第四章 久美子

夏の夜の二人

 久美子には、兄が一人いた。

 家は、兄中心に回っていた。

 一人息子、跡取りとして、それは大事にされ、兄の身の回りのことはすべて母がやっていた。


「女の子は、いずれ嫁に行くんだから、自分のことは自分でやりなさい」


 と、母に言われ、久美子もそんなものだと思っていた。その兄が受験ともなれば、少しの物音にも気を付けて、ひっそりと暮らさなければいけなかった。近くの家の子供が騒がしいと言って、父はその家にクレームを入れに行った程である。だが、久美子が高校受験の頃は、友達を呼び平気で騒いでいた。

 久美子は出来るだけ早くこの家を出ようと思った。そのためには「経済力」を付けなくてはいけない。そこで、看護師になろうと思った。その旨を父母に伝えれば、条件を付けられた。

 家から、通える看護学校でなければダメ。看護師がダメなら、父の会社の事務員になれと言うものだった。だが、今回も兄の態度は変わらなかった。まるで、久美子の受験の邪魔をするかのように、友達を連れて来ては平気で夜も騒いだ。

 さすがに、近所からクレームが来た。かつて、子供の声がうるさいと父が怒鳴り込んで言った家の子供が受験なのだ。


「お宅も久美子ちゃんが受験じゃないの。少しは静かにしてやろうと言う気はないのかしら。全くもって…」


 それから、少しは静かになり、久美子は家からバスで5分ほどの総合病院併設の看護学校に合格し、卒業後はそのまま総合病院で働いた。

  

「はあ、やっぱり、看護師は給料がいいわねえ」


 それだけ仕事が、精神的にも肉体的にもハードなのだ。また、医学の進歩に対する知識も必要とされる。そのための本も購入しなければならないのに、母から容赦なく給料された。


「嫁入り用に、貯めといてあげるんだから。持ってたら、使うでしょ」


 では、兄はどれくらい家に入れているのだろう。いや、おそらく一円も入れてないのでは。また、あの兄が自分でどれくらいの貯金をしているだろうか…。

 そんなことより、久美子は一日も早く家を出ようと思った。


 だが、何と言う事だ。兄が交通事故で久美子が働く病院に搬送されて来たのだ。そして、意識の戻らぬまま、兄は逝ってしまった…。

 その時の両親の嘆き様…。 

 そんな悲嘆にくれる両親に代わり、通夜から葬儀まで取り仕切ったのは、久美子である。だが、一夜明けると、四つの瞳の照準は、久美子に向けられた。


----これからは、お前が兄の代わりをするのだ。

----もう、はさせない。


 やがて、仕事に復帰した久美子だったが帰宅すれば、それこそ母が付いて回る。


「疲れたろ。お風呂入っといで。着替えは出してあるから、洗濯物はに入れたらいいから」


 そことは、兄が脱いだものを投げ入れていた脱衣かごである。風呂から上がれば、食卓で笑顔の父が待っていた。


「さあ、一杯飲もう」

「私、飲まないから」

「少しは飲めるようになった方が…」

「いいから、放っておいて。今までの様に」

「そんなこと言わないで、たった三人の親子じゃないの。さあ、たくさん食べて。これ、好きでしょ」


 食卓の上には亡き兄の好物が並んでいた。別に、それらの料理が嫌いと言う訳ではないが、今までに一度として、久美子の好きなものなど聞いてくれたことがあっただろうか。それなのに、何を、今更…。

 その後も、両親揃って、久美子のご機嫌を取って来た。


「自分のことは、自分でしろって言ったの誰かしら」

「あの時と今では…」

「もう、自分のことは自分でする癖がついてるから。放っておいて!」


 夜中にふと、目が覚めた時、久美子は両親のを聞いてしまう。


「本当にかわい気がないなあ。久美子は」

「仕方ないわよ。私たちにはもう、あの子しかいないのだから…」


 そして、兄が生きていてくれたらと、泣き出す母だった。


「いや、それでも、久美子の言うことを聞いてやるしかない。まあ、看護師だから、いざと言う時には頼りになる」


 要は、自分は兄のダミーとして、親の面倒を見ろと言うことである。

 これは、ひょっとしたら、結婚もせずに親の面倒を見ろ。結婚するとしても、大人しい婿養子を迎えろと言うことなのか…。



 そして、兄の死から半年後、父が脳出血で倒れた。だが、こちらも呆気なく逝ってしまう。さらに三ヶ月後、母に癌が見つかった。そして、母も亡くなり、久美子は一人になった。すると、周囲の久美子を見る目が変わった…。

 近所の男たちが、今まで感じたことのない、無遠慮の目を向けて来るのだ。ニタニタ笑いとともに、それこそ舐め回すように、久美子に視線を這わせて来る。それも、若い男と言う訳でもない。

 つい、この間まで、気のいい近所のおじさんだったのが、男の目で久美子を見る。いや、久美子からすれば、とっくに爺さんでしかない、そんな老人までもが、だらしなくニヤつくのだ。

 そうなのだ。誰かの娘、誰かの妻と言う枠組から外れた女に、男は決して容赦はしない。隙あらばと狙いを定める。古女房ではその気にもならないが、相手が変われば、若い女なら、まだまだ、やれる…。


 実は、父が入院した時、久美子の夜勤の時など、母は一人になってしまう。それでは不用心であるからして、ホームセキュリティーを設置することにした。だが、本当に一人になってしまうと、そんなものは大した役に立たない。

