音降りと胎生

Aiinegruth

第1話 音降りと胎生

 緊急警報 本日の霧の濃度は九○%

 氾濫です。屋内へ避難をお願いします。 


「お嬢ちゃんも一〇歳か。旅立ちの準備はいいかな」

 門の番頭に問われ、少女ティビタは金髪を揺らして頷いた。彼女の右目の下にはこの故郷、一三番街を意味する数字の紋様が浮かんでいて、緊張に零れだした涙に濡れている。振り向けば、深い霧に囲われた半径二キロメートルほどの円環状の都市が、同じく丸く切り取られた白縹しろはなだの空から、朝の光を浴びているのが見える。親権者に持たされたお金も、街長まちおさからの紹介状も、白い手に握られた小さな鞄に揺れている。

「そんなに気負いなさんな。今年距離が近い街はここと同じで安全さ。八九番街なんて僕の故郷だよ。良い歌も旨い飯もある。息の長い胎生たいせいたちも多いから、雰囲気もずっと変わらないだろう」

 日に焼けた頬に、八九、六、一三の紋様を持つ、自分と同じ音降おとおりの男性に、少女はまた小さく頷く。人は、母の身体のなかか、音から産まれる。街を隔てる霧を渡れない前者の胎生たいせいが大半で、一○年に一度渡り続けなければならない後者の音降おとおりはほんの一握りだという。寿命も食べるものも変わらないのに、はじめと、生き方だけが大きく違う。ティビタは音から形を成して産まれた。――親権者の歌から。

 

 かっこう かっこう 静かに 

 呼んでるよ 霧のなか 

 ほうら ほうら 母さん 


 涙をぬぐう少女の背後の街から、節だった言葉が聞こえる。一三番街の放送設備から響く、彼女を息付かせた旋律だ。事故を考慮して面会が禁止される代わりに、音降おとおりたちの見送りはこれが通例となっている。名所の通信塔から空気を揺らす旋律。想いは風となって、輝かしい黄金の髪を掻き上げる。ティビタは、幾つも重なった思い出のなかで一際涙交じりに響く親権者の女性の声を噛み締めると、光の門を叩く。練習した通りの『渡りの台詞』を紡ぐ。


 一三番街から、八九番街へ。

 ――私、ティビタは、音と共に降りる。


・・・・・・


 街外れの公園で日向ぼっこをしていた少年は、突然真横に降り注いできた雷鳴にひっくり返った。慌てて距離を取って振り向くと、自分と同じくらいの年の少女が土煙のなかで呆然と立っているのが見える。頬を見ればわかる。音降りだ。

「うわぁ、きみ、音の子だろ!」

「え、何」

「わわ、ごめん。おれはオヴェイク。ここを案内するよ!」

「あの、私は――」

 少年オヴェイクは、混乱した様子の少女を連れて歩き出す。街の中心部までは直ぐだった。石畳の地面を蹴り、汚い路地裏を分けて進む。商業区、住宅区、遊興施設区。移り変わり続ける景色。食べ物の匂いや日常の喧騒を突っ切り、八九番街の名所や特産物を少年にキラキラした目で解説される度に、ティビタはますます涙を溜めていった。一番大きくて立派な通りにある噴水の前の街区庁舎まで来たところで、手を振り切る。

「やめてよ! どうせお別れしなきゃいけないのに!」

 あらゆるものを見るたびに、一三番街の面影がどこにもないことを思い知らされて、彼女は限界だった。始まってしまった辛い現実が意識を覆う。音降りは旅を続けなければいけないし、同じ街には二度と戻れない。一生に一度、死ぬ前に、産まれた区画に帰還する以外に。

