第3話 お役目

 離縁しないと神に誓い、起請文まで書いたクセに。

将軍が亡くなったからもう構わないと思ったのか、最初から比企を狙っていたのか。血の繋がった父まで隠居に追いやって、そこまでして権力が欲しかったのか。


——なんのために?


そう聞きたかった。いや、問い正したかった。


 その時、ふと母の声を思い出した。


「架け橋になりたい」


 母は巫女だった。頼朝公の側近くで戦勝祈願を行ない、権威無双の女房と称された存在だったと、そう聞いた。


 母は何を考えていたんだろう。どうして父と結婚し、離縁して京に追いやられてまで、架け橋となることを望んだのか。


——架け橋。

京と鎌倉の?父との?


離縁したのに?自分の一族を滅ぼされたのに?


 母は真っ直ぐて争いの嫌いな人だった。子らが安心して暮らせる戦のない平和な国に。そう願って、朝晩欠かさず祈りを捧げていた人だった。

——戦のない平和な国。

ああ、その為か。


 先の乱が落ち着いた今、母の祈りの通りに大きな戦は暫く無くなるだろう。

そう。上皇が配流され、鎌倉の幕府が全国を制覇出来た今ならば。なのに、その今、父は死のうとしている。


 これからじゃないか。母の想いを無駄にする気か。消えた命らにどう償いをするつもりだ。


胸倉を掴んでそう言ってやりたい。なのに父は死にかけてる。


——ミーンミーンミーン


暑い。


蝉の声が鬱陶しい。


誰か、何とかしてくれ。



その時、一陣の涼しい風が吹き抜けた。


「シゲ」


——チリン


鈴の音が聴こえた。母の袂に入っていた護り袋の匂い。翻った袂から垣間見える日の光。木に吊るされた鐘がチンと鳴る音。葉に降り注ぐ雨の雫が虹をつくる。


「お役目、ご苦労さまでございました」



帰宅した父を手をついて迎えに出た母の姿が目の前に甦る。無事の帰りの歓びを全身から溢れさせて。


——幻?


そうだ。母の気配を宿した何かが、そこに居た。床に伏した父のすぐ隣に。



フウと大きく重い溜め息を吐く。



そうか、父は役目を果たしたのか。

チラリと自分に投げかけられた優しい視線を感じて、そっと目礼する。



「あとは任せましたよ」


微笑を含んだ柔らかな母の声が聴こえた気がした。



  父は静かに息を引き取った。何十、何百、何千、何万もの命が消えるのに関わった男。


でも、その死に顔は安らかで微笑みをたたえていた。


鎌倉幕府第二代執権 北条義時の死を看取ったのは、自分と伊賀の方と異母弟の政村の三人。涙を流していたのは政村だけ。いや、後から駆け付けた尼御台様もか。大江広元殿は泣かぬ人。そっと目線を落として静かに微笑んでいた。恐らく、自分の死期が迫っていることも感じていたのだろう。


尼御台様のご意向により、父は頼朝公の墓所のすぐ脇に埋葬された。


「いつも将軍様の脇に控えていた人だから、やはり同じが安堵するでしょう」


尼御台様はそう言って笑った。


 だが、それから少しも経たぬ内に、その尼御台様も広元殿も亡くなり、幕府草創からの面子は消えた。でも幕府は続く。いや、続いてくれねば困るのだ。でないと京も、いやこの国はもう立ちゆかぬのだから。



数年後、承久の変の首謀者で、院の近臣の怪僧、尊長が捕らわれる。

「殺せ!早く首を斬れ!義時の妻が義時に飲ませた毒を寄越せ!」


自刃し損ねて牢の中で大騒ぎする尊長に、警護の者らが驚き慌てて報告してくる。


 騒ぎ立てる者らを宥めながら、そういうことかとやっと腑に落ちた。京の者らとて意地がある。父も尼御台様も将軍も鎌倉においてずっと狙われ続けてきた。隙を窺われていた。付け火に毒。何度も危うい目に遭った。でも何とか凌いでここまできた。そしてやっと幕府は安定しようとしている。



 父はきっと、生涯一途に母を愛し続けたのだろう。だがそれは、後妻として迎えられた伊賀の方にどれだけの苦しみを与えたかと思うと、どこかやりきれない気持ちが残る。


「フン。約束を違えて離縁するからいけないんだ」


 幼な子のように口を尖らせ、ひとりごちる。そうだ。二人が離縁しなければ伊賀の方が後妻になることもなく、父が毒で亡くなることもなかった。そして、もしかしたら母が死ぬことも……。


でも、そしたら自分は?