 彼らはそんなことは百も承知で、堂々とチャイムを鳴らしてやって来る。そのチャイムも連打される。何事かと応待すれば、いつまでも起きてこないので、心配になって様子を見に来たと言う。

 久美子は夜勤明けで眠ていた。

 

「はあ、わしら、若い頃にゃ夜も寝んと働いたのに。今の若いもんは」


 その他にも、何か手伝うことはないか。困ったことがあれば何でも言ってくれ等々、何かと家に上がり込もうとして来る。

 久美子が頑なに固辞すれば、露骨に面白くなさそうな顔をする。


「小さい頃から知ってるし、娘の様に思ってるから、遠慮せんでも」


 女性はこの、と言う、オヤジ連中の言葉を信用してはいけない。この言葉は、を信用させるための、警戒心を抱かせないための言葉でしかない。だが、周囲の女たちは、この言葉をあっさりと信じる。

 まさか、自分の亭主が、こんな年寄りが、そんな下心を持ってるとは夢にも思ってないのだ。

 久美子はいっそ、この家を売って、マンションに引っ越そうかと真剣に考えていた。


 そんな頃である。住田祐介が急性盲腸炎で入院して来た。その時、ふと思った。


----この人と、結婚するかもしれない…。


 いや、当然妻子がいるだろうに、自分はどうしてこんな妄想をしてしまうのだろう。だが、それにしても、妻子が姿をみせない。やっと、娘がやって来た。それも、父親が入院だと言うのに、終始不機嫌な娘だった。その後も妻がやって来ることはなかった。

 手術後、祐介から、携帯がつながらないので自宅に電話をして欲しいと頼まれた。久美子が電話をかけると、誰も出ない。夜にかけても呼び出し音が繰り返されるばかりだった。

 祐介に、そのことを知らせれば驚いていた。何となく気になった久美子は祐介の住所に行ってみた。病院からも自分の家からも、そう遠くない。

 だが、チャイムをいくら鳴らしても応答がない。ちょうど、居合わせた近所の人に尋ねて見れば、先頃引っ越したと聞いて、久美子は驚いた。そして、この時、祐介が自分も利用するスーパーの店長であることも知った。そう言えば、店長がイケメンだと聞いたことがある。

 それにしても、夫の入院中に引っ越しとは、一体、この夫婦に何があったのだろう…。



 祐介は退院した。だが、妻と娘が黙って出て行った家で、どんな気持ちでいるのだろう。また、妻子に愛想尽かしされるほど、祐介はそんなひどい男なのだろうか。人を外見だけで判断してはいけないことは、色んな患者、その家族を見て来て知っているつもりだったが、それにしても、あの祐介が…。

 休みの日に、祐介の働いているスーパーに行ってみた。そこには、客に笑顔で接している祐介がいた。


「お元気そうですね」

「えっ…。あ、あの看護師さん…。いや、私服だと見違えてしまって、失礼しました。その節はお世話になりました」

「いいえ。お元気になられて安心しました」

「お陰様で」


 祐介は終始、笑顔だったが、その目は笑っていなかった。

 



 花火の音がした。


----ああ、花火大会か…。


 久美子はここのところ、遺品整理に追われている。整理と言うより廃棄である。いずれ、引っ越すにしても、物は少ない方が、いや、新しい家には自分の物だけ持って行こう。何より、早く片づけたかった。

 今日の休みもでつぶれた。汗をかいてシャワーを浴びていると花火の上がる音がした。

 ふと、行ってみようかと思った。気晴らしになるかもしれない。少し、離れた所から花火を見ていたが、フィナーレの花火が終わらないうちに、久美子はその場を離れた。帰りの混雑に巻き込まれたくなかった。そして、歩いていると、居酒屋からふらつきながら出て来る男がいた。久美子はすぐにわかった。祐介だった。


「住田さん」

「ん。あっ…」

「もう、こんなに飲んで。さあ、帰りましょ」


 と、祐介の腕を取った。祐介は何か言っていたが、そんなことはお構いなく、久美子が腕をつかめば、もたれかかる程に泥酔している祐介だった。


 翌朝、目を覚ました祐介は驚いた。目覚めれば知らない家で寝ていた。また、人の気配もない。とにかく起き上がり、台所へ行けば、テーブルの上には簡単な朝食とメモがあった。


『鍵はポストに入れて置いて下さい』


 祐介は昨日の夜、久美子に会ったことを思い出した。


 その日、久美子が帰宅すれば、テーブルの置手紙に「返信」が書いてあった。


『ありがとうございます。7時頃、電話します』


 電話がかかって来た。久美子は目いっぱいおしゃれをした。祐介は寿司屋に連れて行ってくれた。


「洋食より、和食の方が好きなもので…。それと、昨夜は本当にありがとうございました。すっかりご迷惑をお掛けして…」

「いいえ。たまたま…」


 これが、ドラマならと言うことはないのだが、実際は祐介はそのまま眠ってしまった。現実とはこんなものである。

 その後は、仕事の話などをしながら、楽しいひと時を過ごした帰り道、久美子は言った。


「これから、うちに来ませんか。それとも、昨日の様に、また、飲むんですか」


 一瞬、躊躇ちゅうちょした祐介だった。


「俺は、妻子に逃げられたような男だぞ。それでもいいのか…」


 久美子は黙って頷いた。

 

  

















 

 













 


 














 

































 

 






  









 




























 








 










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