第2話 『S・コリンズ』

 時計の針は午後の四時を指していた。目からは涙がぼろぼろと出て止まらない。

 マチはその場にしゃがみこみ、今、目の前で起きた事を一生懸命、夢であったと言い聞かせていた。三人の男はそう言い放つとバタンと玄関から出て行ってしまった。 

『ブス』

『出ていけ』

 こんな事を面と向かって言われたことなんて始めてだった。

 あの男達は一体誰?なんで私の部屋に入って来たの?鍵もチェーンも閉めといたでしょ?

 ふとチェーンを見るとボルトカッターで切られている事がわかった。こんな事があって良いのだろうか。チェーンを切ってまで人の部屋に侵入してくる事が犯罪じゃなくて何なのだろう。初対面の女子に面と向かって『ブス』ってどうゆう事?それは私はひいき目に見てもかわいく無い事ぐらい自分で分かってる。美人でもないと思う。でも、『ブス』だなんてそんなの初めて言われた。マチは座りこんで泣くしかなかった。

 一体誰なの?あの男、「エイチ」って呼ばれていた。危険だわ。怖い。恐すぎる。真っ青な目の奥が冷たかった。

 そもそもあの人たち高校生?同い年には見えなかった。大学生とか社会人みたいに見えた・・・・誰なんだろう。


 マチは言われたことのない「ブス」という言葉にはっきりと傷つき、傷心のまま校舎で待つ学長に挨拶に向かった。

 重厚な造りの学長室の扉をノックして入る。中には女性がいた。

 年配の白髪交じりの女性である学長は忙しそうに電話をしながらマチを出迎えた。電話を保留にして合間にマチに話しかける。

「お父さんから事情は聴いてるわ。ようこそ私のメインへ。悪いけど時間がないの。それから女子寮は今工事中よ。しばらく男子寮に入ってもらうわ。でも平気。あの寮は伝統ある格式が高い寮なの。各階各学科ごとに優秀な生徒だけが住んでる。あなたの住む8階はね我が校自慢の・・・あ、待って。もしもし、アンダーソン!お元気?聞いたでしょう?次の理事会にはマケインを説得して推薦して欲しいの・・・」

 あまりに忙しそうで父の話も、今しがた起きた自分の部屋へ男三人が不法侵入した件も話せないままマチは長い時間そこに放置された。

「今、だ、だ、男子寮って・・・?」

 どういうことなんだろう・・・色々質問したいけど電話が長引きそう。

 あの寮は、学科別に住むところなんだ・・八階って何学科なんだろう。私は普通科での転入だから、八階の人たちとは受ける授業も違う気がする。

 マチが色々な事に不安を抱えたまま寮について思案していると突然ノックが聞こえた。

 重厚な造りの学長室に誰かが来た。

「失礼します学長」

 そう言って礼儀正しく入って来たのは背が高いスリムな男子生徒だった。彼がその場に現れただけで爽やかな風が吹いたような気がした。顔が大人びていて高校生には見えない。奇麗なブロンドを中央で分けている。こげ茶の優しげな目、真面目そうな顔立ち、微笑んだ笑顔がキラキラと輝いていた。

「すごい・・・・かっこいい」

 マチは思わず日本語でそうつぶやいた。

 背が小さく華も無く、垢抜けない日本人の小さなマチの前に夢の様に現れた美男子。それがSだった。クラエス・コリンズ。カナダ・メイン高校総代。皆から最上級・崇高の文字を取られて『S』のあだ名で呼ばれる有名な男だった。


 背がとても高く、痩せ過ぎても、がっちりし過ぎでもなく、背筋が通っているので姿勢が良い。着ている制服がぴったり似合うカッコよさ。

 どうしよう!見た事が無いわ!こんなにかっこいい人見た事無い!テレビにも、映画の中にも。そして現実になんて!夢なの?なんて素敵な人なの?こんな人がこの学校にいるなんて!

