日付が変わったらしい。

 玄関ホールに置いてある時計の鐘の音が、耳に届いた。

「妹は気付いたのです。極上のプリンに、カボチャが使われていることを。だから、姉に譲ったのです。姉は別にカボチャに忌避感はないのですが、妹はカボチャが大っ嫌いなのでした。美味しそうに食べる姉の横で、妹は思います。今度買ってくる時も、極上のプリンは一つだけでいい、と。──ご静聴ありがとうございました、お嬢様」

 横に視線を向ければ、彼女の目蓋は閉じて、小さく寝息を立てていた。

 私の身体に回していた腕も、今は私から離れ、彼女の顔の傍で綺麗に並んでいる。

「……おやすみなさい」

 呟き、ベッドから静かに出た。

 辺りを見回して、いいものを見つけると、そこに近付いて手に取る。

 彼女の机の上に腰掛ける、大きめの白熊のぬいぐるみ。

 首にくすんだ赤のスカーフを巻いた、珍しい赤い目のその子を、お嬢様はストロベリーと名付けている。

『オルディと同じ目をしてるから、髪の代わりに巻いてみたの。これでオルディとお揃いね。可愛いでしょ?』

 えぇ、可愛い。

 彼女を起こさないように気を付けながら、ストロベリーを横に添える。

 そしたら勢い良くストロベリーに抱きついたものだから、起きたのかと一瞬焦ったけれど、「オルディ……」と呟いたっきり何の反応もないから、吐息を溢して、やっと私は部屋から出る。

 今宵は、雨。

 一旦自分の部屋に戻って、外套を取ってこないと。


◆◆◆


 ブレイクスミスの屋敷と、近くの町までは、少し距離がある。

 屋敷に住む者が外出する時、それに外から来る客達は、必ず馬車で移動する。

 普通の人間であれば、徒歩を選ぶと時間や労力が掛かるし、ブレイクスミスはもちろんとして、来客のほとんどは貴族だから。

 ……彼女ならきっと、戯れに徒歩を選んだとしても、途中で私にだっこを所望してくるんでしょうね。

 そんな取り留めもないことを考えて、あっという間に町に着く。

 建物から漏れる灯りは少ない。

 この町の住人達の朝は早いから、寝るのも早い。まぁ、遅くまで起きてる住人もいるにはいるだろうけれど。

 ──朝まで起きていられるのは、私と、これから会う彼だけだ。

 疲れは特にないので、そのまま目的地に向かう。

 静かに降る雨は弱く、私の靴の音を消しきることはできない。

 起こしてしまったらごめんなさい、なんて心にもない言葉を呟いて。

 辿り着いたのは、小さな本屋。

 店の外の窓からは、真っ暗闇が広がっているように見えるけれど、小さな灯りが一つだけ目に入る。

 彼だ。

 ノックの一つもせずにドアノブに手を掛けて、そのまま開ける。この時間、彼は鍵を掛けていない。

 中はやっぱり暗かった。それでも、目視できないほどじゃないし、どこに何があるかはもう覚えてしまっている。

 店内に入りながら外套も脱いでいき、水滴まで中に入らないよう気を付けながら、一度外に向けて外套をはたく。出入口の傍にはコート掛けがあるので、外套はそこに。

 昼に来店したことがあるお嬢様曰く、コート掛けなんて普段はここに設置されていないらしい。

 これは雨の日の夜、誰もが寝静まった夜にだけ、設置しているのだと。

 ……彼にも訊いてみたら、そう言っていた。


「早く閉めてくれないかな。寒い」


 若い男の声が、耳に届く。

「失礼」

 一言そう言って、ドアを閉めるとすぐ──狭い店内を駆けて声の主の元に向かう。

 礼儀なんて今は知らない。棚と棚の間に、障害物はないのだし。

 彼が、片付けてくれているから。

「──シリウス」

 丸椅子に腰掛ける彼の後頭部が見えた瞬間、その名前を呼んだ。

「ミス・オールド」

 私の名前を呼ばれた時には、彼のすぐ背後にいたものだから、挨拶の代わりにその後頭部を抱き締める。

「今夜も熱烈だね、ミス・オールド」

「何日雨が降っていなかったと? 東洋のおまじないを試そうか考えていたのよ?」

「それってどんなの?」

「……生首を布にくるんで、窓際に逆さに吊るすのですって。お嬢様の教育的によろしくないから、なかなか試せなくって」

「それは試さない方がいいね、教育的に」

 ははは、と笑う彼の後頭部を離し、無理矢理私の方へ身体ごと向けさせる。

「……シリウス」

 灯りは、彼の傍にある机の上に置かれた蝋燭のみ。

 それでもはっきりと見える、私のこの目でなら。


 私は人間ではない。

 ほとんどの人間に、化け物と蔑まれる、卑しき身。

 それでも、こんな私を愛してくれる人がいることを、私は知っている。


 たとえば、彼だ。

 夜闇に溶けてしまいそうな短い黒髪に指を絡めて、その紫色の瞳を間近で見るべく、顔を寄せる。

「シリウス、シリウス。──シリウスっ」

 唇が触れそうな距離で止まって、何度も何度も名前を呼べば、彼の頬が仄かに赤く染まる。

「……ミス・オールド」

 私の名前を口にすると、そっと、首を傾ける。

 拒否じゃない、むしろこれは……。

 視線を彼の首筋に向ける。

 何にも覆われていない首には、無数の傷跡があって。

 それらは全部、私が彼に付けたもの。

 私が彼を愛した証。


「好きなだけどうぞ」


 夜は、

「それなら、遠慮なく」

 逢瀬は、始まったばかり。

 まずはお夜食をと──その首筋に牙を突き立てた。

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