飛ばしながら怒っている。

「あの覆面レスラーが、岡橋選手の対戦相手なんですか?」

「そうよ! エル・ラスグニオっていう、メキシコ帰りの覆面ヒールレスラーなの!」

「『ヒール』って何ですか?」

「ヒールってのは、悪役レスラーのことよ。反則とかセコンドの介入とか、汚いことばかりしてくるの。あいつもそう。少し前まで他の団体でハードなデスマッチをやってたらしくて、反則技が得意なの。厄介なヤツだわ!」


 試合は岡橋選手が劣勢のまま進んでいく。

 覆面レスラーは、今日登場した選手の中で一番身体が大きく、岡橋選手の打撃が全く効いていないように見える。

 そして、岡橋選手が攻撃を繰り出そうとすると、グーパンチなどの反則攻撃をしてペースを乱す。

 そのたびに、観客からの容赦ないブーイングが覆面レスラーに浴びせられた。


 しかし、試合が進んでいくにつれて、次第に岡橋選手も反撃し始めた。

 覆面レスラーの右肩に蹴りや関節技を食らわせ、ダメージを蓄積させていく。

 岡橋選手の攻撃が当たって覆面レスラーが右肩を押さえる度に、会場が沸いた。

「なんで岡橋選手は、右肩ばっかり攻撃するんですか?」

「エル・ラスグニオのラリアットが危険すぎるからよ」


 試合開始から三十分が過ぎた。

 張り手を食らった岡橋選手がフラフラの状態でリング中央に立ち尽くしていると、覆面レスラーが「フィニッシュだ!」と叫んだ。

 そして、親指で首を掻っ切るポーズを取ると、ロープに勢いよく走り出した。

「ヤバい! あのラリアットを食らったらもう立てないわ! 太一くん、避けて!」

 隣の女性が目をつぶる。

 次の瞬間、ロープの反動をつけて加速した覆面レスラーの太い右腕が、岡橋選手の首にめり込んだ。

 一瞬宙に舞った岡橋選手の身体は、頭から真っ逆さまにマットに刺さり、力無く横たわった。

 覆面レスラーが右肩を押えながら、岡橋選手の上に覆いかぶさる。

 レフェリーが三回マットを叩き、勝負が決まった。

「くそぉ、あんなヤツが王座防衛なんて……。太一くん……」

 私の隣から、女性の涙ぐむ声が聞こえる。

 しかし私は、ベルトを巻いてリングに仁王立ちする覆面レスラーから目が離せなくなっていた。


 覆面レスラーの放った強烈なラリアットは、真下に振り下ろすような独特なラリアットだったのだ。相手をなぎ倒し、ねじ伏せる。獣のようなラリアット。

 私はそれに見覚えがあった。

 間違いない。覆面レスラーの正体は、私をひったくりから助けてくれた、あの大柄な男だ。

 ブーイングが飛び交う会場の中で、私は気付いたら立ち上がって「防衛おめでとう!」と叫んでいた。

 覆面レスラーが私の方を見て少し微笑んだ気がした——。


                   ・


 私が起きてリビングに行くと、二人分の朝食がテーブルに並べられていた。

 スクランブルエッグとトースト。彼のトーストは四枚で、私のトーストは二枚。彼のお皿には、山のように盛られたスクランブルエッグ。

 キッチンに行くと、彼はスムージーを作ろうとしていた。ミキサーの中にリンゴやバナナをポンポンと入れている。

「おはよう。朝食作ってくれてありがとう。でも、あなた今日、試合があるんでしょ? ゆっくり身体休めてよ」

 彼は持っていたリンゴを置いて、私の方を見た。

「おう、おはよう。こうして動いてた方が、俺は気が紛れる。だから気にするな」

 相変わらず、優しい人だな。

「今日はいよいよタイトルマッチだね」

「ああ。岡橋の野郎、今日のタイトルマッチでボコボコにしてやるからな!」

 彼は拳をゴキゴキと鳴らす。

「今日の試合で岡橋選手に勝ったら、三年ぶりに王座奪還だ」

「ああ! 今夜は祝杯だな。ワインを用意しておいてくれ。 ——そういえば、俺がこの団体で初めて王座を防衛したときも、相手は岡橋の野郎だったな。その試合、お前が会場に観に来てくれてた」

「あの興行が、私のプロレス初観戦だったのよ」

「今日も観に来てくれるか?」

「もちろん!」

 私が答えると、彼はニヤッと笑った。

「俺が勝っても、会場で『おめでとう!』とか叫ぶんじゃねえぞ」

「うん、分かってる。あなたはヒールだもんね。……でも、ずっとブーイングをもらうのは辛くない?」

 彼は私の問いかけに答えるわけでもなく、のしのしと私に近付いてきて、太い腕で私の身体を抱きしめた。

「お前がいてくれるから、俺はヒールとして頑張れるんだ。デスマッチをしていたときの目蓋の傷をもう一度切っちまえば失明の恐れもあると医者に言われて、それを隠すために覆面のヒールレスラーになった。だが、ヒールってのは、俺が思ってた以上に精神的なダメージがたまる仕事だった。それに、あの防衛戦中に右肩を怪我しちまったから、もう俺のレスラー人生は潮時だと思ってた——」

 私を抱く腕に、さらに力が入る。

「——だけどよ、お前は一人だけ、あの会場で俺の勝利を喜んでくれた。ブーイングをもらうヒールとしては喜ぶべきでないと思ったが、素直に嬉しかったんだ。お前のために、俺はずっとリングに立ち続けたいと思えた。その気持ちは今も変わらない。お前さえいてくれれば、俺はどんな辛くて苦しいことでも乗り越えられるぞ」

「うん」

「だからよ、ありがとな」

 彼は私の唇にキスをした。


 最凶の覆面ヒールレスラー、エル・ラスグニオ。

 私しか知らないその素顔は、目蓋の上の大きな傷が特徴的な、強くて優しい、私の恋人だ。


 そして私は、今日も試合会場で彼にブーイングを送る。

 大勢の観客の中でたった一人、心の中で彼の勝利と無事を祈りながら。


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