【焼き鳥】焼き鳥と海の音

にけ❤️nilce

第1話 焼き鳥と海の音

 屋台がきているのだろうか。焼き鳥の匂いがする。タレの香りに誘われたのか、桃香は期待に満ちた目で私を見上げた。

「いい匂い。ママ、お腹が空いたよ」

「お店見つけて。食べながら帰ろう」

 私の言葉に、桃香はやったぁと叫んで飛び跳ねた。体の割に大きなピアノバッグが跳ね、改札を抜けよう真後ろに立っていた人が、迷惑そうに顔を顰める。

 匂いの先はすぐ見つかった。改札を出て東側のロータリーの左端。トラックの上に引っ掛けた提灯が燻されているのが見える。いち早く見つけ出した桃香は、小さな手で私の指を掴み、はやくはやくと急かした。


**


 焼き鳥といえば思い出すのは海の音だった。

 物心ついたころに住んでいた団地の近くにあるスーパーと、隣接した公園。そこに時折現れる焼き鳥屋のトラック。

 炭火と肉の焼ける匂いに、幼い私はひどくそそられたものだった。私は娘とは違って、母に素直に食べたいとは言い出せない子供だったんだけれど。

 思うと買い物帰り、スーパーの袋を両手に抱えた母は、大概不機嫌だった。トイレすら言い出すのが怖かったくらい。背中では弟が髪を弄んでいて、まだ目の離せない年頃の私と妹がフラフラしているのだ。繊細な母にとって買い物は、どんなにか気疲れするものだっただろう。

 時たま、母が気まぐれに焼き鳥を買って帰ろうと言うと、私は内心小躍りしたいくらい嬉しかった。外から見るとそうは見えなかったのだろうけれど。


 ある時、妹の調子がとても悪かったことがあった。焼き上がりを待っている間に、臭い臭いと大声で連発し、癇癪を起こしはじめる。

「臭い、もう帰る。帰りたい」

 重い荷物と全体重をかけて引っ張ってくるベタベタする子供の手。母のイライラが電波のように伝わってくる。

 あんなに騒いで、屋台のおじさん怒ってないかな。妹といるの恥ずかしい。注意してもダメだろうな。すぐ噛み付くし、私の言うことなんか聞きっこない。火をつけて手に負えなくなったら? でも、何とかしなきゃ。叱られる。ああ、何をしてもしなくても、どっちにしろ叱られるんだ。

 いろんな想いが渦巻いて、結局ただ突っ立っていただけなのに、ひどく疲れた。喧騒の向こうで公園の松原の向こうから聞こえる海の音がする。


 臭い、帰ろうと大騒ぎする中、母はよそゆきの笑顔で焼き鳥を受け取り、家路に着いた。静かな道中だった。

 笑顔を貼り付けていた母は、玄関扉が閉まった途端、乱暴に買い物袋を投げ出した。母の身体で風船のように張り詰めた怒りが、パチンと弾けて飛び散る。

 まず妹の頬に向けて。それから、私、弟、ここにはいない父にまで、憎しみがなすりつけられる。

 失礼なこと言って、みっともない。待ってる間くらい静かにできない? ちょっとくらい助けにならないの。大変なの見たらわかるでしょう。どうしてわからないの。いいかげんにしてよ。なんで私ばっかり。こんなはずじゃなかった。

 妹は母の気持ちなど見向きもせずに、容赦なく大声を張り上げて泣いた。びっくりした弟も泣き出して大合唱になる。

「うるさいっ。子供なんか産むんじゃなかったっ」

 私たち、本当はいらない子。苦しそうに蹲る母を前にすると胸が痛んだ。母を痛めつけているのは自分なんじゃないかという思いが募る。生まれてきてごめんなさい。何もできなくてごめんなさい。助けてあげられなくてごめんなさい。居て、ごめんなさい。

 でもお願い、どこにも行かないでお母さん。私にはあなたしかいないの。


 部屋中に満ちる泣き声と、焼き鳥の匂い。私はずっと海のことを思い浮かべていた。海の音だけを辿っていれば、安全。

 

**


 私にはあなたしかいないの。

 子供の必死で濃密な感情が湧き出すと胸がじくじく痛んだ。

 今ならわかる。私は子供で、何もできなくて当たり前だった。私は、支えることではなく支えてもらうことを必要とした子供。母の愛を失うことに怯え、立ちすくんでいた罪のない子供だったのだと。

 ひとりぼっちで溺れていた母には、支える誰かが必要だった。なのに、周囲にいる大人は母に支えてもらおうとしがみつく人ばかりだった。

 母自身が、誰にも手を伸ばさなかったのかも知れなかった。私たち子供の他には。


 大きくなった妹は親を憎み、私を疎んじて早々に家を出た。どれほど我慢させられたか、理解されずに辛かったか、酷いレッテルを貼られて苦しんだか。留まることを知らない罵詈雑言を存分に浴びせて、最後に親はお姉ちゃんだけがいればよかったのよ、と捨て台詞を吐いた。

 妹の思いは流されて、親の思いを受け止めない親不孝者のレッテルを貼られた。間に入った弟にまで責められて尚、妹は無言で伝えていた。お母さん。あの頃、私にはあなたしかいなかったの、と。でも、もう諦める。妹は子供だった自分の寂しさを悼んでいた。


**


「あたし、ネギ食べられるんだよ。偉い?」

 物おじしない性格の桃香は、ねぎまを頼んだことを焼き鳥屋のおじさんに自慢する。おじさんは「そうかぁ、まぁ偉いのかなぁ」と薄い反応だ。褒めてもらえないことを不満に思った桃香はさらに強く主張する。

「友達で私だけなんだよ。ネギ食べられるの」

 かわいい桃香。ピアノが弾けなくてひっくり返っているときも。忘れ物をして恥ずかしかったのを、全部全部ママのせいと当たり散らしているときも。あたしの方がもっとすごいんだ、って園の友達と恥ずかしげもなく自慢合戦しちゃうときも。お手伝いできると言い張って、テーブルをベタベタにしてしまう時も。

 めんどくさいし腹が立つこともあるけど、全部私の宝物。泣いて、笑って、怒って、喧嘩して、落ち込んで、焼き鳥ひとつで喜んで。愛しい。


 母も昔を思い出して語った。はるか昔の、今の桃香と同じ年頃だった私と妹たちのことを。三人も育てるの大変だったわ。毎日寝不足。謝り倒しの日々。あの子の癇癪には苦労した。女の子が人前で偉そうな態度とって、恥ずかしかった。だんまりして強情だった。焼き鳥ひとつで泣き喚く姿も、思い出しては詰りながら。

 子育てなんてあっという間。苦労したけど私にとって、あなたたちを育てること以上に素敵なことなんてなかったと懐かしむ。

 母の話を聞く時、海の音を聞く。思い出話の中で私たちは辱められ、苦しかった私の感情は、見るに値しない取るに足らないものとして振り払われていた。掬い取ってもらえなかった。母は自分の苦しみでいっぱいだったから、私たちが目にうつらなかったのだ。私は寂しかった。

 寂しさを訴えて幼い妹は癇癪を起こし、寂しさを感じないように私は海の音を探した。

 

 桃香は自分が受け取りたいと言って抱っこをせがみ、店主から直接焼き鳥を受け取った。

「焼きたて、食べていい?」

「危ないから。ベンチに座ってから」

「早く早く、ママ。いい匂い。待ちきれない」

 桃香が地団駄を踏む。その姿は少しだけと昔の妹に似ている。私はそれを頼もしいと思う。

 焼き鳥の匂いを嗅ぐと母を思い出す。

 母と、家族と、海の音を。

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