第10話

 結論から言うと、僕は彼女のことを無下にはできなかった。

 さすがに家の中に上げるのは色々な点から躊躇われたので、僕は彼女を連れて、一人でたまに足を運ぶ駄菓子屋の前に向かった。

 最近ペンキを塗り替えたのか、駄菓子屋の前に置かれているベンチの緑色がやけに明るかった。

 適当に持ち合わせの金で駄菓子を買ってから、僕はベンチで待っていた相沢の横に腰かける。自立しないビニール袋は、二人の間で力なく寝そべっていた。


「どれがいい? 好きなの取って」

「……これ」


 相沢は迷いながら、十円の当たり付きチョコを選んだ。


「ありがとう」


 僕が自分の分を選ばないうちに、隣からピリピリと包装を剥がす音が聞こえてくる。相沢は包装紙の裏側を確認していたけれど、何も言ってこないあたり、おそらくはずれだったのだろう。


「おいしい」


 たった十円で口角を上げる相沢を横目に見ながら、普段からそんなふうに振る舞えば楽だろう、と僕は思う。多分、これも勝手な押しつけだ。


「で、何を話すの?」


 本題に入ろうと、僕は相沢に話を振る。イチゴ味のガムは、想像通りの安っぽい味がした。


「……そうでした。あの」

「待って。その丁寧語、っていうのかな。嫌じゃなかったらなんだけど、やめてほしい。なんかあんまり話が入ってこない感じがする」


 彼女のあからさまに慣れていない『です』『ます』調の喋り方は正直、使われていてずっと居心地が悪かった。それが典型的なコミュニケーションの不慣れからくるものだと知っているからこそ、余計に。


「うん、分かった。……あのね、私、遥くんとならちゃんとした話ができるのかもしれないと思ってて。その、特定の何かを話したいとかじゃないんだ、ごめん。自分でもこういう気持ちを、なんて言ったらいいのか分かんなくて」


 言葉の合間に挟まれる小休符から、彼女が焦っているのが分かる。明確な要件もないのに会話がしたいだなんて、気持ち悪いですよね。そんな心境が露見していた。

 でも、僕には少し相沢の気持ちが分かるような気がした。それこそ彼女が抱え込んでいる感情のひとつまみ程度のものだろうけれど、僕だって似たようなことをよく考える。

 他人の目が怖いくせに、ときたま無性に誰かと会話がしたいと思う。そこに意味があるかどうかは二の次で、ただ心のうちだけをぽつぽつと並べ立てていくような、そんな取り留めのない話をしたいと。

 まあこれは、あくまで僕の感性にすぎない。


「別に謝らないでいいよ。分かってると思うけど、僕も今までろくに話してなかったクラスメイトと円滑に喋れる自信なんてないしさ」


 言ってすぐ、もっと遠回しな言い方にした方がよかっただろうかと思った。


「それ、そういうの。私、そういうふうに話してほしかった」

「……どういうこと?」

「変に何かに包んだりしないでほしい。思ったことを淡々と言ってほしい。でも、そういうのって人にお願いするものじゃないから、今まで難しくて。人と話してると気持ち悪くなるの、分かる? 『ああ、今この人は外面で喋ってるんだな』っていう、あれ」


 僕は相沢の問いかけにすぐ答えられなかった。それは彼女の言っていることの意味が汲み取れなかったからじゃない。驚いていたからだ。

 相沢の言葉は、そのほとんどが僕の普段考えていることと一致していた。きっと他の誰に言っても取り合われないような、いかにも教室のはずれ者同士が考えそうなことだと思った。


「分かるよ。でも、きっとみんな上手く生きていこうとしてるだけなんだ。ただそうするには遠回しな言い方と、嘘が必要だから、それが使えない人間がつまはじきにされる仕組みの世の中がおかしいんだよ」


 僕が言っているのは当たり前のことだ。こんなこと、きっと彼女も分かっているだろう。

 だからこそ。

 当たり前のことに疑問を呈すことができる彼女は、とても希少な人種だ。それこそ、友達なんかろくにできない。

 僕はその不器用さから、愚直さから、目をそらせなかった。いつか自分が諦めていた普通とかいう障壁に、彼女は今でもあえて躓いているのだ。

 おそらくは、彼女が彼女でいるために。


「……うん。今日、遥くんに話しかけてよかった」


 相沢は妙に納得したような様子だった。


「別に、相沢さんの助けになるようなことは何も言ってあげられてないけど」

「佐紀でいいよ、遥くん」


 そう言う彼女は、今日見た中で最も柔らかな表情をしていた。憑きものが一つ落ちたような、そんな顔だった。けれどまだ、彼女の背中にはいくつもの重みがのしかかっているのだろう。


「明日って、学校来るの?」

「いや、行かないと思う」

「どうして?」

「夏休みだから」


 僕が馬鹿なことを言ったので、佐紀は小さく吹き出す。


「いいなあ、私も今日から夏休みにしたい」

「正直、あんまりおすすめしないよ。メリットなんて一つもないし」

「へえ、分かってるんだ」


 彼女は僕なんかよりも立派に高校生をやれている。たとえ救われなくとも、自分から自分の首を絞めるようなことはしない。同じ教室の傍観者として、一つだけ確かなことがある。

 彼女は決して、他人も自分も苦しめない。


「これはただの客観的な意見なんだけど、あんまり僕に関わらない方がいいと思う」


 そして、僕は他人を苦しめたくない。


「嫌だ」


 彼女は突き放すような声で答え、「私は私のしたいようにするから」と続けた。

 それから僕が何か言い返す暇もないまま、相沢はどこかへ走っていってしまった。

 萎んだビニール袋と一緒に置き去りにされた僕は、口の中の甘い味がなくなるまで呆然としていた。

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