あの時の鶴です

銀色小鳩

あの時の鶴です

 わたしの前にその女が表れたのは、雪の降る二月の夜だった。

 すきま風が入らないようにきっちりと閉めた窓に、ぴたりと白い女の手がくっつき、ついでももう片方の手のひらもくっついた。ああこれはお化けだ。たぶんそう。


「夜分遅くにすみません」


 声まで聞こえる。

 わたしがその女を家に入れようと思ってしまったのは、病んでいたからだ。病んでいるときのほうがなぜかお化けに好かれる。人間の形をしているには、わたし自身がもうギリギリだから、向こうからも仲間に見えるのだろう。


「入ります?」


 わたしがそういって大きな窓をあけた途端、白い姿がするりとすきま風のように入ってきた。

 ああ、お化けをみずから招き入れてしまった。もうこれは明日はわたしの命がないのかもしれない。お化けにやられるのか、じぶんの手にかかるのか。もしくはどっちも満たした流れで、わたしは自らにさよならを告げるのか……。


「あのときの、鶴です」


 そう言って、女はまっしろな顔をして、黒い髪に雪をまとわりつかせたまま、わたしの渡すタオルを受け取った。唇だけ妙に真っ赤だった。人でも食べてきたのかな。


「あのときのって、いつですか?」

「お江戸で大火があったぐらいの時期ですか」

「ひとちがいです」


 江戸時代に生きていた記憶はないから、ひとちがいだろう。しかし女は言い張った。


「あと、都が平城京に変わった年にも会いましたね」


 江戸と平城京ってだいぶ離れている気がする。


「生まれ変わりって信じますか」


 雪に声が沈んでいってしまうのではないかというほど小さな声をわたしに落として、女はタオルをわたしの首に巻いた。


「やっぱりお迎えにきたマボロシ系のかたですかね。わたしまた、今日生まれ変わるはめになるんですかね」


 問うと、彼女はタオルに力を入れるのをやめた。


「そのタオル、脱衣所にほっぽっといてくれませんか。あとで洗うから」

「あなたは本当に憎らしい人」


 すうっと音もなく女は脱衣所に消え、ああ消えたなと思って明かりを消そうとすると、まだいた。部屋のすみに。

 彼女は静かに言う。わたしがソファに座っているのにずっと立ったままだから、いよいよ幽霊めいて見える。


「機を織らせたと思ったら、肉まで要求して。私を助けてくれたはずのあなたが、私を焼き鳥にして食べた……あの日から私は生身の体を失いました。この恨みはけっして忘れません」


 ……恩返しじゃなくてお礼参りかこれ。やばいほうの。


「鶴って食べられるんですか」

「江戸時代までは食べてましたよみんな。あなたも……」


 女はすこしずつ近づいてきている気がする。歩いていないのに、さっきから距離が近くなってきている。ほら、いまもうわたしに触れられる位置にいる。


「だから、私があなたを食べても、あなた、文句言えないと思うんですよ」


 ぞくっと皮膚が警報を発したとたんに、女はわたしの首に白い手をかけた。


「あなたが私の血をすすったように、私があなたの魂をすすっても、あなたは文句が言えない」


 そして、わたしにとって魅惑的な誘いの言葉を口にした。


「でももし、あなたが、人間でいることをそろそろやめる気があるなら、あなたを鶴の姿に変えてから、細い首を手折ってあげましょう。生まれ変わりはもうしなくなりますが、千年以上の命を得られますよ。どちらにしますか……?」


 人間でいることをやめても、自分からは逃れられないのか。それならどちらでも同じことだ。


「焼き鳥にしたこと、覚えてないです。すみません」


 女がわたしの唇に唇をつけた。

 すうとなにかが抜かれる気がした。


「私は美味しかったですか?」


 ふうと唇から入って来た呼気はわたしの体を風のように巡り、わたしの体が気がつくと軽くなっていた。ああわたし、死んだかな、これ。女は恨みがましそうに口の端を上げた。


「わたしはあなたの鶴です。薬効のある霊鳥がこうしてわざわざ来てあげたのですから、無駄なことで悩むのはやめたらいいですよ。あなたが人間でいるのがお嫌になったときに、また風を入れにきますね」


 女はふわっと笑ってそのまま消えた。

 その晩から、悪夢を見なくなった。あの鶴はなぜわたしのもとに来るのだろうか。なぜわたしは彼女を焼き鳥にしようなどと思ったのだろう。鶴の薬効を、わたしは生まれる前からずっと求めてきたのだろうか。

 悪夢を見なくなったわたしは満ち足りて、そして確かに、時間の流れの外にいる存在があるのだということを感じ取った。


 人間でいるのが嫌になったとき……それを楽しみに、まだ人間でいてもいい。

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