 マチは身体が熱くなり興奮した。ついさっき『ブス、出て行け』そんな言葉を吐かれたばかりなのに彼の存在で全ての暗い気持ちは消し去られた。

 こんなにロマンチックな人がそばにいると思うとマチの胸は感動で一杯になった。

 ――――大好き。

 高校一年生、カナダ・メイン。十グレード。日本から来た静かでか弱い女の子は一目見るなり総代クラエス・コリンズに一目惚れした。


 


 長電話で忙しい学長に代わりSが校内を案内する事になった。二人は静かに学長室を退散した。

 カナダ・メインは広大な敷地を有する大きな学校だった。

 Sの説明によると、マチがこれから使うのはABブロックがほとんどで何か運動系の部活に入部しない限りはCに行く事はほとんど無いという。

 大きな校舎、煉瓦つくりの資料館、総ガラス張りの美しい図書館。生徒が一斉に集うカフェテリアは現代的なデザインで吹き抜けの高い天井が生徒達の賑やかな声を反響させる。外には緑のパラソルが並び、穏やかな日差しを受けながらおしゃべりをしている生徒が見えた。

 メインの校内はどこもかしこも光りに溢れ、その辺を歩くだけでも明るい気分になれた。

 マチはSの説明を受けながら天にも昇る気持ちで歩いていた。

「本当にメインは広いんですね。日本の高校とは大違いです」

「そうだね。メインはなんといってもカナダ有数の名門校だし、生徒数も多いよ」

 二人はベンチに腰掛けた。マチは隣に座りながらどの角度から見ても美しいSに見とれた。

 あんまり凝視し過ぎては失礼と思い、視線をそらそうと顔を上げて遠くを見た。

「あ・・・・・」

 マチは建物のシルエットを森の向こうの高台に見つけると

「あれ、寮ですよね?『イーストケース』」と指差した。

「うん。男子寮」

 マチは恥ずかしくなり赤くなって言った。

「実は・・・・私あそこに入る事になってしまったんです。女の子なのに」

「知ってたよ」

 ドキッとマチの鼓動が早くなった。そして、Sは言った。

「実は僕もあの寮なんだ。801号室。君とは同じ階だね。女の子一人でしばらく不安かもしれないけど、何かあったら直ぐに言ってね」

「えっ!」

 Sが同じ?同じ寮?同じ階?同じ、同じ、同じ!

「本当ですか?私、すごく不安だったんです。でもSが同じ階なら、安心です」

 顔を真っ赤にしてそう話すマチを見て、Sは思わず笑った。

「君が良い子で良かった。実はそれを確かめたくて直接君の案内役を買って出たんだよ。同じ八階に住むのが一体どんな子なのか一早く知る為にね。これからは宜しく」 

 この笑顔を手に入れる事が出来るならなんでも差し出してしまえる。マチはそう思った。夢中になっている。怖いくらい好き。こんな短時間でこんな風に突然現れた人に恋いをするなんて!

 内気なマチにはあまり無い展開の早さだった。トクトクと心臓を打つ音が気持ち良かった。心がぎゅっと温かくなる。

 S―――――素敵な人。完璧な理想。幸せ。Sの事をもっと知りたい。


 生徒会の委員がSを探して走ってきた。これから会議があるらしい。Sとはここで別れることになってしまった。

「あ!」

 一人になって急に気が付いた。そう言えば。また聞き忘れてしまった。

 八階はどんな名誉学生が住むところなのかしら?

 Sが住んでるぐらいの場所。そんな階に幸運にも住める事になった私はとてもラッキーだわ!きっと凄い学科なんだわ。あっ、生徒会に所属する人が住むところなのね?きっとそうだわ。

 隣の808号室、どんな人が住んでいるんだろう。Sと同じ階に住む人なんだからちゃんとした立派な人に決まってる。

 あの時見た悪魔達の事は忘れよう。あんな人たちが伝統あるあの寮に住んでるはずないものね。きっと外から入り込んだ悪い生徒達だったんだわ!Sがいるからもう安心。

 マチの不安は一気に解消された。

 Sが同じ階に住んでいるなんて!


 ◆


 カナダ・メインは担任制を採用している。マチは新しいクラスでロアンナと仲良くなった。

 担任の指名で転校生マチの案内係りに決まったのがロアンナだった。

 初めて授業がある登校日、真っ白な頬にそばかすがあってカールした短いブロンドの女の子がマチの方を恐る恐る見ていた。随分ぽっちゃりしてる女の子だった。

「私はロアンナ・ピータースよ。あなたを案内するように担任の先生から言われたの。宜しくね。ようこそメインへ」

 ロアンナは太い手をマチに差し出すと、にこっと笑った。

「あそこが図書館よ。少し本館とは離れてるけど、凄い蔵書だから読み応えはたっぷりなの。館内は私語厳禁。マチは本が好き?私は大好きで、教室で落ち着かなくなると良く図書館にやってくるの」マチの顔が輝いた。

