第41話

 カフェでのアルバイトを始めてから二週間が経過し、気づけば暦も変わっていた。

 店は相変わらず、いや初日のころに火をつけたような大繁盛ぶりだったが、かなり仕事に慣れてきたこともあってなんとか毎日をやり過ごせていた。


「遥くん! 四番テーブルお願い」


 千加さんの声に返事をして、手に持った料理を運んでからすぐ注文を聞きに行く。常に満席の店内でも、手持ち無沙汰な様子の客はほとんどいなかった。

 僕と千加さんとの連携は店長から太鼓判を押されるほどまで成熟していた。それはひとえに、彼女が僕の代わりに周囲をよく見てくれているおかげだ。

 彼方さんは最近調子がいいらしく、日中は病室でひたすら絵本の制作に打ち込んでいるようだった。一度経過を見たいと言ったことがあるけれど、「プロは中途半端なものを見せません」と丁重に断られた。

 すっかり見舞いに行くのにも慣れてしまい、今では受付に行くと、僕の顔を覚えている事務員の女性が半自動的に対応してくれるようになった。


「今日もなんとかピークは乗り切れたかな」


 正午からの殺人的な忙しさは、午後二時ほどになると少しだけ落ち着いてくる。額に滲んだ汗を拭いながら、千加さんはやっと一息つけるとばかりに厨房の椅子に座り込んだ。


「まだ結構な人数いますけどね」


 全席分の注文が通っているのを確認して、僕も少しだけ休憩をとる。ずっと立ちっぱなしだったおかげで、腰のあたりに鈍い痛みがあった。


「待ってる人がいないだけマシだよ。多分、今日が今年で一番多かったんじゃない?」


 血の気の引いた表情でそう言った千加さんは、コップに注いだ冷水を一気に飲み干して大きく息を吐いた。

 彼女の言う通り、今が今年一番の繁忙期なのは疑いようがない。学生バイトの身分である僕でさえ、ここ数日は一時間程度の残業が当たり前になっていた。彼方さんとの面会時間が減るのは痛かったが、予想外の収入が増えたことは嬉しい誤算だった。

 僕は最近、彼方さんの部屋で見かけた画材を買い集めていた。スケッチ以上のことに手を出すのは初めてで、まだ初歩すら踏み出せていないのだけど、かたちから入ることだって大切なはずだと自分に言い聞かせている。

 そうこうしているうちに、また店の扉が開く音がした。


「おっ、お客さんだ」

「僕が出ますよ」


 立ち上がろうとする千加さんを制止して、僕が接客にあたった。

 常に周囲が見えていて、気配りができるからこそ、今の千加さんは誰の目から見てもオーバーワーク気味だった。休めるときに休んでおいてくれた方が、後々の僕のためにもなる。


「いらっしゃいま……」


 言い慣れたはずの定型文が、衝撃によって途中で消えていく。

 そこには、あの河川敷での一件以降、声すらも聞いていなかった同級生、相沢佐紀の姿があった。


「久しぶり、遥くん」


 彼女の纏う雰囲気は、以前よりいっそう研ぎ澄まされているように感じた。よそよそしいだとか、そういう意味ではなく、一人の人間として完成度が上がっているような、そんな感覚だった。

 戸惑いつつも、僕は佐紀を席まで案内した。彼女は薄手のワンピースを着て、小さな鞄を肩に提げていた。


「どうしてここが分かったの」


 注文を受ける前に、まず口をついて出たのはそんな疑問符だった。


「別に調べあげたとか、そんなのじゃないよ。遥くん、学校にもアルバイトの申請出してたでしょ。それでこの間、先生からたまたま聞いただけ」


 涼やかな顔をして佐紀は答える。


「ていうか、すごいお客さんの数だね。忙しいのに遊びに来ちゃってごめん」


 遊びに来た、というのは誤魔化さないあたりが彼女らしい。


「大丈夫、これでも落ち着いてる方だし」


 僕が言うと、佐紀は同情の視線を浴びせてきた。


「遥くん、なんか大人になっちゃったね」

「自分では思わないけど」

「ちょっと寂しいけど、かっこいいからいいや」


 冗談のつもりなのか分からないことを佐紀は言う。


「僕を困らせに来たの?」

「違うって、厳しいなあ」


 正直さっきまで、来客が彼女だと分かって、それなりの気まずさを覚えていた。あれだけのことがあったのだから、そうなるのも当然だろう。目を潤ませながら立ち去る佐紀の顔を、僕は今だって鮮明に思い出せる。

 それに対して、今の彼女はどうだ。

 あくまで僕の主観にすぎないけれど、佐紀はどこかすっきりとした表情をしているように見えた。以前のように、憑き物を背負って重苦しく歩いていた彼女とはまるで違う生き物みたいだった。

 少しの間を置いて、佐紀は飲み物とチーズケーキを注文した。「あんまり気にしないで、今日の私はお客さんだからね」と彼女は付け加えた。


「かしこまりました、少々お待ちください」


 普段通りなのに、知り合いが相手だとどうもままごとじみて感じる。とにかく注文を通すために厨房の方へと向かった。すると、まだ休憩中の千加さんに声をかけられる。


「あの子、友だち? 同級生とか?」


 彼女はどうも僕と佐紀のやり取りを遠巻きに見ていたらしい。


「まあ、はい」

「ふうん、遥くんってモテんだね」


 そんなふうに茶化す千加さんの言葉を即否定することができなかった。過程がどうであれ、佐紀が抱いてくれていた気持ちの数割はそういう好意でもあっただろうから。ここで否定するのは、彼女のことも否定することにもなるかもしれないと思った。


「途中で抜けていいからさ、話してきなよ」


 僕が何も言い返せないでいると、千加さんは何かを察したようにそう言った。


「いや、さすがに悪いですよ」

「じゃあ、彼方に言っちゃおうかな。『今日、同級生の女の子が遥くんに会いに来てたよ』って」


 千加さんは僕のあしらい方を熟知しているらしい。見事に選択肢を奪われた僕は、結果的に彼女の言葉に甘えることにした。

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