「あなた、胎生でしょ! だったら構わないでよ。私はここには戻って来られない。音降り以外と友達になったって、どうせ」

「この街にきみ以外の音降りはいないよ。先月に渡ってっちゃったのが最後だから」

「――え?」

「大丈夫、きっと来年くらいには何人か来るだろう。まずは宿泊館しゅくはくかんに登録を済ませよう。あ、おれはオヴェイク!」

「名前はさっき聞いたし!」

 窓から光が差し込む。翌朝、案内された宿泊館の二階で目を覚ましたティビタは、乱れた金髪を揺らし、怒りのままに起き上がった。ドアをドンドンと叩く音が聞こえたからだ。

「おっはよう音降り、さぁ学校に行こう!」

「私はティビタっていうの、あなた馴れ馴れしすぎ!」

「行こうティビタ、ほらティビタ、さぁティビタ!」

「名前教えるんじゃなかった!」

 悲しむ隙がなかった。奔放な少年に引っ張られるまま街で二番目に大きな建物に歩いた少女は、一三番街から引き続き初等教育を受けることとなった。時間はどんな音楽より早いテンポで過ぎていく。ティビタがここにきてから働きはじめるまでの五年間で渡ってきた音降りは四人いたが、結局彼女は同い年の胎生、オヴェイクと共に一番長い間過ごした。

 お互いのことは、もうほとんど知ったといって良かった。驚くほど快活で、酷い成績の代わりに友達も多かったオヴェイクだったが、ティビタは彼の表情がときおり暗くなる瞬間を見逃さなかった。学校の隅に咲いた樹が花をつけ、実を落とすのを繰り返す。八九番街が誇る広大な農場の収穫祭。それへ初めて参加した一五歳のとても暑い日、彼は彼女に告白をした。

 氾濫はんらんと呼ばれる現象がある。本来渡りをするはずのない胎生を漏れだした霧が吞み込んで、別の街区に連れ去るものだ。オヴェイクの唯一の家族であった母は、それに巻き込まれ、彼を残して消えたらしい。音降りに詳しくなれば、霧を渡る方法が発明できるかもしれない。彼はそう信じ、ティビタに話しかけたという。

「――けど、いまは違う。いなくなる二○歳まで、あと半分の時間を大切にしたい。ティビタ、おれはきみが好きだ。ごめん。おれと同じ哀しみを、きみに与えると分かっているのに」

 残された彼は初めから孤独で、残していった彼女と同じだった。いままでいろいろなところに連れ回って、賑やかに自分の毎日を彩ったオヴェイクが涙を流しながら崩れ落ちるのを、ティビタは抱き締めて支えた。少年から、青年へ。出会ったころは同じだった身長は、ずっと前に抜かされてしまった。学校のテスト、運動大会、年に一度の歌のコンクール。何気ない買い物のような日常に、初めて作って貰った手料理。古い数々の冒険の記憶を思い返して、笑いかけたのは顔を赤くしたティビタの方だった。

「お母さんのこと、諦めちゃだめだよ。会社を作ろう。街を渡るための。五年じゃ無理かもしれないけど、いつかきっと会えるよ」

 二人は起業して、様々な研究を始めた。データが集まり、果てのない道筋に光が見えところで別れの時がきたが、気取り屋のオヴェイクは、泣かずにメッセージを街区放送に乗せた。それは、言葉ではなく歌で、彼の母が幼いころに聞かせてくれたものらしかった。憶えのあるその旋律に驚いた瞳から、涙がこぼれる。この街の音と混ざってしまうから、もう行かなくちゃ。二つの数字が刻まれた頬に伝う冷たさ。戻れない場所からの旅立ちに、金髪を短く切り揃えたティビタは決意を新たにして叫んだ。


 八九番街から、二六六番街へ。

 ――私、ティビタは、音と共に降りる。


・・・・・・


 二六六番街から、三番街へ。

 ――私、ティビタは、音と共に降りる。


 三番街から、五○番街へ。

 ――私、ティビタは、音と共に降りる。


 五○番街から、三○六番街へ。

 ――私、ティビタは、音と共に降りる。


 三○六番街から、三一八番街へ。

 ――私、ティビタは、音と共に降りる。


 三一八番街から、九番街へ。

 ――私、ティビタは、音と共に降りる。

 