「私も本が大好きなの!ロアンナは何を読むの?」

「恋愛ものが多いかしら。おかしい?」

「私も大好きよ!」

 ロアンナが嬉しそうに笑った。

 この子とはとても気が合いそう。マチは本能的にそう感じた。



 図書館からの帰り道、通路の向こうがなにやら騒がしい。キャーキャー騒ぐ女の子達の声がけたたましく、彼女達に囲まれてやたらと目立つ男達がこちらへ向かって来た。マチもロアンナもそんな雰囲気は苦手なので、広い通路ではあったが完全に避けるように街路樹の下へ寄った。彼ら一行が通りやすいように道を譲った。二人はその騒ぎを避ける様に更に芝生の上で一列になった。どんどん一行が近づいてくる。過ぎ去るのを目が合わないようにうつむいて待つ。

 突然、一人が言った。男の声だった。

「あの女」

 マチは聞き覚えのある低い声に心臓が凍りつくぐらいギクっとした。

 エイチだ・・・やっぱりここの生徒だったんだわ。

 あの日の記憶が呼び覚まされて一気に鼓動が早くなる。

「え?誰?」

 周りにいた華やかな女の子達が一斉にマチの方を見た。

「こいつだぜ」

 マチは下を向き固まったまま聞いていた。

「俺の隣に越してきた女」

 思わず顔を上げた。――――――となり?

「なんですって?」

 今までかわいい声で話していた女の子達の声が一オクターブ低くなり、目つきが変わった。

「どう言う事?あなたの隣って?」

「男子寮に来たんだこのブスが」

「男子寮?まさかイーストケースに?」

 一斉にその場がざわめき立った。

 マチの頭は真っ白で、隣のロアンナをちらっと見ると、彼女は口を開けて「なんて事なの!」という顔をしてマチを覗きこんでいた。

 隣に住んでるって・・・・808号室って、私の隣って、まさか、まさか、この悪魔が住んでるの?マチはクラクラして手の力が抜けた。持っている本を全部落としそうになった。

「まぁ、明日には出てってもらうからな」

 そう言うとエイチは歩き出し、その後を騒然となった一団がわめきながら質問攻めにしていた。

 悪魔。悪魔が・・・・私の隣人?

 昨日は何も知らないでSの事を思い出しながらぐっすり眠ってしまった。しかし、事実を知ったからにはもう安心などできない。眠れない。しかも明日出て行けって、また言われた。本気で言ってるの?私が出ていかなかったらどうする気なんだろう。

「ねぇ、あなたまさかあの『イーストケース』に住んでるの?」

 真横に居たロアンナがマチよりも、何倍も青い顔でそう訊ねた。

 急に腰が抜けてしまったようで、手に持った本ごと芝生に座り込んでしまった。

「ロアンナ!」

 ただ事じゃない。嫌な予感にマチは支配されて胃が急激に縮んだ。


 

 ◆


 マチとロアンナは校庭に出て、目立たないモミの木の木陰にあるベンチに座った。

「なんて不幸なのかしら」

「ねぇ、それってどう言う意味なの?私には何故あんな風に言われるのかまったく分からないのよ。ロアンナお願い。教えて、いったいあの寮はなんなの?」

 ロアンナはマチの方を真剣な眼差しで見つめると話し始めた。

「マチ、いい?この寮は言ってみれば天才達の巣窟よ。数学とか物理とか成績が優秀な生徒だけが選り分けられて入寮を許されている。世界中の学者や教授とか、長者番付に載るような成功者の中にはこの寮の卒業生が大勢いるのよ」

「そんなに凄いところなの?」

「ええ、八階まであるこの寮は階によって学科が分けられているらしいの」

「ええ聞いたわ。でも私、八階に住んでいるの」

「そう!それが問題なのよ!」

「八階はいったいどんな人達が住む場所なの?生徒会か何かなの?」

 ロアンナは息を呑むと真っ青な顔でこう言った。

「アイスホッケーの部員達よ!」

 ―――――?えっ?