小さくため息をつく。


「架け橋、か」


自分は次は何の架け橋をすればよいのだろうか。


 大きな戦は無くとも、この世から争いが無くなることは恐らくない。それでも、少しでも平穏な、泰平の時を誰かが誰かと過ごすことが出来れば。より多くの笑顔が見られるのならば。

自分はその為に出来ることをしよう。


 泰時兄から届いた文をもう一度開いて目を落とす。


 泰時兄はある時、頼朝公に元服時に付けられた頼時という名から泰時に改名した。誰から譲られたわけでもない泰の字を冠するようになった。そう、恐らく泰平の世の先駆けとなる為に。


「皆の規範となるような式条(法令)を作ろうと思う」



墨付き良く、大きくはっきりと、とめはねはらいまで気の入れられた兄らしい筆跡と生真面目な文面に口の端をもたげる。それからゆっくり筆を取り、


「兄上の御心に私も添います」


さらりとそう返した。


 初代将軍——源頼朝公が亡くなり、そのあとを引き継いだ尼御台様、それを補佐した大江殿や父がいなくなっても、まだ泰時兄上が居る。自分も居る。それに政村だって。そう、誰でもいいのだ。将軍がいて、幕府という場があって、それに賛同する御家人という仲間たちが居れば。そして彼ら、我らを支えてくれる有象無象の存在も。泰平の世を目指して皆が力を合わせていければ、何かがきっと出来る筈。少しでも平穏な暮らしが続くような何かが。


 立ち上がり、半蔀に肘をついて空を見上げる。


——シャワシャワシャワ。

賑やかなクマゼミの声に目を細める。今日も蒸し暑くなるだろう。鎌倉でも蝉が鳴いてるだろうか。

 東に向かって部屋の中央に立ち、袖を捲り上げて襷を掛けると、継父が庭でやっていたように肩幅に脚を開いて腰を落とす。フゥーと長く細く口から息を吐き切ると、スゥと吸い込んで肚に気を溜める。それからパンパンと掌を二度打ち鳴らし、擦り合わせて額の前に掲げて祈りとする。母がやっていたように。それから顔を上げて、滲んだ汗を手の甲で軽く拭った。



「さてさて。では死なない程度にゆっくりじっくり、腹据えていこか」


文机の上に散乱する書類の束をコツコツと指で叩く。文机の下には日記。頭を整理するにはこれが一番だ。


 そう。日記と言えば、継父の和歌仲間でもある慈円殿が、この間フラリとやってきて呟いていた。


「先の執権殿は、武内宿禰の生まれ変わりであったのだろうな」


 彼の相変わらずの突飛な発想に、つい噴き出してしまったが、その後にツラツラと考えた。


 神武皇后を助けた武内宿禰。尼御台様を助けた江間義時。京の人々としては、無残な敗戦と失墜した権威の言い訳として、実は北条義時は武内宿禰の生まれ代わりで、神功皇后ならぬ北条政子を助けるお役目であった為に、帝を擁した朝廷側が幕府に敗戦したのも無理からぬ話だったのだと、そういう顛末にしたいのだろう。


 好きにすればいいさと思う。言い伝えなんて適当なもの。実際の彼らが何をしたか、思ったかなんて、彼ら以外の誰にもわからない。事実なんて後から幾らでも改変出来る。建てられた礎も風化して埋もれて見えなくなる。それでも何らかの軌跡が残る時もある。後に生まれた子らは、その上を踏み固め、遠い過去の気配を感じながら目の前に拓けた道を懸命に生きていく。



いつか、また逢えるだろうか。父と母に。


逢えたら言ってやろう。


もう離れるなよって。






——完

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義時という父、姫の前という母 山の川さと子 @yamanoryu

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