初めて知った悲しみ

ゆーにゃん

迎え入れた月日は短くて

 十年以上前。小学生の頃、叔父が引っ越すからと飼っていたハムスターを育ててみないかと提案された。

 一度、動物を飼ってみたいと思っていた自分はその提案を親に相談して迎え入れることを決めた。数日後に、小さな白くてふわふわのハムスターがやってきた。


 初めて動物を飼う。

 この時、出会いと別れがあるなんてこと考えもせず。


 最初は、何をすればいいのか分からず学校の図書室でハムスターの本を借りて、子供ながらできることを探した。種の用意、こまめに水の入れ替え、糞の処理も妹と協力して。学校から帰ってくると、すぐあの子の下へ駆け寄り「ターボー。ただいま」と言いに。


 ご飯の種を皿に入れ、口一杯に頬張る姿が可愛くてずっと見ていた。毎日のように手の平に乗せ、小さな頭や体を撫でる。


 今思えば、もう少し知識を頭に入れておけばよかったのかもしれない。命がどういうものなのか、ただ餌を与えるだけではなく、子供とはいえ毎日のように撫でてゲージの前に張りつかなくとも、なんて思う。

 しかし、あの頃は叔父がつけていたハムスター名前、ターボーが可愛くて仕方がなかった。


 朝、起きたらターボーに「ターボー、おはよう」って挨拶して学校から帰ってくると「ターボー、ただいま」って。

 回し車をカリカリと音を鳴らし走る姿も、丸々姿も、ご飯を食べる姿も、眠る姿も何もかもが愛らしかった。


 それをずっと見ていられると、親に「いつかは亡くなるんだよ。悲しい思いをすることになるけど、ちゃんと最後まで面倒を見れる?」と訊かれた意味を本当の意味で理解できていなかったと思う。


 ある朝、その意味を嫌でも知る瞬間がきた。

 いつもの挨拶をターボーにしにいくと、ターボーの姿がなかった。ゲージを開けて探すと、寝床のハウスの中で動かないターボーがいた。

 何度も呼びかけても起きない。手の平に乗せて撫でるが、目を開けないことに不安が込み上げ親へ言いにいった。


 ターボーが起きない――。


 親が見てくれて妹と自分に一言。


「ターボーは、亡くなったんだよ」


 その言葉の意味をすぐには理解できなかった。でも、時間が経つとターボーが死んでしまったということを理解した。


 その瞬間に涙が溢れ止まらなくなった。そこで初めて知った。ハムスターの寿命は短く、叔父の下でいた間が長く迎え入れた時にはその終わりが近かったと。


 そしてもう一つ。すぐそばにいる誰かが亡くなった時の痛みも悲しみを知ることに。


 これが悲しいこと、飴玉を飲み込んだみたいな息苦しさ、涙と鼻水が止まらない。温もりがなく動かないターボーをずっと手の平に乗せたまま動けない妹と自分。

 

 動物を飼うということがどういうことなのか、大変なことも、何が必要で、何より覚悟がいるということ。


 しかし、あの頃にターボーを迎え入れ出会いと別れも痛みも悲しみを知ることができた。

 経験しなければ分からない感情だ。親も、命がどういうものなのか、幼い自分たちに教えたかったようで。


 今では家族を迎え入れるということは、出会いも別れも何もかも全部、受け止めることなんだと自分なりに心に刻んでいる。

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初めて知った悲しみ ゆーにゃん @ykak-1012

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