「何?それ。学科じゃないの?」

 ロアンナはびっくりした顔でマチを見て

「あなたホッケーを知らないの?」

「うん」

「そうよね、日本から来たんだものね、日本ではあまり有名じゃないかもしれないわね。後で練習風景を見に行きましょう。見ればどんな凄いものか分かるから。氷のリンクでスケートを履いてパックって言う玉をゴールに入れる『氷上の格闘技』って言われるものよ」

「・・・うん。それで、なんでその人達が八階に?」

「メインが誇るアイスホッケーチーム『メイン』は代々世界最強のチームよ。この学校は創設当初からホッケーの教育には力を入れてるの。ホッケーはカナダを始め、アメリカ、ロシア、ヨーロッパ、各国で人気を博しているスポーツなの。プロの選手になると年俸が何億と言うキングプレーヤーが出る人気なのよ。そのナショナルホッケーリーグの選手に最も近い男達が住んでいるのが八階よ。そう、あなたが住んでる八階なのよ」

「そんなに凄い人気なの?知らなかったわ」

「マチ、さっきあなたの事を指した、すれ違った男だけど誰か知ってる?」

「ええ。初日から色々あって。他の男子が彼の事を『エイチ』って呼んでるのを聞いたわ」

「そう。彼の名前はH・ハンドクルー。校内一危険な男よ。私達より一つ上の11グレード、アイスホッケー部の一軍レギュラー選手で、背番号は29、みんながエイチと呼んでる人気者よ」

「人気者?なんであんな人が人気者なの?だってあの男はいきなり私の部屋のチェーンを切って玄関へ乱入してきた挙句『ブス、三日以内に出て行け』って面と向かって言うような悪魔よ?」

 マチは思わず当日を思い出して青くなった。

「――――ああ、もうそんな目にあっていたのね。彼、三日以内に出ていけって言ったの?」

 ロアンナが悲しそうな顔をした。

「マチ、その言葉に納得できなくても従うべきだわ」

「そんなぁ・・・私、帰るところが無いの。帰りたくても日本にはもう家族もいないし、あの部屋だけなのよ。どうすれば良いの?もしも彼の言葉に従わなかったとしたら私は一体どうなるの?」

 ロアンナがマチの事をじっと見つめて真面目に言った。

「死ぬより残酷な目に遭わされるわ」

 死ぬより残酷な目。きっと想像もつかない程ひどい目に遭わせるんだわ。あの目つきだったら何か平気でしそうだもの。マチは彼の冷酷な青過ぎる瞳を思い出した。

「ねぇ、ロアンナ、エイチってどんな人なの?あなたは彼と話してみた事ある?」

「やめて!あんな恐ろしい人と話なんか!目も合わせない様にしてるわ!息を殺して、廊下ではすれ違わないようにわざわざ遠回りして避けてるの。あんなに間近に見たのは今日が始めてよ!もう腰が抜けそうだったんだから!」

 マチは背筋が冷たくなるのを感じた。


 ◆


 寮への帰り道、マチはエイチの言っていた事を思い出した。残念ながら忘れようとしても忘れられない。現実的に絶対無理な要求『三日以内に出て行け』あまりにもムリ過ぎる。

 カナダへ来てまだ三日しかたたないのに。出て行けなんて冗談に決まってるわ。そんな事物理的に無理だもの。彼だってそんなの本気じゃなくて嫌がらせで適当に言っただけよね?


 今日もロアンナは休み時間になる度に、何も知らないマチに色々教えてくれた。自動販売機の位置や、カフェテリア内の美味しいアイスクリームの事や参考図書の買える本屋の場所。

「私って、その、太ってるでしょ?入学した時すごく傷つく事をクラスの男の子達に言われたの。今もクラスメイトは私の事はあんまり好きじゃないみたいだし、仲間ハズレにされて何か行事があると私はのけ者。だから、マチが来るまでこんなに色んな事を誰かに話す機会はなかったの。マチに言うのはなんだけど、私はマチがこのクラスに来てくれて本当に嬉しかったわ。だって本の話しも趣味も合うし、なんだかマチとは親友になれる気がするの」

 マチは目頭が熱くなってしまった。

 ロアンナは全然変じゃないのに。なんでのけ者にされているのかさっぱり分からなかった。

 初めてカナダに来た自分にこんなに親切に色々教えてくれる優しいロアンナが、クラスで浮いた存在だなんて考えられなかった。ちょっと見かけが太っているくらいで偏見の目を向けるなんてひどいクラスメイトだと思って腹が立った。

「うん。私たちは親友よ。仲良くしましょ!」

「絶対よ!あなたはいきなり凄い境遇に出くわしちゃったけど、どんな時もできるだけ協力するから」

「うん!私も同じ気持ちよ!ありがとう」

 マチとロアンナは抱き合って握手した。

 二人は本当に似ているところがあった。趣味も思考も近い。ロアンナといると落ち着ける。静かで優しい子。二人はお互いに大切な存在となった。

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