・・・・・・


 九番街から、一三番街へ。

 ――私、ティビタは、音と共に降りる。


 帰還の雷鳴。しわだらけの頬に刻まれた八つの数字は、どれもかけがえのない思い出の証になった。手のひらでは数えられないほどの出会いと別れを繰り返した一人の音降りは、ごほごほと咳きこみながらほとんど見栄えの変わりない故郷のありようを眺める。シンボルともいうべき通信塔も補修がされて佇まいを守っていた。あそこから見える風景が好きだったが、もうこの足で歩いていくことはできないだろう。寿命だ。あと少し経てば自分は音に還る。その予感が彼女にはあった。

 もはや手慣れた挨拶を役所に済ませ、杖を借りて進む。残された時間で行く場所は決めていた。親権者の墓。歌で彼女を産んだ人の亡骸は、思った通りの場所に埋められているという。街外れの草原まで歩く。目に入るものに全ての記憶が穏やかに蘇るなか、爆音と閃光が天地を揺らしたのは、墓前に辿り着いたときだった。

「――おれ、オヴェイクは、音と共に降りる! ってな。番頭さんに座標を教えてもらわなかったら墓に刺さるところだった。さて、母さんただいま――ってティビタ!? あとで迎えにいこうと思ってたのにどうしてここに?」

 オヴェイク&ティビタ研究所のロゴマークを付けた小さなカプセルから出てきたのは、青年の姿の彼だった。二四歳ほどで凛々しさを頬にじませるオヴェイクは、墓を背にして彼女に近付く。その一歩一歩に、面影と記憶が絶え間なく重なる。何故か分からないが、また会えた。乾いたしわだらけの肌に涙がにじむ。

 氾濫以外で胎生が世界を渡った際の影響が肉体に強く出た。久し振り、と声を発して若返った理由から順に話す彼の目の前で、ふと彼女の時間がきた。音降りの終わりは突然だ。ずいぶんくすんでしまった金髪を揺らしながら、しゃがれた声で待ってと遮る。オヴェイクが目を向けると、優しい微笑みだけがそこにあった。何もかも伝える時間はない。飽和して世界を覆いそうなほど溢れ出す想いたちを、小さく呑み込む。心拍一つ分の空白ののち、口を開く。

「オヴェイク、あなたと出会えてよかった。――」

 ――愛してる。一陣の風を流して、世界に青年と音だけが残った。

 

 かっこう かっこう 静かに 

 ないてるよ 森のなか 

 ほうら ほうら 朝だよ


 旋律が巡る。身体が形を成す。微睡のような光のなかから目を覚ますと、そこは一三番街を全てを臨む通信塔の展望台だった。建物を覆う霧の壁の上辺から朝日が昇っていて、見下ろせば柵から身を乗り出して歌う青年の背中が見える。

「歌による音降りは、同じ血縁の類似状況旋律るいじじょうきょうせんりつで生まれ直すことができるんだってさ。きみなら、出会ったときあたりの年でだ。おれが発見した一番の偉業なのに話を聞かずに消えちまうんじゃねえよ」

 ふわりと浮いて、自分の隣に降り立った少女を横目に、オヴェイクはしわくちゃの顔で泣いていた。何度も何度も試したのか、声はほとんど枯れ果てている。輝く白縹の空。円環状の都市は一日の始まりを迎える。眼下に広がる街一番の絶景も遠く、二人の鼓動だけが響く塔の上。一三という数字のみが頬に残る少女、ティビタはキスで彼の口を塞いで最後の音を貰うと、こう返した。

「今度は、付いて来てくれる?」

「もちろん。まずは、おれの渡りの船を改良してからだけど」

 出会いから始まり、別れへ向かう旅は続く。今度は二人で賑やかに、もっと多くの笑顔で。

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音降りと胎生 Aiinegruth @Aiinegruth

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